嵯峨天皇の時代に平城上皇との対立が起こり、その過程で藤原氏の中でも藤原北家(のちに藤原道長を輩出する家系)が勢力拡大しました。
- 嵯峨天皇と平城上皇の対立
- 藤原良房・藤原基経による政治的勢力の高まり
- 醍醐天皇と村上天皇による延喜・天暦の治
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#10
嵯峨天皇の時代に平城上皇との対立が起こり、その過程で藤原氏の中でも藤原北家(のちに藤原道長を輩出する家系)が勢力拡大しました。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
桓武天皇の後は、息子の平城天皇が即位しますが、病のため、3年ほどで退位しました。平城天皇の後に天皇に即位したのが、平城天皇の弟にあたる嵯峨天皇です。嵯峨天皇は政治力と行動力をかね備え、また50名ほどの皇子皇女を儲ける精力的な一面もありました。
810年に発生した薬子の変(平城上皇の変)は、嵯峨天皇と平城上皇の対立による政変です。806年に即位した平城天皇は、藤原薬子を寵愛します。すると、薬子は、兄の藤原仲成とともに朝廷内で権勢を誇りました。
平城天皇が病を理由にわずか3年で譲位し、弟の嵯峨天皇が即位します。しかし、譲位後に病状は回復し、平城上皇は薬子と仲成に支えられ、政治への影響力を取り戻そうとしました。
平城上皇は旧都・平城京への遷都を画策し、自らの復位を目指します。平城上皇(太上天皇)は嵯峨天皇とほぼ同等の権限を持っており、平城上皇が平城京に移ることで朝廷の命令系統が天皇と上皇に分裂する「二所朝廷」の状態が発生しました。
この状況に対し、嵯峨天皇は天皇直属の令外官「蔵人所」を新たに設置します。藤原冬嗣(藤原不比等の孫:北家)や巨勢野足を蔵人頭に任命して機密情報の漏洩を防ぎました。
平城上皇は藤原薬子と仲成の助力を得て挙兵を試みましたが、失敗に終わってしまいます。藤原仲成と藤原薬子が死去し、平城上皇も出家することで事態は収束しました。これにより藤原氏の系統の中でも、薬子たちの藤原式家は没落し、藤原北家が台頭するきっかけとなりました。
嵯峨天皇は律令に規定がない官職である「令外官」(りょうげのかん)を設置し、さまざまな施策を実施していきます。
嵯峨天皇は令外官として、蔵人所と検非違使の設置をしました。蔵人所は機密文書の管理や朝廷内部の連絡を担いました。当時の朝廷は平城上皇と嵯峨天皇の二所朝廷状態に陥り、情報漏洩が懸念される状況でしたが、嵯峨天皇は、蔵人頭として藤原冬嗣や巨勢野足を任命しました。蔵人所の設置により、天皇は行政と儀礼の効率的な運営を可能とし、宮廷内の機密性を高めました。
検非違使は京内の犯罪取り締まりや民政を担当し、律令に基づく伝統的な役職とは異なる独自の警察的役割を持った役職です。検非違使は、平安時代中期以降にその活動範囲を拡大し、犯罪の捜査や訴訟処理にも関与しました。
嵯峨天皇の時代以後にも令外官は、時代を経るごとに多様化していきます。884年に設置された「関白」は、天皇を補佐し、政務を主導する役割を持ちました。
藤原北家がこれらの役職を掌握することでのちの摂関政治が展開されていくことになるのです。
令外官は律令制の枠組みを越えた柔軟な政治運営を可能とし、平安時代の政治構造を支える重要な要素となりました。
公営田(くえいでん)は、律令制の人別課税とは異なり、土地を基準に課税した制度です。大宰府管内での不作や疫病による税収不足と民衆の窮状を救済する目的で行われました。
8世紀後半から、律令制の運用は困難に直面していました。戸籍に基づく課税や労役が負担となり、逃亡や浮浪する農民が増加したことで、従来の租税制度が機能不全に陥りつつありました。
