安定支配を目指した元禄時代
江戸幕府初期、初代将軍徳川家康、2代将軍秀忠、そして3代将軍家光の治世下だった50年間は、武力を背景とした高圧的な「武断政治」が行われていました。
しかし、武力を背景とした高圧的な統治姿勢には反発も大きく、幕府の方針は穏健的な安定支配を目指す「文治政治」へと転換していきます。
由井正雪の乱: 武断政治から文治政治へ
戦国時代を制し天下統一を果たした江戸幕府は、巨大な武力を背景に大名たちを統制し、少しでも落ち度があれば、幕府は積極的に大名たちの領地を没収し(改易)、身分を剥奪するという強硬な支配体制をしいて政治基盤を固めようとしていたのです。
しかし、戦国時代の遺風を残す高圧的な政治姿勢は、牢人(浪人、主君を失った武士)やかぶき者(派手な身なりで乱暴狼藉をはたらくなど社会秩序を乱す者)を増加させ、社会不安を引き起こしていました。
このような中で起こったのが、兵学者の由井正雪らが幕府に不満を持つ牢人たちを集めて起こした1651年(慶安4年)の「慶安の変」でした。
幕府転覆を企てた正雪の計画は露見し捕らえられたため、反乱は未然に食い止められました。
しかしこの事件は幕府に武力のみによる支配の限界を痛感させ、武断政治への大きな警鐘となったのです。
慶安の変を受けて、幕府は武力による高圧的な政治では安定した統治はできないと考えるようになります。
そして法と制度を整えることを通して、穏健的で安定した支配を目指す「文治政治」へと政策を転換していきました。
まず慶安の変の発端となった牢人の発生を抑えるために、大名の所領を没収、減封、転封する大名改易の政策を緩和し、子のない大名が養子を取ること(末期養子)を50歳以下の大名にも認めるようにしました。これは、それまで積極的に大名を取り潰していた方針から、なるべく大名を潰さないようにする方針への大転換を意味しています。
さらに主君が死んだときに家臣が殉死することを禁じ、大名の有力家臣に対して人質を差し出させる制度も廃止しました。(引き続き、大名の妻子は江戸にとどめ置かれました。)
武断的な政治方針から文治政治への政策転換によって、戦国時代から続いていた殺伐とした社会の雰囲気を、法と制度によって統治される社会にすることを目指したのです。** **
文治政治の推進によって牢人の発生が抑えられて、社会不安は次第に緩和されていきました。
そして第5代将軍・徳川綱吉の元禄時代(1688年~1704年)には文化と経済が発展し、江戸時代の中でも特に繁栄した時期になったのです。
法による支配と制度の整備によって、その後も長期にわたる安定した社会を実現し、江戸時代という日本の歴史においても重要な時代を築いたのです。
徳川綱吉: 学問愛と「悪法」生類憐みの令
元禄時代は、5代将軍徳川綱吉の治世を中心とした時期で、儒教の教えを重視した政策を数多く実施し、社会と経済に大きな影響を与えました。
特に注目すべきは、武家諸法度の改正発布である1683年の天和令です。
この法令には「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」という儒教的な文言が追加され、武家の規範として重要な役割を果たしました。
また、孔子をまつる湯島聖堂を整備し、その敷地内に聖堂学問所を設立しました。
ここでは儒教教育が行われ、学問所のトップである大学頭には、林羅山の孫である林信篤(鳳岡)が任命されました。
湯島学問所は後に幕府御用達の塾として発展し、多くの学者や官僚を輩出することになります。
また、綱吉は、政治の実権を握っていた老中から、将軍独裁を目指して、「側用人」という役職を設置し、自ら柳沢吉保を側用人に任じました。これにより綱吉は徐々に独裁的な政治権力を振るうようになっていきました。
生類憐みの令とその影響
綱吉の治世で最も有名な政策の一つが「生類憐みの令」です。
生類憐みの令は今でいえば、「極端な動物愛護法」と言えるでしょう。
当初は仏教の教えに基づき慈悲の心を広め、無駄な殺生を避けることを目的としていましたが、次第に違反者に対する厳罰化が進んだため、武士から庶民に至るまで評判の悪い政策でした。
