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南北朝時代の動乱と室町幕府の権力確立

後醍醐天皇と足利尊氏の対立によって、日本は南北朝に分裂し、60年間の動乱が続くことになります。

室町幕府3代目将軍である足利義満は南北朝の合一に成功し、守護大名の勢力を押さえながら、明との勘合貿易も推し進めました。

  • 南北朝の動乱と幕府の内部抗争
  • 足利義満による南北朝の合一
  • 明との国交回復と勘合貿易

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

朝廷が分裂し2人の天皇が並立する、南北朝の動乱

後醍醐天皇による建武の新政は急進的な改革による武士層の反発と、足利尊氏による武力介入によって崩壊し、足利尊氏は院統の光明天皇を擁立( 北朝 )しました。一方、後醍醐天皇は吉野へと逃れて、自身の天皇位の正統性を主張( 南朝 )します。こうして、約60年にわたる南北朝時代が始まりました。

前期:最も戦闘が激しかった時期

南北朝時代の前期(1336年〜1348年)、南朝は全国各地で反足利尊氏勢力と結びつきながら戦闘を展開しましたが、足利尊氏側が次第に優位に立ち、南朝勢力は追い詰められていきます。

1337年、南朝の重要拠点である越前・崎城(現在の福井県敦賀市)が高師直(こうのもろなお)の率いる幕府軍による包囲を受けました。金崎城は新田義貞の指揮のもと奮戦したものの、兵糧攻めにより持ちこたえることができず、最終的に落城しました。新田義貞は辛うじて脱出したものの、南朝側の尊良親王(たかながしんのう)は自害し、恒良親王(つねながしんのう)も捕らえられました。この敗北は、南朝にとって 北陸での軍事的拠点喪失 を意味しました。

翌1338年、新田義貞は北陸での挽回を図るべく越前に留まり、再起を目指しましたが、最終的に「藤島(現在の福井県福井市)の戦い」で討ち取られてしまいます。鎌倉幕府を滅ぼす際に鎌倉に攻め入った功績を誇り、さらに足利家と並ぶ源氏・武家の名族である新田家の出身である新田義貞は、反足利尊氏派の象徴的存在であり、南朝にとって大きな痛手となりました。

同年、足利尊氏は征夷大将軍 に任じられました。一方で南朝では、1339年に 後醍醐天皇が崩御 し、後醍醐の皇子である後村上天皇が即位しました。

このころ、南朝の武将たちは各地で戦いを続けていました。伊勢・伊賀では北畠親房が奮戦し、九州では懐良親王(かねよししんのう)が菊池武光の助けを得て幕府軍と戦い続けました。また、東北地方での南朝勢力の拡大を図るべく、北畠顕信(きたばたけあきのぶ)が東北に向かうものの、伊勢沖での船難により計画は頓挫し、吉野へ引き返すことを余儀なくされています。

優勢にみえる幕府軍でしたが、幕府内部では、政権運営を巡る対立が表面化し始めました。尊氏の側近である高師直が、直義を排除しようとしたことから対立が決定的となり、これが1350年の観応の擾乱(かんのうのじょうらん)へとつながっていきます。

中期:室町幕府を揺るがす内部抗争

南北朝時代の中期(1348年〜1368年)は、室町幕府が南朝との戦いだけでなく、幕府内部での権力闘争によって大きく揺れた時期です。

室町幕府の初期は足利尊氏が軍事を、足利直義が政務を担う二頭政治が行われていました。しかし、足利尊氏の側近であった高師直が次第に権力を強め、直義との対立を深めていきます。

1350年、高師直が「執事施行状(しつじしこうじょう)」を発布し、恩賞の分配を独自に決定するようになると、足利直義はこれを権力の乱用とみなし、高師直の執事職を罷免することに成功しましたが、高師直は逆襲に出ます。

足利尊氏はこの対立を収めるため、足利直義を出家させ、政界からの引退をさせようとします。しかし、足利直義はこれに従わず、南朝と手を結んで挙兵し、全国の武士たちに高師直討伐を呼びかけました。こうして起きたのが「観応の擾乱」です。1351年の「打出浜の戦い」では足利直義軍が勝利し、高師直・師泰兄弟は捕らえられ、上杉憲によって謀殺されました。直義は、長年の政敵を排することに成功し、中央政治へと復帰を果たしました。

