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大正デモクラシー|国際協調の理想と挫折

第一次世界大戦の終結をきっかけに、日本は国際社会での存在感を強めていきました。
国際協調と民主主義の理想を掲げ、政治や外交の面で大きな転換期を迎えます。

  • 国際連盟への加盟と、協調外交の推進
  • 政党内閣の成立と「憲政の常道」
  • 普通選挙法の制定による選挙権の拡大
  • ワシントン体制下での軍縮と平和への期待

一方で、経済の混乱や社会不安がその理想を揺さぶり、国際情勢の変化とともに協調路線は行き詰まっていきます。
激動の時代、大正デモクラシーの光と影を、ラジレキが独自解説します。

目次

第一次世界大戦後の国際秩序と日本

第一次世界大戦は、日本にかつてない経済的好況をもたらしました。欧米列強が戦争遂行に集中していた間に、日本は軍需品や工業製品の輸出を急拡大させ、大戦景気を享受しました。その結果、日本は債務国から債権国へと転じ、アジア唯一の列強として、国際社会における経済的地位を大きく高めました。

しかしこの好況は第一次世界大戦によってもたらされた一時的なものであり、大戦後の国際経済の変動により、日本はやがて戦後恐慌に直面していくことになります。

パリ講和会議と国際連盟︰戦後秩序の形成と理想と現実の乖離

「十四か条の平和原則」と日本の参加

1919年、第一次世界大戦の講和を目的としてパリ講和会議が開催されました。この会議では、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱した「十四か条の平和原則」が中心的な議題となります。

この原則は、秘密外交の廃止、自由な海洋航行、民族自決、国際平和機構の設立といった理想を掲げ、戦争再発防止と国際秩序の構築を目指すものでした。
戦勝国・列強の一員として招かれた日本も、新しい国際秩序づくりに積極的に関与し、戦後の国際社会での地位確立を目指して臨みました。

日本の成果と挫折

日本は、第一次世界大戦中に占領した山東省の旧ドイツ権益(青島の租借地や鉄道・鉱山権益など)の承認を求めました。この要求は認められ、日本はさらに赤道以北の南洋諸島(現ミクロネシア地域)について、国際連盟による委任統治権を獲得しました。

これにより、日本はアジア太平洋地域における影響力を拡大し、国際的地位を高めることに成功します。

一方で、日本が強く主張した「人種差別撤廃提案」は、白人諸国(特にオーストラリア、アメリカ)からの強い反対に遭い、採択されませんでした。日本にとっては、国際社会における平等な地位を求めた提案が退けられてしまい、不満が残る結果となりました。

五・四運動の勃発

日本による山東省権益の継承に対して、最も激しく反発したのが中国でした。特に、中国国内では「民族自決の原則」が自国には適用されなかったという失望感が広がり、反日感情が爆発します。

1919年5月4日、北京では学生を中心とする大規模な抗議運動「五・四運動」が勃発しました。この運動は、反日・反帝国主義を掲げ、後に中国全土へと広がる政治・文化運動へと発展しました。五・四運動は近代中国のナショナリズム高揚の転機となり、日中関係にも長期的な影を落とすことになります。

国際連盟の設立

1920年、戦争防止と国際協調を目指して、国際連盟が正式に発足しました。これは世界史上初の常設的な国際平和機構であり、国際社会に平和と安全保障の新しい枠組みをもたらすことが期待されました。しかし、提唱国アメリカ自身が議会(上院)の反対により加盟を見送り、加えてソビエト連邦も当初は加盟しなかったため、国際連盟は出発段階から主要国を欠く構成でした。。

さらに、国際連盟には軍事力による強制力がなく、加盟国の自主的な協力に依存する仕組みだったため、理想に反して抑止力は極めて限定的という致命的な弱点を抱えていました。このため、国際連盟は最終的には機能不全に陥り、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができませんでした。

ワシントン体制:列強の協調と日本の国際的立場の変化

ワシントン会議の開催

各国の軍備拡張競争が第一次世界大戦のきっかけとなったという反省と、太平洋地域で勢力を急拡大させた日本とアメリカとの間で緊張が高まっている状況を受けて、1921年、アメリカ大統領ハーディングの呼びかけにより、ワシントンD.C.でワシントン会議(正式名称:軍縮と太平洋問題に関する会議)が開催されます。

この会議の目的は、各国の軍拡競争を抑制するとともに、アジア太平洋地域の安定を確保し、列強間の国際協調体制を構築することにありました。アメリカは特に、自国の海軍優位を保ちながら、日本の台頭を抑え、太平洋における勢力均衡を維持しようとする意図を持っていました。