「生類憐みの令」は一つのまとまった一本の法令ではなく、綱吉は百数十回に亘って発令します。特に犬の保護に力を入れたため「犬公方(いぬくぼう)」とも揶揄されました。
一方、生類憐みの令の対象は人間にも及び、捨て子や病人・高齢者などを保護することを定めていました。そのため、動物はもちろん人間の命も軽く扱われていた殺伐とした風潮をおさめ、人々の倫理観を変えるきっかけとなったとして、再評価する声もあります。
貨幣の改鋳: 財政難に苦しむ幕府
元禄時代は社会が安定し商業が繁栄したため、豪商など富をもつ商人が現れる一方で、幕府や藩の財政は悪化していました。
佐渡金山の金産出量が減り新たな鉱脈も見つからない中で、特に4代将軍家綱の時代以降は、明暦の大火(1657年・明暦3年、江戸城天守閣も燃え落ちた江戸の大火災)からの復興のために大量の金銀を消費したことや、さかんに寺社の造営を行ったことで窮乏状態でした。
そこで財政再建のため、綱吉は勘定吟味役だった荻原重秀の意見を取り入れ、貨幣の改鋳に踏み切りました。
重秀は従来の慶長小判の金含有量を減らし、質の劣る元禄小判を大量に発行することでこの差益を幕府の収入とする政策を打ち出しました。
この改鋳により幕府の財政危機は一時的に緩和されましたが、貨幣流通量が増えたことで物価の上昇(インフレ)を招き、武士・庶民のはげしい不満を呼び起こすこととなってしまいます。
正徳の治: 新井白石による数々の改革
5代将軍綱吉の死後は、6代将軍徳川家宣と7代将軍家継父子の8年ほどの短い治世(1709年~1716年)へと続きます。
この時期に幕政に参加し将軍を補佐していた人物が、朱子学者の新井白石でした。
家宣は白石を侍講(君主に学問を講義する役職)として江戸城に呼び寄せ、側用人の間部詮房と共に政務を担わせました。
新井白石は「政治は民のためにあるべきだ」という信念のもと、儒教道徳に基づく政治を理想とし、多くの改革を進めました。
まずインフレを引き起こした貨幣の品質を戻して幕府の信用を回復させようと、綱吉時代に貨幣改鋳を行った荻原重秀を追放し、再び改鋳を行って「正徳金銀」を流通させました。
しかし急激な改革により今度はデフレを引き起こし、特に米価の下落により武士の生活が困窮することとなりました。
また白石は、金銀の流出を抑えるために長崎貿易を制限しました。
1715年(正徳5年)「海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)」で、中国船とオランダ船の貿易額や船隻数を制限しました。
さらに、幕府の儀礼や典礼の整備にも力を入れ、幕府と将軍を頂点とした武士の序列を明確にしようとしました。
朝鮮通信使の待遇も見直し、それまでの過度に丁重な対応を簡素化、将軍の称号を「日本国大君」から「日本国王」に改めました。
白石を登用した6代将軍・家宣は将軍就任後数年で、まだ幼児の7代将軍・家継を残して死去してしまったため、これらの改革には、武力に頼らず幼い将軍の権威を高めようとするねらいがあったのです。
一方で朝廷との融和を図り、皇位継承の安定のために閑院宮家創設に貢献します。のちに、この閑院宮家から光格天皇が皇位を継承し、現代の天皇家の直接の祖先となりました。
蚊も殺してはいけないなど極端な令は武士から庶民まで多くの人々の不満を招いていた「生類憐みの令」を廃止したのも6代将軍・家宣の時代で、家宣は白石らとともに綱吉時代の政治の方向性を修正し、武家諸法度の改定も行いました。
正徳の治の終焉とその影響
正徳の治と呼ばれた新井白石の理想主義的な政策は、1712年に6代将軍家宣が亡くなり、その後を継いだ7代将軍家継も早世したため、短期間で終焉を迎えました。
8代将軍徳川吉宗が登場すると、新井白石は幕政から退き隠居。吉宗は白石の政策を覆したため、白石の理想を求めた正徳の治はわずか8年で終わりを告げました。
隠居後は詩作と執筆活動に専念し、『折りたく柴の記』などの著作を残し、当時の思想や政策を研究する後世に多大な影響を与えました。