観応の擾乱の混乱によって、南朝勢力や反幕府勢力が各地で力を持ちます。さらに高兄弟が滅んだとはいえ、幕府内部における直義への反対勢力が消えたわけではありません。むしろ、兄・尊氏との対立が本格化していきます。軍事に長けた兄と、政治に長けた弟の争いは武力衝突へと進み、兄に攻められた足利直義は、京都を脱出して鎌倉へと逃れます。

1352年、尊氏は鎌倉へ進軍し、足利直義を武装解除させることに成功。敗れた足利直義は幽閉され、その後に急死してしまいました。観応の擾乱は終結しましたが、幕府の求心力は大きく低下し、南朝は勢力を回復し、幕府の支配が弱まるなかで、守護大名たちは独自の領国支配を強めていった。

幕府は1352年に軍費の調達を目的として「半済令」を発布しました。当初は近江・美濃・尾張の3カ国に限定されましたが、次第に全国へ拡大。これにより、守護は荘園領主から年貢の半分を徴収できるようになり、守護大名の権力が強化されていきました。これにより守護大名の権力が強化され、彼らは国人と呼ばれる在地勢力の家臣化を進め、領国への支配力を増していく「守護領国制」を確立していきました。この結果、幕府の統制はますます困難になり、地方での争乱が続くことになります。

1358年、足利尊氏が病没すると、嫡男の足利義詮が征夷大将軍となりますが足利義詮の時代になっても戦乱は収まりません。幕府の統制力が低下する中、南朝は再び勢力を盛り返し、楠木正儀や懐良親王らが各地で戦いを続けました。

幕府内部でも足利義詮の権力基盤は不安定であり、幕府のNo.2にあたる管領(かんれい)の交代が頻繁に行われるなど政権運営は混乱します。1367年には足利義詮が病没し、翌1368年には南朝の後村上天皇も崩御。両勢力ともに指導者を失ったことで、一時的に小康状態となりましたが、南北朝の対立は依然として続いていました。

後期:将軍足利義満の権力確立と南北朝合一へ

1358年室町幕府の初代将軍である足利尊氏が病死すると、その後を継いだ足利義詮も1367年に病死し、将軍の地位は義詮の息子で、わずか10歳の足利義満へと引き継がれます。

幼少の足利義満を補佐したのは、細川頼之でした。細川頼之は幕府の最高職である管領となり、幕府の意思決定を担うようになっていきます。

細川頼之は幕府政治の安定化を図り、武士勢力の統制を進める一方で、比叡山延暦寺など寺社勢力との対立にも対処する必要がありました。

1368年、足利義満が征夷大将軍に就任し、細川頼之は荘園の権益を守るため、「応安の半済令」を発布し、守護が国自体の半分の支配権をもつことが認められるようにしました。その結果、荘園や公領にも守護の権力が影響するようになりました。

細川頼之は南朝の有力武将であった楠木正儀を幕府側に引き込む政策を進めましたが、他の守護大名が強く反発。加えて、幕府の支援を受ける禅宗勢力と天台宗総本山である比叡山延暦寺との軋轢を生みました。

1379年斯波義将や京極高秀らの有力守護大名が、足利義満に対して細川頼之の罷免を要求する「康暦の政変」が起こりました。足利義満は彼らの要求を受け入れ、細川頼之を追放し、斯波義将を新たな管領に任命しました。

足利義満は、この頃から次第に守護大名の権力を抑え、将軍専制の政治を進めるようになります。1381年に細川頼之の実弟である細川頼を摂津守護に任じ、細川家の中央政治への復帰を促進しました。

足利義満は日本各地を巡り、幕府の権威を誇示しつつ、守護大名の統制を進めました。その過程で、美濃・飛騨・伊勢の3カ国を支配する強大な守護大名であった土岐氏の内紛に介入します。1387年、土岐康行(とき やすゆき)が幕府への反抗的な姿勢を強めると、義満はこれを問題視し、翌年(1388年)に康行を討伐。これを「土岐康行の乱」と呼びます。