823年、大宰府管内において参議兼大宰大弐であった小野岑守(おののみねもり)の提案により、公営田が設置されました。従来の人別課税(調・庸など)ではなく、公営田では土地課税を採用したことにより、税収は大きく増え、政治の安定に貢献しました。
また、地方の有力者が運営に関与したことで、中央と地方の結びつきが強化されました。
弘仁格式(こうにんきゃくしき)は、嵯峨天皇の時代に編纂された法令集です。弘仁格式では律令を補うために制定された「格」と、その運用細則である「式」に分けて、体系的にまとめています。
格とは律令制定後に追加された新しい法律を指します。土地の私有を認めた「三世一身の法」や「墾田永年私財法」などが格に該当します。これらは律令では想定されていなかった社会の変化や経済活動の実態に対応するための法律でした。
式とは格や律令を実際に運用するための細則です。具体的な施行手順や事務処理の方法が規定されており、実務において重要な役割を果たしました。
弘仁格式は、後の貞観格式(じょうがんきゃくしき)や延喜格式(えんぎきゃくしき)とともに「三代格式」と呼ばれます。
藤原冬嗣は嵯峨天皇の下で急速に昇進し、また、天皇家と姻戚関係を深めていきました。
以降、平安時代は藤原氏の時代となっていきます。
藤原冬嗣の子、藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、藤原北家の基盤を固め、摂関政治への道を開いた人物です。藤原良房は、権力を争う有力なライバルを次々と排斥し、藤原家の地位を高めていきました。
804年、藤原冬嗣の次男として生まれた良房は、幼少期からその才覚を評価され、父である冬嗣が嵯峨天皇に厚く信任されたこともあり、良房は臣籍降下した嵯峨天皇の娘・源潔姫(みなもとのきよひめ)を妻としました。
良房は、自分の娘である明子を文徳天皇に嫁がせます。その後、文徳天皇が32歳の若さで亡くなると、藤原良房の娘の明子が産んだ惟人親王を清和天皇として即位させ、その地位を確立させました。
良房の権力掌握の過程には、承和の変、応天門の変という2つの事件があり、有力氏族が排斥されていきました。
嵯峨上皇が崩御した842年に起きた承和の変は、橘逸勢や伴健岑といった有力氏族を謀反の疑いで排斥した事件です。事件ののち、道康親王(のちの文徳天皇)を皇太子に立てました。
866年に起きた応天門の変は、大内裏(天皇の在所)の内側にあった門である応天門が放火される事件です。放火犯として、伴善男らが処罰され、この応天門の変を契機に、伴氏や紀氏といった政敵を中央政界から排除しました。
清和天皇の治世中、良房は朝廷の実権を握り、律令制を補完する政策を展開し、清和天皇の外祖父として、人臣(皇族以外)で初めての摂政となったと言われており、藤原北家の政治的立場を盤石にしました。
藤原基経(ふじわらのもとつね)は、男子がいなかった叔父、良房の養子となり政権を担い、、史上初の関白として藤原氏の権力をさらに強固なものとしました。陽成天皇を譲位させ、光孝天皇を擁立するなど、政治の中枢を掌握し、天皇を凌ぐ影響力を持つに至りました。
陽成天皇は、父の清和天皇から譲られて天皇に即位しましたが、素行が定まりませんでした。藤原基経は、素行不良が続く陽成天皇を譲位させ、光孝天皇を擁立しました。光孝天皇は基経に対して深い恩義を抱き、「天皇にしてもらった」という意識もあり、政治の実権を基経に委ねます。
この結果、基経は、天皇が幼少などの際に設置される摂政と同等の権限を成人である光孝天皇に対して保持する形になりました。基経は、実質的な関白となり、藤原氏の権力がさらに強化されました。
阿衡の紛議(あこうのふんぎ)とは、宇多天皇が藤原基経に与えた「阿衡」という役職名に対し、藤原基経が不満をもち、政務をボイコットすることで抗議した事件です。
