明治維新での改革は農民や士族の不満を募らせ、一揆や反乱を引き起こしました。しかし、近代的な兵器や軍制に支えられた明治政府の近代的な軍事力の前に、武力での訴えは、ことごとく鎮圧されてしまいました。明治政府へ対抗するには、武力に頼らず、言論を使った活動が活発化していくことになりました。
- 政治改革による農民と士族の反乱
- 西郷隆盛による西南戦争
- 自由民権運動と議会政治の始まり
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#30
明治維新での改革は農民や士族の不満を募らせ、一揆や反乱を引き起こしました。しかし、近代的な兵器や軍制に支えられた明治政府の近代的な軍事力の前に、武力での訴えは、ことごとく鎮圧されてしまいました。明治政府へ対抗するには、武力に頼らず、言論を使った活動が活発化していくことになりました。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
明治政府は、近代国家建設を目指すために、富国強兵政策を矢継ぎ早に導入します。急激な改革は、農民や士族に大きな負担をかけたことで、各地で抵抗運動が引き起こされました。
明治政府は、近代国家の建設に向けた財政基盤の確立を目指し、1873年に従来の年貢制度を廃止して「地租改正」を断行しました。それまでの年貢制度では、収穫量や地域ごとの慣習に応じて「物納」での納税負担となっていました。しかし、新制度では土地の地価を基準とした3%の税率が課され、しかも現金で納税することが義務化されました。
この改革は政府にとっては安定財源の確保を意味しましたが、農民にとっては、豊作でも不作でも同額を現金で納めねばならないという、過酷な負担の始まりでした。
特に冷害や水害などの自然災害により収穫が減った年には、現金での納税が困難を極め、米や野菜すら手放して税を納める農民も現れました。このような生活の逼迫は、次第に政府への不満として蓄積され、やがて各地で抗議の声が一斉に上がりはじめたのです。
また、同じく1873年に徴兵令も発布され、従来は武士が担っていた軍役が、平民にも課されるようになりました。働き手である男性が徴兵されれば家業が立ちゆかなくなる農家も多く、また、神仏に仕える家系や被差別部落出身者にも徴兵義務が課されることへの反発も広がりました。被差別部落出身者と同じ部隊で同じ釜の飯を食うことに対する抵抗感が当時はまだ根強かったのです。加えて、小学校設立による教育への負担など、農村社会の価値観や生活様式が急速に変化し、民衆の動揺は拡大の一途をたどっていきました。農民は「地租軽減」「旧来の年貢制度の復活」などを要求し、各地で一揆が発生しました。
こうした背景のもとで明治初期に発生した農民一揆は、単なる税負担への反発にとどまらず、「徴兵制度の撤廃」や「小学校建設反対」など、生活全般に関わる多様な要求を内包していました。地租改正による生活苦に加えて、急激な近代化による社会の変化が、農民の不満を複合的に噴出させた結果だったのです。
地租改正をめぐる農民の怒りは、1875年から1877年にかけて全国各地で一揆という形で爆発しました。中でも有名なのが、1876年の「伊勢暴動(三重県)」や、翌1877年に茨城県で発生した「真壁騒動」です。これらの事件では、農民たちが村役人を襲撃し、納税反対の請願書を提出するなど、組織的な抵抗を見せました。暴動は単なる感情的なものではなく、明確な政治的要求と意思表示を伴った社会運動へと発展していたのです。これらの一揆では、農民たちが地租改正の過酷さに抗議すると同時に、租税の軽減を求める動きが強調され、政府に対する批判が全国的に広がる結果となりました。
全国的な一揆の広がりを受け、明治政府はついに政策の見直しを迫られます。1877年、地租の税率を3%から2.5%へと引き下げ、あわせて町村が負担していた「民費」も半減されました。これは、政府が初めて大衆の声に応じた象徴的な出来事であり、民衆の政治意識を高める契機ともなったのです。
近代国家の建設を急ぐ明治政府は、封建的な身分制度の撤廃を進め、武士階級である士族の特権を次々と廃止していきました。その過程で、江戸時代に生活の基盤となっていた「家禄」(俸禄制)も廃止され、武士たちは経済的な柱を失います。さらに、1876年には「廃刀令」が公布され、帯刀の自由さえも禁じられたことで、武士の誇りやアイデンティティまで奪われることとなり、士族の不満は一気に高まりました。
江戸時代に武士が生活の基盤として受け取っていた家禄制度は廃止され、代わりに金禄公債証書が支給される「秩禄処分」が実施されました。この政策により、従来の安定した収入を失った多くの士族は、急激な経済的困窮に陥ることとなりました。