日本にとっても、戦後の国際的孤立を回避し、列強の一員としての地位を確保するためには、こうした国際協調の枠組みに積極的に参加することが重要であり、政府は前向きな姿勢で会議に臨みました。

締結された三つの主要条約とその意義

このワシントン会議において、日本を含む列強は軍縮と国際協調の道を模索し、三つの主要条約(四カ国条約ワシントン海軍軍縮条約九カ国条約)が締結されました。

まず、四カ国条約によって日本、アメリカ、イギリス、フランスは太平洋地域の現状維持と相互尊重を約束しました。次に、ワシントン海軍軍縮条約では、主力艦保有比率を英/米5、日本3、仏/伊1.67とする軍縮枠組みが設けられました。そして、九カ国条約では、中国の主権尊重と領土保全、さらには門戸開放政策の堅持が、日/米/英/仏/伊/中/蘭(オランダ)/葡(ポルトガル)/白(ベルギー)で確認されました。

協調外交への転換と国内の反発

これらの合意により、日英同盟は正式に廃止され、日本は軍事同盟路線から多国間協調へと外交方針を大きく転換しました。幣原喜重郎外相のもとで進められたこの「協調外交」は、国際社会での信頼構築を重視し、軍事的膨張主義を抑制するものでした。

しかし一方で、国内ではこれを「弱腰外交」と批判する声も次第に高まりました。背景には、戦後不況や国内のナショナリズムの高揚があり、国民の間では日本の国益が損なわれているのではないかという不安が広がっていったのです。

日本国内の政治と社会の変化、大正デモクラシー

第一次世界大戦は日本に経済的な好況をもたらす一方で、民衆の社会意識と政治参加への関心を大きく高める契機となりました。欧州各国の戦争遂行のための物資需要に応えたことで、日本経済は一時的に成長を遂げましたが、その後の戦後不況や社会格差の拡大により、民衆の間で既存の支配層への批判が強まります。

こうした中、1913年の大正政変では、民衆の圧力によって藩閥出身の内閣が退陣に追い込まれ、政党による政治運営への期待が高まっていきました。この時代の民主主義的な潮流は、後に「大正デモクラシー」と総称され、自由主義や個人主義が社会全体に広がるきっかけとなります。

政党政治︰憲政の常道と政党の発展

民衆運動がもたらした政党政治の拡大

1913年、桂太郎内閣に対する第一次護憲運動が起こると、民衆の力によって藩閥政治は大きな打撃を受けます。これにより、政党中心の政治運営が現実のものとなり、以降、内閣は国会の多数派政党を基盤とする「政党内閣」が原則となっていきました。

憲政の常道と二大政党制の確立

1924年、加藤高明内閣の成立によって、「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣の慣例が定着します。この時期、立憲政友会と憲政会(後に立憲民政党へ改組)の二大政党が交互に政権を担い、日本に議会制民主主義が本格的に根づき始めました。

しかし一方で、政治と財界の癒着、選挙腐敗などの問題が次第に深刻化し、政党政治への国民の信頼は徐々に揺らいでいくことになります。

普通選挙運動の展開︰選挙権拡大への道

民権運動の継続と選挙権拡大要求

日本における普通選挙実現の道のりは、明治期からの民権運動にさかのぼります。初期の選挙制度では、一定額以上の納税を条件とする制限選挙が採られており、実質的に富裕層の男性だけが選挙権を持つ仕組みでした。この不平等に対する批判は、大正期に入り一層強まりました。

普通選挙法の成立とその影響

1925年、加藤高明内閣のもとで普通選挙法が制定され、25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられました。これにより、有権者数は従来の約3倍に増加し、国民の広範な政治参加が可能となります。これは大正デモクラシーを象徴する大きな成果でした。

しかしながら、女性にはなお選挙権が認められず、また思想・表現の自由にも限界があったため、日本における完全な民主主義の実現にはなお時間を要することになります。

経済の変動と文化の変容︰戦後不況と新たな大衆文化

戦後経済の混乱と社会運動の活発化

第一次世界大戦中、日本は戦時特需により急速な経済成長を遂げましたが、戦争終結とともに特需が消滅します。輸出の急減、物価の下落、企業倒産の連鎖によって、1919年から戦後恐慌が始まり、都市部を中心に深刻な経済不安が広がりました。さらに、1923年の関東大震災は、経済と社会に甚大な打撃を与え、復興過程で財政負担も増大しました。

この社会的混乱の中で、労働運動や小作争議が全国的に拡大し、婦人運動や部落解放運動などの新たな社会運動も次々に台頭していきます。

大衆文化の興隆と都市社会の形成

経済・社会の変動は、文化にも大きな変化をもたらしました。都市部では新聞・雑誌の普及、映画館やカフェの流行により、情報や娯楽が急速に大衆化します。モダンガール(モガ)、モダンボーイ(モボ)と呼ばれる若者たちが新しい都市文化を担い、個人主義と自由を重んじるライフスタイルが広がっていきました。

