日本は日清戦争から戦争を通じて経済や産業を大きく成長させてきました。一方で産業の成長に伴って公害や労働問題などの社会問題も顕在化していきます。
- 日清戦争の勝利と三国干渉、その後の日露戦争
- 第一次世界大戦による日本の国際的影響力の高まり
- 戦争による経済・産業の成長と社会問題
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#31
日本は日清戦争から戦争を通じて経済や産業を大きく成長させてきました。一方で産業の成長に伴って公害や労働問題などの社会問題も顕在化していきます。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
日本は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を通じて、国際舞台への影響力を高めていきました。これらの戦争は日本の近代化において、大きな影響をもたらすと同時に、さまざまな課題を産む結果にもなります。
日清戦争は朝鮮半島をめぐって中国と対立した結果起きた戦争です。日本は中国に勝利し、下関条約を結ぶことで、台湾や遼東半島などを割譲させることに成功しますが、三国干渉(ロシア・ドイツ・フランスによる干渉)によって、遼東半島を返還させられてしまいます。
19世紀後半、アジア各国が欧米列強の植民地化に直面する中で、日本は近代化のために明治維新を進めます。
日本の近代化が進む一方で、外交上大きな問題となっていたのが、隣国の清国との対立です。日本は朝鮮を開国させ、朝鮮に勢力を広げようとしていたのに対して、清国は朝鮮を従来通り自国の属国として扱い、その影響力を維持しようとしていました。
朝鮮国内でも、当時の開国・親日的な閔妃(びんひ・ミンピ、朝鮮国王の妻)を中心とする閔氏政権と、外国排斥・親清的な大院君(朝鮮国王の父)が対立し、1882年には大院君による扇動で、朝鮮の首都漢城(現在のソウル)で閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱である「壬午軍乱」が起こります。閔妃は王宮を脱出し、大院君が政権の座につきましたが、日清両国が朝鮮に派兵する事態となり、反乱軍は鎮圧され、大院君も清によって天津に連行され閔氏政権が復活します。これにより、閔氏政権は親清派に転換し、その後、朝鮮国内の政治は清国寄りの「事大党」が主導するようになりました。日本は閔氏政権と交渉して、壬午軍乱鎮圧後の同年1882年に済物浦条約を締結し、朝鮮から日本への賠償金の支払い、在朝鮮日本公使館護衛のための日本陸軍の朝鮮駐留などを認めさせるにとどまりました。
清の影響力が強まった朝鮮に対して、日本は朝鮮国内の改革派である金玉均が率いる独立党を支持し、朝鮮に対する清の影響力を低下させるべく独立党への支援を強化します。そして、独立党は1884年の「甲申事変」というクーデターを起こしましたが、清国の軍事介入により失敗に終わりました。相次ぐ朝鮮国内の政情不安に対して、日清両国は1885年に天津条約を締結し、日清両国の朝鮮からの撤兵を約束するとともに、朝鮮に派兵するような状況になった場合には、相互事前通告を義務付けることとしました。朝鮮を巡っての日清両国の対立がエスカレートしないための措置です。
しかし、日清両国の朝鮮への影響力を巡る対立がなくなったわけではありません。潜在的な対立構造は、1894年に朝鮮で起きた東学党の乱(甲午農民戦争)によって、日清戦争へと発展します。
東学党の乱(甲午農民戦争)は、農民による朝鮮政府への反乱でした。反乱鎮圧のため、清国は軍を派遣し、これに対して日本は中国の「朝鮮は属国である」という姿勢を非難し、朝鮮の独立性を確保するという名目で出兵。朝鮮半島を中心に日清両国が武力衝突する日清戦争が勃発しました。
日清戦争は、朝鮮半島を巡る日中の覇権争いを背景にしたもので、日本の近代化と清国の旧態依然とした体制の差が顕著に表れた戦争となり、日清戦争は、日本の圧倒的勝利に終わりました。
日清戦争では、豊島沖海戦、成歓の戦い、黄海海戦などで日本が勝利し、清国は次々と戦場で敗北を喫しました。
