平安時代末期、保元の乱は武士の助力無しでは解決できなかったため、その後武士の存在感が高まり、平清盛を中心とする平氏が勢力を高めていきます。
しかし、平氏は、藤原氏の摂関政治の形を踏襲し、貴族社会と徐々に対立を深めたことで内乱が勃発し、最終的に源頼朝によって日本で初めて武士による武士のための政権が誕生することになります。
- 保元の乱と平治の乱
- 源平の争乱と平家の滅亡
- 鎌倉幕府の成立
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#14
平安時代末期、保元の乱は武士の助力無しでは解決できなかったため、その後武士の存在感が高まり、平清盛を中心とする平氏が勢力を高めていきます。
しかし、平氏は、藤原氏の摂関政治の形を踏襲し、貴族社会と徐々に対立を深めたことで内乱が勃発し、最終的に源頼朝によって日本で初めて武士による武士のための政権が誕生することになります。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の間で皇位継承をめぐる争いになりました。この争いを治める上で、武士の活躍は大きく、武士の力が高まるきっかけとなりました。
1156年に発生した「保元の乱」は、崇徳上皇と後白河天皇の間で、皇位継承を巡る対立が激化し勃発した戦いです。源氏と平氏の武力を利用した政変であり、平清盛や源義朝(頼朝・義経の父)が後白河天皇方に味方し、勝利しました。
鳥羽法皇は生前、崇徳上皇よりも後白河天皇を支持しており、これが崇徳上皇にとって大きな遺恨となっていました。一方、摂関家でも藤原忠通と異母弟の藤原頼長の間で藤原家の家長を巡る争いが起きていました。
崇徳上皇方には源為義や平忠正などが付き、後白河天皇方には源義朝や平清盛が参じました。最終的に崇徳上皇は敗北し、讃岐へと配流されました。
保元の乱で勝利した後白河天皇方に属した源義朝と平清盛は、その後の政治的地位を大きく向上させました。一方で、身内と敵対することになった結果、源義朝は父や弟たちを処刑し、平清盛も叔父を討つという結果ももたらしました。
保元の乱は、武士の力によって貴族社会の紛争が解決される事態となり、武士を中心とする時代の幕開けを告げるものだったといえます。
1159年に起きた平治の乱は、二条天皇に譲位した後白河上皇の側近として権勢を奮っていた信西を中心とする一派に対して、藤原信頼や源義朝の反信西派が衝突した戦いです。平治の乱は、平清盛が武家の頂点へと上るきっかけとなり、源氏勢力が一時的に後退する転機となりました。
保元の乱に勝利した後白河上皇は、側近の信西(しんぜい)を通じて政治改革を推進しました。信西は荘園整理令や記録所の設置を進める一方、平清盛を厚遇し、播磨守や大宰大弐といった要職を与えました。これにより平氏一門は中央政界での影響力を急速に拡大しました。
これに対して、信西を敵とみなした源義朝が、藤原信頼ら反信西派と結びついて起こしたのが平治の乱です。乱の勃発直後は信西を自害に追い込むなど、反信西派が気勢を上げます。
しかし、平清盛らの軍勢との兵力差により、徐々に藤原信頼と源義朝は劣勢となり、六条河原での戦闘で敗北。義朝、信頼はそれぞれ殺害・処刑されました。
平治の乱の結果、平清盛は武家の頂点に立つ実力を示し、平氏一門の勢力基盤をさらに固めました。一方、源義朝の嫡子であった源頼朝は伊豆へ配流され、その後の再起を図ることになります。義朝の他の子どもたちも各地に追いやられ、源氏の勢力は一時的に衰退しました。
平治の乱で勝利した平氏は武士団の組織化に尽力し、藤原氏と同様の手法で政権を掌握し、一時は「平家にあらずんば人にあらず」といわれるほどの権勢を誇り、富を蓄えました。
平清盛を中心とする平氏政権は、武士としての出自を持ちながら、藤原氏のような外戚政策を取り入れました。平清盛は娘を天皇の后とし、その子を次の天皇とすることで実権を掌握する藤原氏と同様の方法で実権を握ります。
清盛は自分の娘、徳子を高倉天皇に嫁がせ、その間に生まれた言仁(ときひと:安徳天皇)が即位したことで、天皇家の外戚となり権力基盤をさらに強固にしました。この結果、平氏一門は政治の中枢に深く関与し、藤原氏を凌駕する勢いで中央政界を支配しました。
平氏政権の強力な経済基盤も重要な要素です。平清盛は天皇から知行国を多く与えられ、公領からの収益を得ると同時に、平氏一門が所有する荘園からの収益も得ており、これらが平氏の政権を支える重要な財源でした。
平清盛は政治的な基盤を固めながら、中国の宋との間で日宋貿易を推進しました。摂津の大輪田泊(おおわだのとまり:現在の神戸港)を修復に取り組んで航路の安全を確保し、瀬戸内海を経由する海上交通を大きく発展させました。
日宋貿易では、日本からは刀剣、漆器、砂金、真珠などが輸出されました。一方、宋からは織物、陶磁器、香料、書籍、そして大量の銅銭(宋銭)が輸入されました。この宋銭は日本国内で流通し、貨幣経済を発展させる役割を果たしました。平清盛はこれらの貿易益を活用し、朝廷経済を活性化させました。
