第11代将軍・徳川家斉と老中・松平定信の治世の頃より、世界情勢は大きく変化し、日本国内もその波に影響を受けることになりました。
本記事では、日本近海にたびたび出没するようになった西欧諸国と、その対応に追われる江戸幕府の情勢について解説します。
- 一度目の薪水給与令とその撤回
- 度重なる外国船来航事件により出された異国船打払令
- イギリス・清のアヘン戦争からの再びの方針転換
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#27
第11代将軍・徳川家斉と老中・松平定信の治世の頃より、世界情勢は大きく変化し、日本国内もその波に影響を受けることになりました。
本記事では、日本近海にたびたび出没するようになった西欧諸国と、その対応に追われる江戸幕府の情勢について解説します。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
江戸時代、日本がいわゆる「鎖国」を続ける中で、世界の情勢は大きく変化していました。16世紀末は、スペイン・ポルトガルが大きな力を持っていましたが、17世紀には、イギリス・オランダ・フランスが台頭してきます。
特に18世紀・19世紀になるとイギリスとフランスの対立関係が深まり、オランダと長崎の出島を通じて関係性があった日本も、巻き込まれることもありました。
18世紀末から19世紀初頭にかけて、日本は鎖国政策を維持しながらも、周辺諸国との接触が避けられない状況に直面していました。その中でも最初の大きな出来事が、ロシアの東方進出です。
ロシアはシベリアを経て太平洋沿岸へと勢力を広げ、1792年、ロシアの使節アダム・ラクスマンが漂流した日本人を送り届けるという名目で根室に来航し、日本に対して通商を要求しました。
幕府は、ロシアとの交渉を完全に拒絶することは避け、長崎の入港許可証を授けて一定の対話を試みる姿勢を見せました。しかし、ラクスマンは長崎には向かわず、許可証を持って一旦帰国。その後の1804年、ロシアはレザノフを使節として長崎に派遣し、再度日本に通商を強く求める事態に発展します。
結局、通商を拒否することができたものの、ロシアによる度重なる接近をうけ、幕府はできるだけ紛争を避け、外国船を日本から穏便に退去させる方針を取ります。文化3年(1806年)には「文化の薪水給与令」が出されました。
文化の薪水給与令は、外国船が日本に来航した際、最低限の燃料・水や食糧(薪水)を提供し、穏やかに出国を促すというものです。鎖国政策を堅持しつつも、武力行使を避けることで、国際的な衝突を回避しようとする意図がうかがえます。
しかし、1807年には、ロシアが樺太(サハリン)と北海道に攻撃を仕掛ける事件、いわゆる「文化露寇」が発生しました。
文化露寇が起きたことで、幕府は「文化の薪水給与令」をわずか1年で撤回し、代わりに「ロシア船打払令」を出しました。
当初は穏便に対処しようとしていた幕府ですが、国際情勢の変化やロシアの強引な進出に直面し、次第に防衛政策を強化せざるを得なくなりました。
一連の出来事からロシアへの警戒を強めた幕府ですが、この頃にはロシア以外の外国船が来航することも多く、トラブルが頻発しました。
1808年(文化5年)、長崎港で起こった「フェートン号事件」は、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に入港したことから起きた事件です。
当時のヨーロッパでは、フランスのナポレオンが勢力を広げている時期でした。ナポレオンと対立するイギリスは、フランスと友好関係にあるオランダ(当時、オランダはナポレオンの弟を国王に戴いていた)にダメージを与えるため、東アジアにおける活動を活発化させており、フェートン号はオランダ国旗を掲げ、国籍を偽って日本の出島へと侵入してきたのです。
幕府側の役人や通詞(通訳)、オランダ商館員は、侵入してきたフェートン号をオランダ船と誤認します。フェートン号に乗船したオランダ商館員2名はイギリス側に人質として捕らえられます。さらにフェートン号の乗組員はボートを下ろし、長崎港内を乗り回しながら、水や食料の提供を要求しました。
幕府は水や野菜、肉を引き換えに人質を解放させ、フェートン号は長崎を退去しました。
直接的な人的被害はなかったものの、長崎奉行であった松平康英は、この大失態を償うために切腹して命を絶ちました。また、長崎警備の任にあった鍋島(佐賀)藩も、その責任を問われ、藩主の鍋島斉直が謹慎処分を受けることとなりました。