1895年4月、山口県下関市にて、日本側の全権・伊藤博文首相と陸奥宗光外相、清国側の全権・李鴻章との間で、「下関条約」と呼ばれる講和条約が調印されました。下関条約の中でも重要な条項は以下の4つです。
これにより、日本は、多額の賠償金を得るとともに大陸進出の足掛かりとして台湾・遼東半島を手にいれるという日本に有利な条件での条約締結に成功しました。
しかし、中国の満州に大きな利害関係があるロシアに警戒され、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が行われ、遼東半島は清国に返還されることとなりました。
日本は勝利を収めながらも、三国干渉によって戦果の一部を失ってしまいます。
下関条約での最大の成果の一つが、台湾と澎湖諸島(ほうこしょとう・ポンフー諸島)の割譲です。これらは三国干渉の後も日本の領土として認められました。
1895年、台湾総督府が設置され、初代総督には陸軍大将の樺山資紀(かばやますけのり)が任命されました。これをもって、日本は初めて自国本土以外の地域を支配下におくことに成功します。
日本は下関条約と三国干渉を経た結果、遼東半島の返還の対価として追加で3,000万両、合計2.3億両という当時の日本の国家予算の4年分を超える賠償金を得たことで、軍備の近代化と拡張や、鉄道、港湾、通信網といった社会インフラの整備産業基盤の整備が進められました。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシア帝国の南下政策は日本にとって極めて深刻な脅威となりました。
日本はロシアの南下政策に対して、イギリスと日英同盟を結び、ロシアに対抗します。
清国の弱体化に乗じて満洲・朝鮮半島への進出を強めるロシアに対し、日本国内では次第に危機感が高まり、外交交渉の決裂を経て、ついには日露戦争に発展しました。
1895年当時の日本は、ロシアなどに対抗する力はなく、やむなく三国干渉をを受け入れましたが、日本国内における反ロシア感情が高まります。
三国干渉の後、ロシアは清国から次々と権益を獲得し、1896年には東清鉄道の敷設権、1898年には旅順・大連(遼東半島にある都市)の租借権および南満洲鉄道の建設権を取得しました。日本から清に返還させた遼東半島をちゃっかり、ロシアが租借することに成功したのです。ロシアは、中国・満洲における実効支配を進め、さらに朝鮮半島にも政治的・軍事的影響を及ぼすようになっていきました。
また、ドイツは1898年に膠州湾を、イギリスは九龍半島を、フランスは1899年に広州湾をそれぞれ租借(主権を含み、期限付きで土地を統治すること)し、弱体化が露呈した中国に続々と欧米列強が進出を加速していました。
欧米列強が中国に次々と進出する動きを受けて1900年、清の国では列強の中国進出に反発した民衆運動「義和団の乱(北清事変)」が勃発。清国政府も義和団に同調し、列国に対し宣戦布告するという事態に発展します。
日本は列強とともに8ヵ国連合軍(英/米/露/独/仏/墺/伊/日)を派遣し、北京を制圧しました。義和団事件後、日本を含む列強が撤兵を進める中で、ロシアは満洲からの撤退を拒否し、事実上の占領状態を継続しました。
ロシアとの緊張状態に対して、日本国内にはロシアとの妥協を模索する立場(日露協商論)と、イギリスと連携してロシアの南下に対抗する立場(日英同盟論)がありました。
最終的に、日英同盟論を支持する第1次桂太郎内閣はロシアに対抗するため、1902年に日英同盟を締結します。
日清戦争後、ロシアは清国に対して次々と権益を獲得し、満洲に居座り続けて朝鮮半島にも影響を強めていました。このようなロシアの南下政策に対し、日本政府内では対応をめぐって意見が対立します。
ロシアとの妥協を模索する「日露協商論」と、イギリスと連携してロシアの南下に対抗する「日英同盟論」がありました。
日露協商論は、満洲をロシアに任せる代わりに、韓国での日本の優越権を認めさせる「満韓交換」を狙う協調路線です。主な支持者は伊藤博文、井上馨、尾崎行雄らでした。
日英同盟論:ロシアと敵対するイギリスと手を組み、ロシアと対抗しようとする強硬路線です。桂太郎首相、小村寿太郎外相、山県有朋らが支持していました。