1167年、平清盛は太政大臣に就任します。太政大臣は貴族の中でも限られた人物しか就けない最高位の役職であり、武士出身者として初めての快挙でした。
しかし、この昇進は平氏の権力に反感を抱く勢力を生み出すことにも繋がりました。後白河上皇は平氏を打倒しようと試み、1177年には「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれるクーデター計画が企てられました。
鹿ケ谷の陰謀は平安時代末期、1177年6月に京都で起きた平家打倒の陰謀事件です。後白河法皇の近臣たちが平清盛の支配に反発し、東山鹿ケ谷にある静賢法印の山荘で密議を行ったことから、その名で呼ばれるようになりました。
鹿ケ谷の陰謀は密告されたことで未遂に終わり、後白河法皇は平清盛に幽閉されてしまいます。
栄華を極めた平氏に反発する武士団が次々と発起し、源平の争乱が始まり、平家は最終的に滅亡、源頼朝による鎌倉幕府が始まります。
平安時代末期、平清盛を中心とする伊勢平氏は日宋貿易を通じて莫大な富を築き、政権の中枢に君臨しました。
1180年に、平清盛は孫の安徳天皇を即位させます。この即位により、皇位継承が絶望的になった後白河天皇の子、以仁王(もちひとおう)は、諸国の源氏に平氏打倒を促す令旨を発布します。
この令旨を受けて、木曽の源義仲や、伊豆に流されていた源頼朝らが挙兵。頼朝は相模の石橋山の戦いで敗北しますが、房総半島へ逃れて勢力を再編し、関東一帯を制圧しました。一方、平氏は畿内を掌握するものの、富士川の戦いで敗退し、東国での主導権を失います。
平氏は平清盛が興福寺など南都の寺社を焼き討ち( 南都焼き討ち )にしてしまうなど、都の周辺は戦いや争いが相次ぐようになりました。
1181年、平清盛が死去し、後白河院政が再開されると、平氏は統率力を失っていきます。一方、源頼朝は鎌倉を本拠地とし、関東武士団を組織して勢力を拡大していきました。また、北陸では源氏の一族である木曽義仲が台頭、1183年には倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏に大勝。平氏は都を捨て、西国へ逃走しました。
木曽義仲は上洛後、朝廷や公卿たちとの対立を深め、1184年の宇治川の戦いで源義経率いる鎌倉軍に敗北。義仲は粟津で討ち取られ、源氏の主導権は完全に頼朝へと移りました。
源頼朝は弟である源範頼と、源義経 に兵を任せ、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと勝利を重ね、一方の平氏は、戦いに敗れるにつれて西に逃げていきました。
1185年壇ノ浦の戦いで決着がつき、安徳天皇は三種の神器と共に入水し、平氏政権は滅亡しました。
源頼朝は1183年に後白河法皇から、東海・東山両道諸国における支配権の承認を得ており、1185年に鎌倉を拠点に、関東での勢力拡大を目指します。
後白河法皇は頼朝の勢力が強くなりすぎることを危惧し、頼朝の弟であり、平家滅亡の英雄である源義経を取り立てていきます。兄弟の対立が深まると義経は頼朝の手勢から襲撃を受けます。辛くも難を逃れた義経は、後白河法皇に対して、兄・源頼朝を追討する命を求め、後白河はこの要求をのみました。自身に追討令が出たことを知った源頼朝は、早々に軍勢を京へ上らせて後白河法皇を威圧します。その結果、全国各地に「守護」と「地頭」を設置する権利を頼朝は獲得することに成功したのでした。
守護は国単位で配置され、地方武士を統率し、治安維持や軍事動員を担当。一方、地頭は荘園や公領に配置され、土地の管理や年貢の徴収を担いました。この二重支配体制により、鎌倉幕府は東国を中心に実効支配を拡大しました。
1189年に源頼朝は、自分と対立していた弟の義経をかくまったとして、奥州藤原氏の藤原泰衡に対して源義経を討伐させます。その後、頼朝は藤原泰衡をも征討し、東北地方への支配も確率します。
1190年に後白河法皇は頼朝を右近衛大将に任命します。頼朝はいったん就任しますが、1か月足らずで辞任。後白河法皇が没すると1192年に征夷大将軍になり、のちの室町幕府・江戸幕府につながっていく幕府政治の体制が整っていったのでえした。
この頼朝による征夷大将軍就任によって、征夷大将軍の性格が単なる「夷狄(いてき、異民族の意)を征伐する大将軍」から、「幕府の中心人物(将軍)」へかわっていったのです。
平安時代の末期には平清盛を中心とする平氏が台頭し、大きな力を持ちます。しかし、政治手法としては、藤原家の摂関政治を踏襲し、朝廷内の対立を深めていきました。
その結果、内乱が勃発し、最終的に壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。平氏を滅亡させた源頼朝は、征夷大将軍となり、以降室町幕府・江戸幕府へとつながる武家政治を本格的に開始させたのでした。