1824年(文政7年)5月、水戸藩領の大津浜に数隻のイギリス船が現れ、12名のイギリス人が上陸しました。
上陸したイギリス人は、船内に壊血病者が発生しており、新鮮な野菜や水を求めての上陸であることを水戸藩に説明しました。
結果的に、藩は彼らに必要な物資を提供し、イギリス人たちは無事に船へと戻りました。大津浜事件では大きな人的被害は出ていません。しかし、異国船が簡単に日本の海岸に上陸できる現実を、幕府や藩に強く印象づける事件となりました。
1824年(文政7年)7月、薩摩藩の宝島にもイギリス船が接近しました。イギリスの乗員は小舟で上陸し、島の牛を譲って欲しいと交渉を試みました。
当時の日本では牛は農耕用であり、貴重な労働力でもありました。また当時の日本では、食肉として消費されるものでもなかったため、薩摩藩の役人はこの要求を断ったのです。
しかし数日後に武装したイギリス乗員が再び上陸し、島の牛を強奪を試み、銃撃戦に発展しました。
結果として、薩摩藩の役人がイギリス人1名を射殺、イギリス船は宝島を離れたことで、事件は収束しました。
宝島事件の概要は幕府にも報告され、日本の防衛体制にさらなる緊張をもたらしました。
度重なる外国船に関わるトラブルにより、幕府は1825年に「異国船打払令」を発布します。異国船打払令は、外国船が日本の沿岸に接近した際には、即座に砲撃などで撃退することを定めたものです。
「無二念打払令」とも呼ばれるように、異国船に対して無条件で武力行使を行う方針が明確に示されていました。異国船打払令を出した直後は、幕府には依然として鎖国体制を維持しようとする強い意志があり、外圧に対しても強硬な姿勢を取り続けていました。
異国船打払令発出後の1837年、アメリカ商船モリソン号が相模の浦賀などに来航しました。モリソン号の目的は日本人漂流民7名の送還を通じて日本との通商関係を開くことでした。
当時は民間商船でも最低限の武装を施すものですが、モリソン号は日本との友好関係を結ぶために、あえて武装を撤去した状態で来航します。しかし、幕府及び沿岸警備の任に当たっていた藩は、異国船打払令に基づき、モリソン号に威嚇砲撃をしてその来航を拒絶したのでした。
非武装の商船モリソン号への砲撃は、国内の知識人や学者からも批判され、異国船打払令への反発は日本国内でも強まりました。
渡辺崋山の『慎機論』や高野長英の『戊戌夢物語』は、幕府の閉鎖的な鎖国政策と強硬な外交姿勢を批判する論文として知られています。
幕府は渡辺崋山や高野長英らの批判を許さず、1839年には「蛮社の獄」と呼ばれる弾圧を行いました。渡辺崋山や高野長英らを含む、モリソン号事件を批判した学者たちを一斉に取り締まりました。
外国船への対応を巡って国内が不安定になる中、1840年には清国とイギリスの間でアヘン戦争が勃発。結果は清国の惨敗となり、清は屈辱的な南京条約を結ばされます。
「大国」である清の敗北が日本にも伝わると、幕府は西洋諸国の軍事力の脅威を改めて強く認識しました。これにより、従来の異国船を無条件で排除する方針は危険だと感じ、1842年(天保13年)、異国船打払令を緩和し、遭難した外国船に対してのみ水や食料を提供する「天保の薪水給与令」を発布しました。
しかし、天保の薪水給与令はあくまで遭難船に限った対応であり、この段階では、開国の選択肢はまだ幕府の考慮に入っていませんでした。外圧に対する慎重な対応が続けられ、1844年のオランダ国王からの開国勧告にも応じない姿勢を貫いています。
江戸幕府が「鎖国」的外交姿勢を続けている間に、世界情勢は変化し、ロシアを皮切りに西洋諸国が日本に接近しました。
江戸幕府は最初は薪水給与令を出し、できるだけ穏便に対応しようとしていましたが、フェートン号事件・大津浜事件・宝島事件と相次ぐ外国船による事件が起きたことで、異国船打払令によって武力で追い払おうとします。
しかし、アヘン戦争の結果をうけて再び方針を転換。再度薪水給与令を出して、円満路線での対応を進めていきます。
そして、天保の薪水給与令から11年後の1853年(嘉永6年)、いよいよアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀に来航します。幕府は西洋諸国の圧力に対抗する力を持たず、ついに「鎖国」の終焉が訪れることになるのです。