日本における人類の歴史は、まだ大陸と地続きだった頃に、大型動物を追って流入したり、海流に乗って島嶼部からやってきたりしたところから始まります。その後、温暖化に伴い海面が上昇したことで、日本列島は大陸から独立。旧石器時代、縄文時代へと独自の発展を遂げることになります。
- 人類発展の歴史と日本列島の始まり
- 旧石器時代の特徴
- 縄文時代の特徴
歴史年表だけでは語り尽くせない人々の生活の様子や、後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#01
日本における人類の歴史は、まだ大陸と地続きだった頃に、大型動物を追って流入したり、海流に乗って島嶼部からやってきたりしたところから始まります。その後、温暖化に伴い海面が上昇したことで、日本列島は大陸から独立。旧石器時代、縄文時代へと独自の発展を遂げることになります。
歴史年表だけでは語り尽くせない人々の生活の様子や、後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
地球上に人類が誕生した後、地形変動が起きる中で、日本列島には人類やさまざまな生き物が移り住むようになります。日本史のはじまりとも言える、先史時代の様子を紐解いてみましょう。
今からさかのぼること約500万年前から1万年前にかけての期間は、地球の気候変動と地形変動が動物や人類の進化に大きな影響を与えた時代です。この時期を、地質学的な時代区分では鮮新世、更新世、完新世と呼びます。
地球上に人類が現れたのは、約500万年前の鮮新世初期にさかのぼります。
この時期は、地球の気候が徐々に冷涼化し、地形や生態系に大きな変動が見られた時代でした。
陸上にいる哺乳類の大型化が進み、南アフリカでは初期の人類であるアウストラロピテクスが現れています。彼らは二足歩行が可能で、森から草原へと徐々に活動範囲を広げていきました。
鮮新世に続く更新世(約258万年前〜1万年前)は、いわゆる氷河時代にあたります。地球全体で氷河期と間氷期(比較的温暖な時期)を4~5回繰り返しており、海面の激しい下降と上昇が起きたと考えられています。また、火山活動や地殻変動によって、地形にも大きな変化が現れています。
完新世は、更新世ののち、約1万年前に始まり、現代まで続いている時代です。完新世の時代は、気候が安定し、温暖になったことで、動植物が活発に活動するようになりました。それに伴い、人類の人口も爆発的に増加していったのです。
約500万年前からの地球の気候変動と地形の変遷を経て、人類はその進化の歩みを続けてきました。日本列島は氷河期には、大陸と地続きだったことで、さまざまな生物がこの地に到達することになります。
更新世(約258万年前〜1万年前)に当たる時期は、地形の変化や海面の下降により、日本列島は大陸と地続きとなっていました。その期間に、大陸から対馬海峡や津軽海峡を渡ってナウマンゾウやマンモスといった大型動物が日本列島へ移動し、それらの大型動物を追って人類も日本列島へと流入してきたと考えられています。また、日本の南などから海流に乗って日本列島に到達した人類もいたものと考えられています。
約1万年前に完新世になると、気候が温暖化し、氷床が溶けて海面が上昇しました。この海面の上昇により、日本列島は再び大陸から切り離され、現在のような島国としての地形が形成されたのです。
今のところ猿人・原人・旧人が日本にいた証拠は見つかっておらず、日本で発見された化石人骨は、いずれも更新世の末期から完新世にかけての「新人」段階のものです。有名なものとしては、沖縄県港川(現在の八重瀬町)で見つかった「港川人骨」と、静岡県浜北(現在の浜松市)で発見された「浜北人骨」があります。
1949年(昭和24年)に群馬県岩宿(みどり市)で、打製石器(旧石器)が発見されました。「土器時代以前の日本列島に人類はいなかった」というそれまでの通説を覆し、日本にも旧石器文化があったことが初めて確認されたのです。
ここからは、旧石器文化の定義や生活の様子を紹介します。
日本における旧石器文化とは、打製石器を使い狩猟や採集を中心に生活をしていた時代です。土器を用いる前の時代という意味で、旧石器文化は「先土器文化」や「無土器文化」とも呼ばれています。
旧石器時代の人々は、打製石器を使って狩猟や採集をしていました。打製石器とは、石を打ち欠いて鋭利な刃や先端を作り出す石器です。
日本では、1949年に群馬県岩宿遺跡で打製石器が発見されたことを皮切りに、その後全国各地の更新世の地層からさまざまな石器が発見されました。そのことから、日本列島全土に旧石器時代の文化が広がっていたことがわかっています。