最終的に、当時の政権を担っていた桂太郎内閣は、対ロ強硬路線を採用。日本とイギリスの利害が一致したことで、同盟の実現に至ります。1902年1月30日、ロンドンで「日英同盟協約」が正式に調印されました。これは日本にとって初の本格的な軍事同盟であり、外交史上の画期的な出来事でした。
内容として重要なのは以下の2点です。
日英同盟により、日本はロシアと戦争になっても、イギリスの支援を受けられるまたはイギリスによるロシアへの牽制がなされるという強い外交的保障を得ることができました。
イギリスにとっても、世界中に広がる自国の植民地防衛に関して、極東の戦線を日本に任せることができるというメリットがありました。
また、日英同盟は軍事面だけではなく、当時「光栄ある孤立」と称し、他国と同盟を結ばなかったイギリスとの間での同盟締結は、日本の国際的地位向上にも貢献しました。
日露戦争は満州での陸戦から日本海での海戦に移り変わっていきました。
日露戦争の初期、日本軍はロシアの拠点である旅順を包囲しました。旅順はロシア太平洋艦隊の根拠地であり、ここを落とすことは制海権を握るうえでも不可欠でした。
乃木希典(のぎまれすけ)率いる日本陸軍は、繰り返し総攻撃を敢行しますが、強固な防備の前に甚大な犠牲を出しつつ、5か月もの消耗戦の末、1905年1月、ついにロシア守備隊を降伏させ、旅順を占領します。
続く奉天(ほうてん)会戦は、日本軍が約25万人の兵力でロシア軍を包囲する作戦を展開し、ロシア軍は満州での補給線が断たれ、後退しました。
ロシアは巻き返しを図るため、バルト海を根拠とするロシア・バルチック艦隊を太平洋まで回航させることにしました。
しかし、遠征の疲労がたまる中、彼らを迎え撃ったのが、東郷平八郎率いる日本海軍連合艦隊でした。
対馬沖で繰り広げられたこの海戦では、「丁字戦法」を用いて、圧倒的な戦術でロシア艦隊をほぼ全滅させます。
日本軍は遼陽(りょうよう)・沙河(しゃか)・旅順(りょじゅん)・奉天などで激しい戦闘を繰り広げ、特に旅順では多数の死傷者を出しました。
1905年には、東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破(日本海海戦)し、戦局を決定づけたものの、戦費は底を尽き、日本の継線能力にも限界が見え始めていました。
そのため、日本政府はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の仲介を依頼します。ロシアも国内の革命運動によって戦争継続が困難となり、1905年9月、米国のポーツマスで日露戦争の講和条約が締結されました。
このポーツマス条約では、日本の小村寿太郎外相とロシアのウィッテ外相が出席し、以下のような内容でまとまりました。
全体として日本に優位な講和条約でしたが、賠償金の獲得には失敗してしまいます。
ポーツマス条約では、日本優位の条約だったものの、賠償金が得られませんでした。このことに国民は不満を爆発させます。日露戦争の戦費は当時の国家予算の数年分にも及ぶ約17億円。その資金は、増税、国債の発行、さらにはイギリスやアメリカでの外債募集によって賄われ、国民一人ひとりが大きな負担を背負っていたのです。
そのため、戦争が終われば当然、ロシアからの賠償金によって国庫が潤い、国民生活も多少は楽になると思われていましたが、講和条約で賠償金を得られなかったことで、増税による生活苦に喘ぐ国民にとっては不満が残る結果となりました。ポーツマス条約の内容が新聞などで報道されると、失望と怒りは一気に広がりました。1905年9月5日、東京・日比谷公園で講和反対を掲げた民衆集会が開かれ、「日比谷焼打ち事件」が発生します。
集会は警察により中止させられましたが、憤った群衆は暴徒化し、内務大臣官邸・交番・政府系新聞社などを次々に襲撃・焼き討ち。騒動は東京都内だけでなく、横浜・神戸など全国に波及するほどの大規模な暴動へと発展しました。外交的には成果を上げながらも、賠償金なしの講和は国民の理解を得られず、政府に対する不信感を増幅させました。こうした国民の不信感は、後の国家主義や対外強硬路線へとつながる背景にもなっていきます。
