山県有朋(やまがた ありとも)は、幕末の長州藩士、明治・大正の軍政家、政治家です。内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などの要職を歴任した明治の元勲です。
もともとは、長州藩の下級武士の家に生まれましたが、松下村塾に入って尊王攘夷運動に従事し、高杉晋作が創設した奇兵隊にも参加して戊辰戦争を転戦しました。明治新政府発足後の1869年に渡欧して、各国の軍事制度を視察して、帰国後に西郷隆盛とともに御親兵の組織と廃藩置県に尽力しました。
1873年に陸軍省を創設して陸軍卿に就任して徴兵令を公布。1878年にはドイツに倣った参謀本部を創設して、初代参謀本部長に就任しました。1882年の軍人勅諭の起案・頒布にあたるなど、近代日本陸軍創設の中心人物として活躍しました。
1885年に内閣制度が発足すると、内務大臣に就任。1889年には第3代内閣総理大臣に就任して第1次山県内閣を組閣しました。1891年に内閣総辞職をしましたが、以降元老として大きな政治力を発揮しました。1894年の日清戦争にも出征し、1898年には第2次山県内閣を組閣し、地租増徴や文官任用令の改正、治安警察法の制定、軍部大臣現役武官制の導入などを推進しました。1904年の日露戦争では参謀総長として指揮し、1909年に伊藤博文が死ぬと、軍の巨頭として元老内の最有力者となりました。1922年に死去すると国葬に付されました。