最初はシンプルな打撃用の石器が主流でしたが、次第に動物を突き刺すための尖頭器や、切断用のナイフ型石器が発展しました。また、細石器(マイクロリス)と呼ばれる小さな石片を使った刃物も発見されています。
旧石器時代の石器は、見晴らしの良い丘の上から発見されることが多く、これらの遺跡の位置や出土物から、当時の人々が小さな集団で移動しながら動物を追い、狩猟中心の生活を送っていたことが推測されます。
打製石器にはさまざまな形状や種類があり、用途に応じて作られていました。
1.握槌(楕円形石器)
「握槌」は楕円形の石をつけ、握りやすい形に加工された石器で、主に打撃用として使用されました。
動物の骨を砕いたり、木を打ち砕いたりするために使われました。重さがあり、力を込めて打ち砕く作業に適しています。
2.石刃(ナイフ形石器)
石刃はナイフ型の形をしており、石を打ち欠いて鋭利な刃を作り出したもので、切断用の道具として使われました。
狩猟で得た動物を解体したり、植物の茎や根を切り取るのに使用された道具です。
黒曜石を使った石刃も登場しています。黒曜石はガラスのように割れやすく、非常に鋭利な刃を作り出せることが特徴です。
3.尖頭器
尖頭器は、石を鋭く尖らせ、動物を突き刺し、獲物を仕留めるために使われた槍のような石器です。
石の形状やサイズに応じて用途を使い分けて活用していました。
4.細石器
細石器(マイクロリス)は、非常に小さな石片を利用して作られた刃物です。
細石器は、そのままでは使いにくいため、木や骨などの柄に埋め込んで使用されました。細石器を柄にはめ込むことで、複数の鋭利な石片を並べた刃物として機能し、切断や加工に利用されました。この技術により、より複雑な作業や効率的な狩猟が可能になったと考えられています。
完新世以降、気候が温暖になり、ナウマンゾウなどの大型動物にかわってシカやイノシシのような小型動物の数が増えるようになりました。食料事情の変化に伴い、人々の暮らしも、大型動物の狩猟中心の移住生活から、狩猟採集中心の定住生活へと変わっていきます。
1877年(明治10年)、アメリカ人動物学者エドワード・S・モースが東京都の大森貝塚から縄目模様のついた土器を発掘しました。、この土器の名称から、石器時代後にあたるこの時代を「縄文時代」と呼ぶようになります。
土器が人類の生活に登場したのは、約12,000年前です。それまでの旧石器時代では、主に打製石器を用いた狩猟生活が中心でした。しかし、土器が生活に導入されたことで、生活の様子が大きく変わります。
旧石器時代では、生肉をそのまま食べるか、火で直接焼くといった原始的な調理方法が主流でした。
土器の登場により煮炊きが可能となり、硬い食材や栄養価の高い植物も食べやすく調理することができるようになりました。また、土器は水や酒の保存や食材貯蔵も可能にしています。
移動しながらの生活から、集落を作って定住する生活が可能になったことも大きな違いです。
縄文土器は日本の原初の焼き物であり、生活面だけではなく、文化の形成にも影響を与えています。
縄文土器は、約600℃から800℃という低温で焼かれ、黒褐色や茶褐色を呈しています。低温での焼成により、割れやすいため、厚手の形をしていることが特徴です。
縄文土器は、粘土をひも状にして輪積みにし、その表面を平らに整えてから縄や貝殻、動物の骨などで模様をつけていきます。
縄文時代の中期からは、模様のバリエーションが増え、地域ごとに異なる特徴を持つ土器が登場し、装飾的な把手が付いた土器や、粘土で作られた飾りが付いた土器など、さまざまな工夫が凝らされました。
例えば、新潟県で出土した国宝「火焔型土器」は、炎が激しく燃え上がる様子を思わせる豪華な装飾が特徴です。
縄文時代に入ると、人々は旧石器時代に使われていた打製石器(旧石器)に加え、さらに進化した磨製石器(新石器)が使われるようになりました。
磨製石器は、石を研磨してより鋭い刃を作った石器です。切れ味がよくなり、軽量で使用用途も広がったことから、縄文時代を代表する道具となっています。
主要な磨製石器の種類を次で紹介します。
1.石斧(せきふ)
石斧は石で作られた斧で、主に木の伐採や農地の整備や土を掘り返す作業に用いられていた道具です。石斧は補修の跡が残るものも多く、長く大切に使われていた様子がうかがえます。
2.石皿と擦石
石皿と擦石は、食材をすり潰すために使われていた道具です。現代のすり鉢に近い役割を果たしており、主に穀物や木の実を砕いたり、粉状にして調理する際に用いられていました。