町人文化が花開く。華やかな元禄文化
江戸中期の元禄時代は、平和と繁栄が続いたことから、経済的にも文化的にも大きな発展が見られ、町人文化が花開いた時期として知られています。
特に京都や大坂などの上方地域で町人文化が栄え、活気に満ちた独自の文化が育まれました。
それまでの日本の文化の中心・担い手は公家や大名、一部の豪商などの上流階級にありました。
しかし17世紀後半になると、農業やさまざまな産業の発展により、経済的に余裕を持つ町人が学問や娯楽にいそしみ、絵画や文学、演芸などの分野で活躍を見せるようになります。
それまでの上流階級の雅(みやび)な文化とは異なり、力強く華やかな雰囲気を持ち、現実的で実用的な側面が強調される文化が数多く発展し、庶民も自由に文化を楽しめる時代になったのでした。
学問と教育の発展
5代将軍綱吉は学問好きな将軍として知られており、戦のない社会で武士が秩序を維持するためには、武芸よりも学問が重要だと考えました。綱吉は儒学を奨励し、武士だけでなく町人にも寺子屋教育で学問を普及させました。一般庶民が読み書きをできるようになり多くの人に学問が浸透し、医学や天文学などの実用的な学問の発展に貢献しました。
印刷・出版技術の向上により、書物や版画の大量生産が可能になったことも町人文化の発展に寄与しました。知識や文化が広く普及し、庶民でも安価に本や絵を楽しむことができるようになったためより学問が身近になったのです。
文芸と演芸の繁栄
元禄文化を象徴する文芸と演芸は町人が作り上げた文化であり娯楽でもありました。
松尾芭蕉・井原西鶴・近松門左衛門は現代まで伝わる多くの著作を残した元禄文化を代表する作家たちです。
松尾芭蕉は俳諧の革新者として、幽玄関寂を旨とする蕉風(正風)俳諧を確立し、著作『奥の細道』は、旅をテーマにした紀行文として今日でも知られています。
大坂の町人であった井原西鶴は、浮世草子と呼ばれる小説で人気を博しました。
『好色一代男』や『日本永代蔵』は、当時の町人の生活や愛欲を赤裸々に描き出し、現実主義的な元禄時代の文学の代表例とされています。
近松門左衛門は、浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書き、『曽根崎心中』など実際の事件を題材にした世話物や、『国性爺合戦』などの歴史物で名を上げました。
人形浄瑠璃や歌舞伎などの民衆演劇は当時の人々に大変な人気を博し、歌舞伎役者の初代市川團十郎も元禄文化の発展に大きく寄与しました。
芸術とエンターテイメント
元禄文化は、絵画やエンターテイメントの分野でも多くの名作を生み出しました。
尾形光琳の『燕子花図屏風』は金箔を使った鮮やかな作品で国宝にも指定されています。
また、浮世絵は錦絵と呼ばれる多色刷りの版画手法が開発され、庶民の間でも大変もてはやされました。
代表的な作品として、歌川広重の『東海道五十三次』や、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』が挙げられます。
元禄文化は庶民の生活にも大きな影響を与えました。
安定した社会で富を蓄えた町人たちは華美な絹の衣装を身にまとい、劇場に足を運んで浄瑠璃や歌舞伎を楽しむようになりました。
華やかな文化が生まれていた一方で、町人や農民の中でも下層に当たる人々の生活は依然として厳しく、生活の質に大きな格差も生じていた時代でもありました。
まとめ
5代将軍・綱吉の元禄時代は、文治政治が進展し、法と制度による統治が確立された時代でした。
綱吉の政策は、その後の江戸幕府の統治に大きな影響を与え、学問の振興や社会の安定に寄与しました。
しかし、極端な政策や財政問題も抱え、これらの課題は後の将軍たちに引き継がれることになります。
綱吉の死後は新井白石が儒教的な理想主義を掲げて改革を進め、短期間ながらも幕府の統治に深い影響を与えました。
元禄時代の改革は、その後の江戸幕府の政治にも影響を及ぼし、日本の歴史における重要な転換点となったのです。