江藤新平(えとう しんぺい)は、幕末の佐賀(肥前)藩士、明治初期の政治家です。立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、「近代日本司法制度の父」と称されています。しかし、明治六年の政変に敗れて、西郷隆盛・板垣退助らとともに下野することになりました。下野後数ヶ月は東京に留まり、民選議院設立の建白書に板垣らとともに署名をするなどの活動をしていましたが、翌年郷里の佐賀に戻ります。不平士族らからリーダーとして擁立され、佐賀の乱を起こしました。急襲してきた政府軍によって早々に鎮圧されて、江藤は逃亡しましたが、江藤が明治政府にいた際に確立した写真手配制度によって指名手配写真が出回っていて速やかに捕縛されてしまいました。江藤は東京での裁判を望みましたが、佐賀に護送されて弁論や釈明の機会も十分に与えないまま死刑が宣告され、斬首に処せられました。
ざっくり用語解説
江藤新平
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