これにより、旧来の伝統的価値観とは異なる新たな社会意識が、都市を中心に育まれていきます。

社会不安の拡大と治安維持法の制定︰激動する社会と政府の弾圧政策

社会運動の広がりと政府の危機感

社会運動の高まりは、既存の政治秩序に不安をもたらしました。特に1917年のロシア革命以降、世界的に共産主義思想が広がると、日本政府も国内の労働運動や左翼運動に対する警戒を強めます。1922年には日本共産党が非合法下で結成され、政府は社会主義・共産主義勢力を「国体」に対する脅威とみなすようになりました。

治安維持法の制定と統制の強化

1925年、普通選挙法の成立と同時に、「治安維持法」が制定されました。この法律は、天皇制の否定や私有財産制の否定を目的とする運動を厳しく取り締まるものであり、思想・言論の自由に重大な制限を加えるものでした。

以後、治安維持法はたびたび改正・強化され、国家による思想統制と監視が徹底されていきます。この結果、大正デモクラシー期に芽生えた自由と多様性の空気は次第に抑圧され、昭和初期にかけて軍部や国家主義勢力が台頭する土壌が形成されていきました。

崩れゆく協調外交

1920年代末、日本経済は深刻な困難に直面していました。戦後特需の終焉と世界的な輸出競争の激化により、日本の輸出は落ち込み、企業倒産や都市部での失業増加が社会全体に暗い影を落としました。こうした経済状況は、政府の政策や外交方針への不満を一層高め、社会には閉塞感が広がっていきます。

金融恐慌︰経済危機と銀行の破綻

震災手形問題と金融不安の拡大

1927年、日本を金融恐慌が襲います。発端となったのは、1923年の関東大震災後に発行された震災手形の処理問題でした。復興資金として発行された震災手形が償還不能に陥る懸念が高まる中、当時の蔵相・片岡直温が「某銀行破綻」と発言したことが市場に動揺をもたらし、全国で銀行取り付け騒ぎが発生します。

銀行倒産と経済秩序の動揺

この混乱により、中小銀行の倒産が相次ぎ、さらには鈴木商店台湾銀行といった大企業・大銀行までもが経営危機に陥りました。金融システム全体が危機に瀕する中、田中義一内閣は緊急勅令を発して台湾銀行を救済し、金融秩序の回復を図ります。

しかし、この金融恐慌の影響により、財閥系銀行への依存が一層強まり、政界・財界・軍部の癒着構造がさらに深刻化していくことになります。

世界恐慌︰日本経済への影響と国際関係の変化

アメリカ発の大恐慌と日本経済の打撃

1929年、アメリカ・ニューヨークの株式市場で発生した株価大暴落を契機に、世界経済は深刻な恐慌に突入します。日本も例外ではなく、特に生糸など輸出に依存していた産業は壊滅的な打撃を受けました。

生糸価格の暴落により、農村は深刻な貧困状態に陥り、「娘の身売り」や「欠食児童」といった悲惨な社会問題が全国で頻発します。都市部でも失業者が溢れ、社会不安は一層高まっていきました。

金解禁政策と昭和恐慌への展開

浜口雄幸内閣は、経済の国際的信用を回復するため、1930年に金本位制への復帰(金解禁)を断行します。しかし、この政策は輸出産業にさらなる打撃を与え、不況を悪化させ、昭和恐慌へとつながりました。

犬養内閣と高橋是清の積極財政

1931年に成立した犬養毅内閣のもと、蔵相に就任した高橋是清は、金輸出の再禁止と積極財政を実施し、デフレからの脱却を図ります。これにより経済は一時的に回復しますが、投入された資金の多くは軍需産業に向けられ、結果的に軍部の発言力が飛躍的に高まることとなりました。

このように、世界恐慌は日本経済を直撃しただけでなく、社会不安と軍部の台頭を促進し、以後の日本の対外政策にも決定的な影響を及ぼしていくのです。

まとめ

大正デモクラシー期の日本は、政党政治と国際協調の理想を掲げつつも、経済恐慌や社会不安の中でその路線を維持することが困難となりました。普通選挙の実現や協調外交の試みは日本の近代化に大きく寄与しましたが、次第に軍部が政治の中枢に台頭し、戦時体制へと傾斜していく契機ともなったのです。

政党政治の形骸化、思想統制の強化、経済混乱への対処の失敗——そうした要因が積み重なった結果、政治的自由や市民的権利の拡大が後退し、社会の閉塞感が強まっていき、日本は新たな時代へと足を踏み入れることになります。