この時期、日本は韓国を保護国化(1905年・第二次日韓協約)し、翌年には韓国統監府を設置して韓国の外交権を掌握しました。日露戦争の勝利によって、日本の国際的な影響力は強まりましたが、その一方で国内では民衆の不満と社会不安が深く根を下ろし始めていたのです。
1914年ヨーロッパで起きた第一次世界大戦に、日本は日英同盟に基づき、連合国(イギリス・フランス・ロシア等)側で参戦します。
日本は第一次世界大戦に参加することで、アジア太平洋におけるドイツの植民地や利権を確保することに成功しました。
1914年、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦。この大戦は、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」と、イギリス・フランス・ロシアの「三国協商」による総力戦として展開されました。
日本は日英同盟を根拠に、イギリスの要請を受けて連合国側での参戦を決定します。当時の内閣、第2次大隈重信内閣は、ドイツに対し、1914年8月に宣戦布告しました。
日本の参戦は、ヨーロッパでの戦闘ではなく、アジア太平洋におけるドイツの植民地・権益の排除と獲得を中心に戦い中国・山東半島の青島(チンタオ)やドイツ領南洋諸島(現ミクロネシア)の一部を占領し、アジア・太平洋における勢力圏を拡大させました。
また、第一次世界大戦に参戦することで、日本は単なる地域の新興国ではなく、「列強の一員」としての地位を確立する契機を得ました。
国際社会での地位を高めたことで、1919年のパリ講和会議(ヴェルサイユ条約)では、戦勝国として、中国の山東半島の旧ドイツ権益や、南洋諸島の委任統治権を獲得します。日本が獲得した山東省の旧ドイツ権益には、青島港を含む租借地や鉄道、鉱山などの経済的利権が含まれていました。
中国では1910年に辛亥革命が起こり、清が倒れ、中華民国が成立しましたが、日本はその混乱に乗じて、1915年に「二十一カ条の要求」を中華民国政府に突きつけます。
その中には、山東の旧ドイツ権益の継承だけでなく、中国国内の製鉄会社である漢冶萍公司の共同経営、さらには中国内政への強い干渉も含まれていました。
中国は戦争中で孤立していたこともあり、やむなく大部分を受諾しましたが、国民感情は強い反発を示し、中華民国政府が「二十一カ条の要求」を承認した5月9日は「国恥記念日」として記憶されています。1919年のヴェルサイユ条約では、中国山東省の旧ドイツ権益は日本が接収することとなり、南洋諸島は国際連盟によって日本の「委任統治領」として認められました。
第一次世界大戦によって、日本は戦争被害をほとんど受けることなく、アジア・太平洋地域での影響力を大きく拡大し、国際社会における発言力も高めていきました。
日本は富国強兵路線・日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦を経て産業の近代化に成功しました。
明治時代後期から大正初期にかけて、日本は戦争と経済政策を背景に急速な産業革命を遂げ、近代国家としての基盤を築いていきました。
軽工業から重工業への発展、資本主義の確立、インフラの整備、さらには財閥の台頭といった変化は、日本経済を大きく変貌させる契機となったのです。
日本の産業革命は、1880年代・1890年代に始まり、製糸業と紡績業を中心に大きく発展しました。製糸業では器械製糸の導入により、生糸がアメリカなどに輸出されるようになり、日本の外貨獲得の柱となりました。
一方、紡績業では大阪紡績会社をはじめとする大規模企業が蒸気機関を動力源に機械制生産を展開し、綿糸の生産量が急増しました。
1897年には日本の綿糸輸出が輸入を上回り、軽工業分野における国際競争力が強化されました。これにより、日本経済は長らく続いた不況から脱却し、本格的な工業化への道を歩み始めます。
1895年の日清戦争の勝利で得た賠償金は、軍備拡張だけでなく、国内産業の基盤整備にも大きく活用され、鉄道建設や軍需産業など重工業の発展に拍車をかけました。
当時軽工業に対して重工業の発展はかなり遅れており、鉄の大部分を輸入に頼っていました。それを問題視した日本は、1901年に1000万円を投入して官営である八幡製鉄所の操業を開始しました。