家禄の廃止は「秩禄処分」として実施され、多くの士族には代償として「金禄公債証書」という年利5%の公債が交付されました。しかし、それから得られる収入だけでは困、生活資金としては十分なものではありませんでした。困窮した士族たちは商業や開拓に活路を求めましたが、慣れない経済活動は失敗に終わることが多く、「士族の商法」と揶揄される始末でした。政府は一部の士族に「士族授産」として北海道屯田兵などの職を与えましたが、それも根本的な解決とはなりませんでした。
士族の不満が最初に本格的な武力行動として現れたのが、1874年の「佐賀の乱」です。中心となったのは、司法制度の整備に尽力しつつも政府と対立して下野した江藤新平で、彼は旧士族の不満を糾合し、一時は佐賀県庁を占拠する事態にまで発展しました。
しかし、明治政府は近代的な官軍を動員してこれを短期間で鎮圧し、江藤新平は捕らえられ、斬首刑に処されます。近代国家の秩序を乱す者への政府の厳しい姿勢が、世に示された事件でした。
佐賀の乱の翌年、1876年には士族の反乱が連鎖的に各地で勃発します。熊本では神道的な儀式と精神主義を重んじる神風連が、廃刀令に反発して挙兵し、夜襲を仕掛けて警察署などを襲撃。しかし官軍の近代的な装備によって鎮圧されました。福岡で起きた秋月の乱も、士族による反政府行動として同年に起こりますが、やはり武装の格差から短期で制圧。さらに、明治維新の功労者・前原一誠が率いた萩の乱もまた、士族の誇りを守ろうとする試みでしたが、圧倒的な近代的兵力を前に敗北しました。
これらの反乱はいずれも士族の最後の矜持を賭けたものでしたが、明治政府の近代軍の前には太刀打ちできなかったのです。
西南戦争は、倒幕・明治新政府成立における最大の功労者の一人である西郷隆盛を中心に1877年に起きた最大の士族の反乱です。鹿児島士族を中心に約4万人が政府に反旗を翻し、九州全域で激しい戦闘が展開されました。
かつて政府の中心人物だった彼は、1873年の征韓論争で明治政府内の政争に敗れ下野し、郷里の鹿児島で私学校を設立して若者の教育に尽力していました。その西郷のもとに集ったのは、特権を奪われた士族たちでした。彼らは西郷を精神的支柱として担ぎ上げ、最後の反抗に立ち上がったのです。
明治政府は、西郷の私学校を士族反政府思想の温床と見なして厳重に監視していましたが、薩摩藩の弾薬庫から武器を持ち出したことで両者の緊張は頂点に達し、ついに1877年2月、鹿児島の私学校生徒たちが政府の弾薬庫を襲撃しました。政府による西郷暗殺の噂も飛び交う中、西郷は「義を貫くために立たねばならぬ」として挙兵を決意。薩摩士族約1万3千を率いて熊本へ進軍し、西南戦争が幕を開けたのです。
薩摩軍が最初の標的と定めたのは、九州の要衝である熊本城でした。この城はかつて戦国時代の名将・加藤清正が築いた堅固な構造を誇り、近代的な火器を備えた政府軍約4,000人が守備についていました。これに対し、西郷軍はおよそ14,000の兵を率いて包囲戦を開始しますが、熊本城の高い石垣と最新式の装備、さらに練度の高い守備兵によって攻撃は難航。西郷軍は城を落とせず、戦局はこう着状態に陥りました。
この間に政府は続々と援軍を送り込み、周辺の制圧と西郷軍の包囲を進め、戦局は次第に西郷軍に不利に傾いていきました。戦局の転換点となったのが、1877年3月4日から17日間にわたり続いた「田原坂の戦い」です。この激戦では、ぬかるんだ坂道を挟んで両軍がにらみ合い、連日の銃撃戦と白兵戦が繰り広げられました。政府軍は最新式のライフル銃と機関銃を装備し、戦術面でも欧米式の近代的指揮系統を導入していました。一方の西郷軍は、勇敢な突撃や武士道精神に支えられた戦法で応戦しましたが、次第に火力と物量の差が明確になっていきます。
田原坂では両軍あわせて1万人以上の死傷者を出す大激戦となり、西郷軍はついに敗走。この戦いを境に、政府軍の主導権が完全に握られることとなります。
西南戦争は、日本における“近代国家”と“旧武士的価値観”の最終的な武力衝突でした。徴兵制によって組織された官軍が、伝統的な忠義と武士道を重んじる西郷軍を圧倒したこの戦争は、象徴的な意味を持ちました。政府はこの戦争を通じて、自らの近代化路線の正当性を武力で証明し、同時に士族による武力反乱の可能性を完全に封じ込めたのです。西南戦争の終結とともに、士族による武装反乱は幕を下ろしました。この敗北は、士族にとって軍事的手段による政治関与がもはや不可能であることを痛感させる結果となります。以後、士族や民衆の不満は、言論や政治運動という新たな手段へと向かい、「自由民権運動」という形で爆発していくのです。