擦石は加工せずに拾った石をそのまま使用していました。
3.石錘(せきすい)
石錘は、網を沈めるための重りとして使われました。平らな石に溝を彫り、紐を取り付けて網と一緒に使用し、魚や貝を獲るために使用されています。
縄文時代に漁業が盛んになったのは、温暖化により海岸線が拡大し、漁場が増えたためです。
4.弓矢
縄文時代には磨製石器に加え、弓矢が発明されました。弓矢は、この時代に増えたイノシシやウサギなどの動きが速い小型動物を狩るのに適しています。
弓矢の先端に取り付けられた石鏃(せきぞく)は、2cm程度の小さな尖った石でできていました。初期の石鏃は打製石器として作られていましたが、次第に軽くて鋭い磨製石器へと進化し、狩猟効率が向上しました。
縄文時代は数千年にわたって続き、その生活や習俗は、日本民族や文化の原型を形作りました。縄文時代の人々は、どのような価値観の中で暮らしを営んでいたのでしょうか。
狩猟・採集が中心であった縄文時代の人々は、竪穴式住居と呼ばれる住居に定住し、集落を形成して生活していました。
竪穴式住居は、地面を掘り下げ、その上に木材や土を使って屋根をかけた構造の住居です。初期の竪穴式住居は台地の上に作られていましたが、徐々に平地でも作られるようになりました。
広さとしては、10〜20平米ほどの広さが多かったようです。住居の中央には炉が設置されており、食事の調理や暖をとっていました。
1つの住居には4~5人が生活し、家族単位の小さな集団が暮らしていました。
竪穴式住居の建て方は、伏屋式と呼ばれる方法が主流で、建てやすく、機能性にも優れていました。ただし、湿気がこもりやすいため、10年に一度くらいの頻度で建て替えながら暮らしていたようです。
縄文時代の狩猟・採集・漁労といった生活は自然の影響を受けやすかったため、呪術などを通して災いを退け、豊かな収穫を祈願する独自の精神文化が発展していきました。
土偶:豊穣と安産を祈る象徴
土偶は主に女性をかたどった土製の人形であり、豊作や安産を祈るための呪術的な儀式に用いられたと考えられています。
土偶の一部がわざと壊されているものが多く、何らかの儀式で意図的に壊された可能性が指摘されています。
抜歯:成人儀礼と集団の絆
抜歯とは、成人を迎えた際に前歯を抜く儀式で、集団内での成人としての地位や役割を認識させるための通過儀礼でした。
屈葬:死者への畏敬と来世への信仰
屈葬とは、縄文時代の埋葬習慣の一つで、死者の体を折り曲げて埋葬する形式を指します。体を曲げることには、死後の世界への畏れや、死者が蘇らないようにするための意味が込められていたと考えられています。
このような、自然界に霊威を認めて畏怖の念を抱くアニミズム的価値観は、後の日本の信仰・宗教観の根幹をなしていったのです。
青山県にある三内丸山遺跡から、縄文時代にも大規模な集落が存在していたことがわかっています。三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期まで存在していた集落です。
高床倉庫があることに加え、大型竪穴建物が10棟以上、約780の建物跡があり、多種多様な魚類やクリ・クルミなどが出土され、豊かな生活をしていたことが伺えます。さらに、他地域でとれる翡翠なども出土しており、交易も行われていたことが推察できます。
しかし、この集落での生活の様子は、1500年間ほとんど変化がみられていないことも特徴です。
その一方で世界に目を向けてみると、同時期の古代エジプト文明では、ピラミッドの建設まで行われています。
これだけ大規模な集落を形成して豊かな生活をおくることはできても、なぜ縄文時代の日本ではピラミッドのような巨大な建造物を作ることはできなかった(あるいは作らなかった)のでしょうか?
この違いを生み出した大きな要因の一つに、文字の有無があります。
古代エジプト文明では、文字が発明されていたことで、技術の発展や知識の伝承ができました。
一方、日本の縄文時代には文字が存在しなかったため、いくら豊かな文化や技術が生まれたとしても、世代を超えての継承や発展を重ねることに困難さがつきまとってしまっていたのです。
日本列島は氷河期が終わる頃に今の形となり、大陸と陸続きだった頃に流入してきた人類が住み着くようになりました。旧石器時代には、打製石器を使い、大型動物の狩猟を中心とした移住生活を送っていたと考えられています。
その後、気候が温暖化し、動物が小型化したことで、生活は狩猟採集中心の定住生活へと変化します。縄文時代と呼ばれるこの時代は、食材の保存や加工ができる土器や、軽量かつより鋭い磨製石器の登場により、人々の生活が徐々に発展していきました。