ドイツ技術を導入した八幡製鉄所は、日露戦争後には軌道に乗り、鉄鋼生産量が大幅に増加しました。これにより造船業も発展し、1万トン級の大型船の建造が可能になります。
政府は1897年に銀を基準にした銀本位制から金を基準にする金本位制に切り替えることで、貿易の安定化と信頼性を高め、資本主義経済の基盤を整備しました。
欧米諸国にならって金本位制を導入することで、貿易の発展を進めることをねらいとしており、特殊銀行や商社の台頭、そして横浜正金銀行の活躍も、輸出入を支える重要な役割を果たしました。
工業化を支えるためには、鉄道や通信といった社会インフラの整備も欠かせませんでした。1881年設立の日本鉄道会社を皮切りに、山陽鉄道や九州鉄道といった幹線が次々と建設され、1906年の鉄道国有法により、主要路線の統合と管理が進められます。
これにより、原材料や製品の輸送が効率化され、全国規模の市場経済が形成されていきました。
明治後期から大正期にかけて、政府と癒着した企業である政商の成長とともに三井・三菱をはじめとする財閥が経済の中核を担うようになります。
政府の官営工場売却政策を背景に、鉱山・造船・金融・貿易など多岐にわたる事業を展開。やがて持株会社を通じて企業統合が進み、コンツェルン(企業集団)へと発展しました。
こうした大資本による産業集中は、日本の近代経済を支える大きな柱となり、国家全体の経済構造をも変えていきました。
明治期の日本は急速な近代化と工業化を遂げ、資本主義経済の形成が本格化した一方で、都市化とともに労働問題や社会問題が深刻化していくことになります。
繊維産業では、低賃金・長時間労働に苦しむ女性労働者が多かったことから1897年以降ストライキが頻発。1900年にはアメリカから帰国した高野房太郎や片山潜による労働組合期成会が設立され、労働組合による労働運動が活発化します。
産業革命によって、紡績・製糸業を中心に多くの工場が誕生し、労働者の数は飛躍的に増加しました。しかしその多くは、農村の貧しい家庭の出身者であり、10代の若者や女性が大半を占めており、女性や少年たちは12時間以上の低賃金・長時間労働という過酷な労働に従事していました。
紡績工場で働く若い女性の姿を描いた『女工哀史』や横山源之助の 『日本之下層社会』や、農商務省がまとめた 『職工事情』のような記録も残っています。
労働者は次第に団結し、1897年には高野房太郎や片山潜によって「労働組合期成会」が設立され、労働争議が全国的に多発するようになりました。
さらに、1901年には安部磯雄らによって日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成され、社会主義運動も本格化していきます。
政府は治安警察法によってこれらの運動を厳しく弾圧し、1910年の「大逆事件」以降は特に取り締まりが強化され、“冬の時代”と呼ばれる抑圧の時期に入ります。
産業の発展に伴い、公害問題も深刻化しました。特に有名なのが、古河財閥の経営する足尾銅山から流れ出た鉱毒が渡良瀬川流域に甚大な被害を及ぼした「足尾銅山鉱毒事件」です。1901年には衆議院議員・田中正造が天皇に直訴するという前代未聞の行動に出たことで、全国的な注目を集めました。
労働問題への対処として、政府も次第に労働者保護の必要性を認識するようになります。1911年には、日本初の労働者保護立法である「工場法」が制定され、1916年に施行されました。
少年・女性の労働時間制限や深夜業の禁止が打ち出されましたが、規模の小さい工場は対象外とされ、効果は限定的でした。
日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦を通じて、日本は近代国家として、国際社会の中での地位を高めていきました。
経済・産業も大きく発展し、産業革命によってまず製糸業や紡績業などの軽工業が盛んになり、重工業も徐々に発展します。金本位制も導入され、資本主義国家として大きな成長を遂げていきました。
しかし、一方で足尾銅山鉱毒事件などの公害問題や、劣悪な労働環境で働かせる労働者の問題など、経済成長に伴う、社会問題も起きるようになりました。