士族反乱の終焉を告げた西南戦争の後、政府に不満を抱く人々の声は「武力」から「言論」へと移行していきました。その中心となったのが、板垣退助をはじめとする自由民権派の人々による国会開設・憲法制定を求める運動でした。
1874年、彼らは「民撰議院設立の建白書」を政府に提出し、国民の声が政治に反映される仕組みの必要性を強く訴えます。この建白書の提出を契機に、全国で政治結社や演説会が広まり、知識人や地主・豪農を中心に民意の高まりが可視化されていきました。
明治新政府の成立後、政府は富国強兵を推進し、中央集権的な政治体制を確立する一方で、士族や農民などの間には政府への不満が高まっていました。
自由民権運動は、1873年の明治六年の政変で政府を去った板垣退助らを中心に始まった運動です。明治六年の政変は、征韓論を巡って政府が分裂し、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎らが政府を去ることになった事件です。
自由民権運動の原動力となったのは、この1873年の「明治六年の政変」で政府を去った板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らでした。政変のきっかけとなったのは、朝鮮への武力使節派遣を巡る「征韓論」の対立であり、西郷隆盛の下野とともに、国内の政治に亀裂が走った瞬間でもありました。
政権から離れた板垣らは、政府に対し「議会の開設こそが民意をくみ上げ、国家を安定させる唯一の道である」と訴え、近代的な政治体制の確立を目指して運動を開始します。
板垣らは、建白書提出と同年に日本初の政党的組織「愛国公党」を結成。この団体を起点に、民間からの議会政治導入への声が各地へと広がりを見せていきました。
地方では「政談演説会」や「新聞」を通じて民意が育まれ、特に農村部では豪農や地主層が地域のリーダーとして政治参加を志すようになります。自由民権運動は、単なる士族の不満の代弁にとどまらず、民衆による近代国家形成のうねりへと成長していったのです。。
運動の最大の目標は、国民が選んだ議員による国政参加、すなわち「国会の開設」でした。1880年には全国の自由民権派が集まり、「国会期成同盟」を結成。署名活動によって8万7千人分もの請願書を政府に提出し、国会開設の声はもはや無視できない国民的要求となっていきました。
この流れを受けて政府も態度を軟化させ、1881年、ついに「国会開設の詔勅」を発表。10年後の1890年に国会を開設することが約束され、自由民権運動は大きな節目を迎えることになりましたが、そこに至るまでの流れを確認しましょう。
民選議院設立建白書は1874年、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らが政府に対して提出したもので、日本における本格的な議会政治の導入を要求する提言です。
民選議院設立建白書では、市民の政治参加と民意の反映を求め、民主主義の基盤確立を主張しました。1874年1月17日、建白書は政府の立法諮問機関である「左院」に提出され、翌日、日刊新聞「日新真事誌」がこの建白書を全文掲載したことで、全国に広く知れ渡ることになります。この報道をきっかけに、多くの人々が政府の政治体制に疑問を抱き、議会政治の必要性を意識するようになりました。
建白書では、政府が一部の官僚に独占され、政令が頻繁に改正される現状に対して、国民が直接意見を述べる場が設けられていないことが問題視されました。また、上級官僚の権限を制限し、民選議員を設立することで公議世論を尊重する必要性が訴えられ、これが後の国会開設運動における基本理念となっていきました。
政府は、建白書を提出した板垣退助らに対して公式には取り合わなかったものの、1875年大阪会議で 政府は板垣退助らと交渉し、漸次立憲政体樹立の詔を出し、将来的に立憲政治へ移行する方針を示しました。
また、元老院(法案審議機関)・地方官会議(地方自治議会)・大審院(最高裁判所)を設置することで、議会政治へ向けた布石を打ちました。
その後、全国各地で民権派の政治結社が誕生し、1880年には国会期成同盟が結成され、8万7000人以上の署名を集めて政府に国会開設を請願しました。
政府は国会設立の要求が全国に広がる中、1890年に国会を開設することを公約しました。これにより、日本は本格的な立憲政治へと移行していくことになります。
