伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、幕末の長州藩の下級武士の出身で、松下村塾で学び、1863年には藩命によって井上馨らとともにイギリスに留学しました。
帰国後は、高杉晋作の弟分として藩政改革に参画しました。明治新政府が成立すると、岩倉使節団に副使として参加し、帰国後は大久保利通の下で内政充実に尽力しました。
大久保利通の死後、その路線を受け継いで1885年に初代内閣総理大臣に就任。近代立憲主義社会の基礎を築きます。
その後、4度にわたって内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)を務め一次内閣時には大日本帝国憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたりました。第四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治の道も開きました。他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などの要職を歴任しました。
1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の独立運動家安重根に狙撃されて死亡。実は伊藤博文は、日本政府内では国併合には慎重だったといわれています。伊藤の死後1910年に韓国は日本に併合されました。