光孝天皇の跡を継いだ宇多天皇は、橘広相(たちばなのひろみ)に命じて一つの詔勅を出しました。そこには、「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」という一文がありました。この「阿衡」とは、中国の殷の時代に活躍した賢臣・伊尹が任じられた官職のことで、橘広相はこの故事を引用したのです。
しかし、基経は「阿衡」の語は名ばかりで実権のない職を指すと抗議し、「阿衡の紛議」を引き起こします。基経が政治をボイコットしたことで、朝廷の運営が立ち行かなくなり、宇多天皇は基経に対して、自分が出した詔勅を撤回する事態に追い込まれたのです。天皇が出した正式な詔勅を撤回するというのは、天皇の権威が低下することにつながり、この事件を通じて、基経の権勢が天皇を凌駕することが示され、彼の権力はより強固なものとなり、関白の地位が確立されました。
藤原基経がなくなると、宇多天皇は摂政・関白を置かず、天皇自ら政治を行う「親政」を行いました。藤原時平(藤原基経の子)の代に、藤原氏のライバルとして現れたのが、学者出身でありながら宇多天皇の近臣に抜擢された菅原道真です。
菅原道真(すがわらのみちざね)は、学問の才能を武器に急速に出世し、宇多天皇の信任を得て蔵人頭に抜擢されます。菅原道真は遣唐使の中止を提言し、894年の遣唐使は中止となり、その後に唐も滅亡したこともあり、以後遣唐使が派遣されることはありませんでした。
897年に宇多天皇の譲位を受けて、醍醐天皇が即位すると、菅原道真は醍醐天皇を補佐する右大臣に昇進しました。
しかし、菅原道真は901年の昌泰の変により、大宰府に左遷されてしまいます。昌泰の変とは「菅原道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を即位させようと画策した」とされ、大宰府への赴任という形ですが、事実上の流罪にされたようなものでした。
延喜の治とは、醍醐天皇が摂政・関白を置かず、自ら政務を執り行った親政の時代のことです。荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、国史『日本三代実録』の完成や、延喜格式の撰修にも着手しました。
延喜の荘園整理令は、違法に設置された荘園を廃止し、土地制度を再編成することで税収を確保しようとした政策です。しかし、この命令は十分に徹底されず、期待された成果は得られませんでした。
中央の改革に加え、地方政治の混乱も醍醐天皇の時代の大きな課題であり、地方では国司の腐敗や地方豪族の台頭が進み、統治が不安定化していました。学者官僚の三善清行は、醍醐天皇に意見封事十二箇条を提出し、地方政治の改善や国司の選任基準の見直しを提案しました。
この時期、藤原氏は摂政や関白には就任しておりませんでしたが、それでも重要な地位を占め、昌泰の変(901年)の際には藤原時平の策謀によって菅原道真が大宰府へと左遷されています。
醍醐天皇の後に天皇となった、村上天皇も天暦の治と呼ばれる治世を行い、醍醐天皇と同様に摂政・関白を置かない政治を行い、醍醐天皇の治世(延喜の治)と併せて、延喜・天暦の治と呼ばれています。
嵯峨天皇が即位すると、平城上皇と対立しながら、律令政治の改革を進めました。この際に利用された令外官は、律令制度の枠の外にあったため、柔軟な政治運用に活用されました。
その後、藤原良房や藤原基経は摂政や関白となり、承和の変・応天門の変を通して、ライバルを排斥し、藤原氏の勢力は高まっていきました。
一方で、宇多天皇の時代になると、菅原道真が台頭しますが、昌泰の変により太宰府に左遷されてしまいます。その後即位した醍醐天皇と村上天皇の治世では、藤原氏を摂政や関白に置かない親政を行いました。