康行の排除後、義満は土岐氏の家督を従順な一族(弟の土岐満貞など)に与え、一族間の対立を利用して土岐氏の影響力を大幅に削減しました。これにより、美濃・飛騨・伊勢の3カ国にまたがる土岐氏の勢力を分断し、幕府の支配を強化することに成功しました。。1392年1月(明徳2年12月)には「明徳の乱」で広大な勢力を持つ山名氏清を討伐することに成功します。

足利義満は守護大名の統制と並行して、南北朝の合一を推進し、1392年、義満の仲介によって後亀山天皇が後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が実現し、60年にわたる朝廷の分裂は終焉を迎えました。

南北朝合一により、足利義満は天皇家に対する支配権を強めていき、1383年義満は武士として初めて「准三后」となり、天皇に準ずる地位を獲得し、幕府は朝廷の人事や祭祀に関与し、次第に朝廷権力を吸収していきました。

足利義満はさらなる権力強化を目指し、大内義弘などの有力守護大名を警戒し、1399年に足利義満は大内義弘に上洛を命じましたが、大内義弘は拒否し、堺で挙兵します。足利義満は2ヵ月にわたる戦いの末、大内義弘を討伐しました。これが「応永の乱」です。この戦いにより、大内氏は一時衰退し、幕府の権威が強まる契機となりました。

足利義満は反対勢力の粛清を進めることで将軍の権力を確立していったのです。

室町幕府と東アジアを動かす海の交易

室町幕府は、中国の明と交易を望んでいましたが「倭寇」の問題を抱えていました。

勘合貿易:明との国交をひらき幕府の権威確立

14世紀末の東シナ海一帯では、九州や瀬戸内海の土豪や商人、武士を中心とした倭寇が、中国や朝鮮の沿岸を襲撃して物資を略奪していました。

1368年に朱元璋が明を建国すると、明は倭寇の取締りを日本に求めるとともに、海禁政策を実施し、民間による貿易を禁止しました。

室町幕府3代将軍・足利義満は、1392年に南北朝合一を果たし、国内の安定を確保したことで、義満は明との国交樹立に動き出します。

博多商人・肥富から明との貿易の利益を聞いた義満は、1401年、僧の祖阿と肥富を遣明使として派遣しました。翌年、明の使節が来日し、義満は明の皇帝・建文帝から「日本国王」の冊封を受けます。これは、日本が明の臣下として朝貢する形をとるものでしたが、足利義満は貿易の利益を得るために冊封体制を受け入れました。

1404年から本格的に始まった日明貿易は、渡航許可証である「勘合符」を用いて、密貿易や倭寇との区別を行っていました。

日本からの輸出品としては、硫黄、銅(鉱物資源)、刀剣などがありました。明からは銅銭や生糸、絹織物を持ち帰りました。

明との貿易では、明銭が大量に日本に輸入され、日本においても流通貨幣として広く利用されました。また、絹織物や書籍は室町時代の文化である北山文化や東山文化の発展に大きな影響を与えました。

足利義満の死後、4代将軍足利義持は、1411年(応永18年)に明の使者の入京を拒否し、日明貿易を一時停止しました。これは、明との朝貢形式の関係を屈辱的と考える幕府内の意見を反映したものです。

6代将軍の足利義教の時代に日明貿易は復活し、再び勘合符を用いた貿易が行われましたが、1467年の応仁の乱を機に、幕府の権力が衰退すると、日明貿易の主体に変化が生じます。

日明貿易の実権は、堺商人と結んだ細川氏、博多商人と結んだ大内氏へと移りましたが、貿易の利権を巡って細川氏と大内氏は激しく対立します。その結果、1523年には中国の港湾都市寧波(にんぽー)にて「寧波の乱」が起こり、最終的に大内氏が貿易利権による莫大な富を博多商人とともに独占することになりました。

まとめ

南北朝時代は幕府と朝廷の攻防が60年間続きましたが、室町幕府3代目将軍足利義満により、南北朝は平定されます。

足利義満は力を持った守護大名を抑えるため、意図的に挑発し、反乱を起こしたものを鎮圧することで、勢力を安定させる手法を取り、政権を安定させました。

また、明と勘合貿易を行うことによって、多くの利益を獲得しました。