民選議院設立建白書は、直接的には政府に受け入れられませんでしたが、国会開設に向けた議論が活発化し、体制改革の契機となり、後の帝国議会設立など、近代議会政治の形成に寄与しました。
明治時代の自由民権運動は、日本の近代政治における大きな変革を促した。その運動のなかで、新聞や雑誌は民権思想を広め、民衆の政治意識を高める重要な役割を果たしています。
当時の代表的な新聞には、『自由新聞』や『郵便報知新聞』があり、自由民権思想を広める役割を担いました。また、徳富蘇峰による『国民之友』などが、民権思想を広め、国民の政治参加意識を喚起する上で中心的な役割を果たしました。これらのメディアは、政府批判のみならず、具体的な国家体制の提案を行うなど、その活動は多岐にわたりました。
言論活動の広がりに対し、政府は危機感を抱き、言論統制を強化していきます。
1875年の大阪会議を経て、立憲政治への移行が確約されたものの、政府は民権派の急進的な活動を抑え込むため、1875年に讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を制定し、政府批判を行った新聞や雑誌の取り締まりが強化されました。
これにより、民権派の言論活動は大きく制限され、多くの新聞が発禁処分を受けることになります。1875年に創刊され、読者からの投書を多く掲載し、多様な意見を紹介する新聞であった評論新聞や学術的な記事を掲載し、民衆の啓蒙に努めた明六雑誌が廃刊に追い込まれました。
こうした弾圧の影響で、自由民権派のメディア活動は困難を極めましたが、一方で政府の強硬姿勢に対する反発も生まれます。
1880年代に入ると政府の言論弾圧はさらに強化され、1887年には、保安条例が制定され、民権派の政治集会や結社が厳しく取り締まられました。政府に反対する民権派の言論活動はますます抑圧され、多くの活動家が逮捕・追放されていきます。1887年に起こった三大事件建白運動は、言論・集会の自由を求めた民権派の言論活動の最後の大規模な抵抗でしたが、政府は保安条例の即日施行により約600名の活動家を東京から追放し、徹底的に弾圧しました。
政府の弾圧は民衆の反発を生み、自由民権運動の影響はより大きくなり、最終的には政府も立憲政治の導入を進めざるを得なくなりました。
言論活動を通じて民権派が主張してきた国会開設の要求は、1881年の国会開設の詔につながり、1890年の帝国議会設立へと結実していきました。
1889年発布の大日本帝国憲法にも、民権派の意見も一部反映されています。民間でつくられた私擬憲法にあった「立憲君主制」や「国民の権利の保障」といった概念も大日本帝国憲法に含まれているものもあります。
明治政府は、富国強兵と文明開化を掲げて近代国家への転換を進める中で、従来の幕藩体制を解体し、中央集権的かつ近代的な国家体制を構築するための制度改革に取り組みました。国内の反発を乗り越え、また欧米列強との対等な外交関係を築くためにも、憲法制定や議会開設など、政治制度の近代化は避けて通れない道だったのです。
1885年、日本は長年続いた太政官制を廃止し、新たに近代的な内閣制度を導入しました。
明治政府は発足当初、旧来の「太政官制」(律令体制に基づく中央官制)を暫定的に継続していました。しかし、太政官制では政策決定や執行における権限の線引きが曖昧で、行政機構の効率的な運用が難しいという課題がありました。
1885年、伊藤博文を中心とする政府首脳は、欧米諸国、特にドイツやイギリスの制度を参考にして、内閣制度の創設を決定します。これにより太政官制を廃止し、内閣総理大臣を中心とする近代的な行政システムが導入されました。初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任し、明確な権限配分と責任体制のもとで政府運営が行われるようになりました。
内閣制度の確立は、明治国家が「一君万民」の原則に基づく中央集権体制を整える大きな一歩でした。各省庁の権限が制度的に整理され、国政運営の効率化が実現されたことで、外交交渉や殖産興業政策の遂行が加速しました。さらに、憲法制定と議会開設に向けた政治改革の前提としても、内閣制度は不可欠な制度的基盤となったのです。
1882年、明治政府は憲法草案の策定に向けて、伊藤博文をヨーロッパに派遣し、憲法制度の調査を実施しました。伊藤はベルリンでドイツ憲法学者グナイスト、ウィーンでモッセ・シュタインらから指導を受け、特にプロイセン憲法の強い天皇権限と官僚統治体制に注目しました。
帰国後、伊藤は井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らとともに憲法起草作業を進め、枢密院による慎重な審議を経て、1889年(明治22年)2月11日に「大日本帝国憲法」が発布されました。
この憲法は、日本初の成文憲法であり、アジア初の近代憲法としても注目を集めました。形式上は「欽定憲法」、すなわち天皇が自ら制定し、国民に与える形をとり、統治権の根源は天皇にあるとされました。天皇は国家の元首として軍の統帥権、条約の締結権、官吏の任免、緊急勅令の発布権など広範な権限を保持しつつも、それらの行使は憲法の枠内に制限され、立憲君主制の形式がとられました。
また、憲法により二院制の議会制度が整備されました。貴族院は皇族・華族・高額納税者・勅選議員などから構成され、衆議院は選挙によって選ばれるものの、被選挙権は「国税15円以上を納める25歳以上の男子」に限定されており、参政権のある国民は当時の人口における1%程度でした。
大日本帝国憲法の制定は、国家の統治に法的正当性を与え、欧米列強に対して日本の文明国としての地位をアピールする強力な手段となりました。憲法と議会制度の導入により、日本は「立憲国家」として国際的な信用を高め、後の不平等条約改正交渉にも大きく寄与しました。また、制度的には限られた参政権ではあったものの、「国民が政治に参加する道」が初めて制度的に保証され、やがて政党政治の発展や普通選挙運動へとつながる土壌が築かれていきました。
1890年11月、日本初の国会として「帝国議会」が開設されました。1889年に発布された大日本帝国憲法に基づき、近代的な立憲政治を実施するために設けられた二院制の議会です。第一回衆議院議員総選挙を経て、国民から選ばれた衆議院と、華族・勅選議員からなる貴族院が発足し、日本における議会政治が本格的に始動しました。
憲法発布の翌年、1890年7月には日本初の衆議院総選挙が実施されました。有権者は約45万人、被選挙権も納税資格によって制限されていましたが、この選挙では板垣退助ら自由民権派を中心とする「民党」が多数を獲得し、政府に対抗する政治勢力としての地位を確立します。
同年11月には、いよいよ第一回帝国議会が開かれました。衆議院と貴族院の二院制による議会政治が本格的に始動したのです。
帝国議会の開設は、専制的な官僚統治から「国民参加型政治」への歴史的転換点でした。たとえ参政権に大きな制限があったとはいえ、議会という制度を通じて政府に対して民意を表明する仕組みが生まれたことは、明治国家にとって画期的な出来事でした。
民党は「地租軽減」や「政費節減」など、国民の生活に即した政策を掲げ、政府に対して積極的に対抗しました。この段階での議会は、国政の場というよりも、政府と政党が激しくぶつかり合う「政治訓練の場」として機能していくことになります。
1890年11月、帝国議会が開設されると、国民の選挙によって成立した民選の衆議院と、華族や天皇の勅選議員で構成される貴族院の二院制が運用されるようになりました。明治政府は憲法発布時に「超然主義」を掲げ、政党に左右されず政策を遂行する姿勢を示していましたが、実際には衆議院で多数を占めた民党(立憲自由党や立憲改進党など)が、政府に対する改革要求を強く押し出し、議会と政府の間に激しい対立が生じました。
帝国議会の開設とともに、本格的な政党政治が動き出しました。多数派を占めた民党(立憲自由党・立憲改進党など)は、「民力休養・政費節減」をスローガンに、庶民の負担軽減と政府支出の抑制を訴えました。一方、政府側は当時高まっていた清国との緊張関係を背景に、軍備拡張を進める必要性を主張し、予算増額を求めて民党と対立。衆議院ではたびたび予算案が否決され、政府は議会の解散や選挙干渉などの強硬策に出ざるを得ませんでした。
第1次山県有朋内閣、第1次松方正義内閣の時代には、政府と民党との激しい対立が続きました。1892年の第2回衆議院選挙では政府による選挙干渉が行われ、多くの暴力事件が発生するなど、政党政治の未成熟さも露呈しました。それでも、この激しい政争の中で政党の意義と議会の必要性が社会に浸透していき、のちに政党内閣制の成立(1900年以降)*へと発展していく礎が築かれていったのです。
明治政府が断行した一連の急激な制度改革は、近代国家としての基盤を確立するために不可欠なものであった一方、地租改正、徴兵制度、武士階級の特権廃止といった政策が、直接的に国民の生活と精神に大きな負担をもたらし、各地での一揆や反乱、さらには西南戦争という大規模な武力衝突へと発展しました。
しかし、こうした反発と犠牲の連鎖は、結果として国民の政治意識を刺激し、自由民権運動や国会開設運動といった形で、近代国家としての体制整備と国民参加型立憲政治への道を切り開く原動力となったのです。