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鎌倉幕府の滅亡と建武の新政|天皇中心政治の復活と武士の不満の高まり

鎌倉幕府の弱体化が進み、後醍醐天皇は足利尊氏ら武士の協力を得て、倒幕に成功し、建武の新政を始めていきます。

しかし、建武の新政は武士に十分な恩恵がなかったことや急進的な改革であったことから、多くの人々のの不満が高まり、3年で終わりを迎えます。

  • 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政
  • 天皇中心の建武の新政とその失敗
  • 足利尊氏の反乱と南北朝時代の始まり

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

不屈の後醍醐天皇、鎌倉幕府の滅亡

寇の結果、貧窮にあえぐようになった御家人は、適切な対処ができない北条氏・鎌倉幕府に対する怒りを露わにし始めます。

その結果、鎌倉幕府は滅亡への道を歩んでいくことになります。

両統迭立 :皇統の分裂により天皇位継承への幕府の介入

元寇によって御家人が困窮していく中、朝廷では後嵯峨法皇の死後、皇位継承を巡る争いが朝廷内で激化していました。

先に即位した後深草天皇と後に即位する亀山天皇(後嵯峨の息子、後深草の弟)の間で皇統が分裂し、それぞれが荘園群を財源とした独自の勢力を形成しました。

院統(じみょういんとう)と呼ばれるようになる後深草天皇の血統は「長講堂領」を、大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれるようになる亀山天皇の血統は「八条院領」を基盤とし、双方が皇位継承を巡って対立しました。

両統の対立が収拾不となり、鎌倉幕府が仲介に入り、1317年に鎌倉幕府は皇位継承を調整するため「文保の和談」を提案し、両統が交互に皇位を継承する「両統迭立(りょうとうてつりつ)」の原則を定めました。

両統迭立とは、それぞれの系統から、交互に天皇を即位させていくことを指します。

このルールの下、持明院統と大覚寺統の間で天皇を交替させていくことによって朝廷内の争いを抑えようとし、大覚寺統の側から後醍醐天皇が即位しました。

鎌倉幕府滅亡:正中の変から元弘の倒幕計画の発覚

1316年に14歳で執権となった北条高時は、政治に関心を示さず、闘犬や田楽といった趣味に没頭したと言われます。そのため、幕府政治の実権は御内人(北条家の家臣団)の統括である管領(うちかんれい)の長崎高資(たかすけ)が掌握していました。鎌倉幕府直属の御家人をさしおいて、北条家の家臣にあたる御内人が権勢を振るう中、執権・北条高時や北条家への信頼は失墜し、御家人たちの幕府への不満が広がっていきました。

一方朝廷では、1318年に後醍醐天皇が即位しました。後醍醐天皇は、天皇中心の政治体制を復活させるべく、1321年から公家の北畠親房(きたばたけちかふさ)や日野資朝(ひのすけとも)を重用し、物価の統制や訴訟制度の整備を進め、天皇親政を目指しました。

同時に打倒鎌倉幕府を狙って、後醍醐天皇は、反幕府勢力を結集し、倒幕計画を実行に移します。1324年に倒幕計画が発覚した「正中の変」は、幕府の在京機関である六波羅探題によって事前に察知され、結局失敗に終わりました。

その後、延暦寺や興福寺といった寺社勢力を利用して挙兵を企てますが、これもまた失敗に終わりました。1331年に後醍醐天皇は隠岐に配流されてしまいました。この一連の動きは「元弘の変」と呼ばれています。

元弘の変は失敗しましたが、元弘の変以降各地で武士が反乱を起こすようになりました。最初に反乱を起こしたのが、河内(現:大阪府)で挙兵した楠木正成です。

鎌倉幕府は、楠木正成討伐の兵を起こしますが、楠木正成の活躍によってこれを撃退。こういった情勢を踏まえて、1333年に後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆(ほうき:現在の鳥取県中西部)の船上山(せんじょうさん)に入ります。また、鎌倉幕府の有力御家人側だった足利尊氏や新田義貞らが幕府に反旗を翻しました。

足利尊氏は京都の六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉に攻め込み北条高時をはじめとする北条氏一門を東勝寺で自害に追い込みました。御家人たちにも見限られた鎌倉幕府は、140年以上にわたる支配を終えたのでした。

念願の天皇親政、栄光と挫折

鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都に戻り、自分が隠岐島に流されていた間に鎌倉幕府によって擁立されていた持明院統の光厳天皇の廃位を宣言しました。そして、年号を「建武」と改元し、天皇親政のもと「建武の新政」が始まりました。倒幕を果たした後醍醐天皇は、自らの理想である天皇を中心とするだった朝廷政治を行います。

しかし、貴族には手厚く、武士を冷遇する数々の施策に、武士が反発したことや、急激な政治制度の改革から社会の混乱を招き、3年で終わりを迎えてしまいます。

建武の新政:理想を果たせず3年の短政

後醍醐天皇が目指したのは、10世紀の天皇中心の親政だった醍醐天皇や村上天皇の時代の「延喜・天暦の治」を復活させることです。

建武の新政では、摂政や関白といった職を廃止し、天皇自らが直接統治を行う体制を整えました。後醍醐天皇は「綸旨(りんじ)」と呼ばれる天皇の命令書に絶対的な効力を持たせ、国家の全てを天皇の支配下に置くことを目指しました。

建武の新政では、大きな改革が次々と行われました。中央には、訴訟を処理する「記録所」や、土地問題を解決する「雑訴決断所」が設置されました。また、地方には「国司」と「守護」を併置し、国司を天皇直属の役職とすることで地方支配の強化を図りました。

土地の所有権を綸旨で確認するという政策により、全国の武士たちを京都に殺到させることになります。後醍醐天皇は、土地問題の解決を国司に委ねることで事態を収拾しようとしましたが、これにより天皇の権限が縮小される結果となりました。

加えて、皇居である大内裏(だいだいり)の再建計画のため、地方の地頭や御家人に新たな税を課したことで、農民たちの反発を招くことになります。

足利尊氏との対立:南北朝時代の始まり

1335年、北条高時の息子である北条時行は、鎌倉幕府の復興を目指して「中先代の乱」を起こしました。北条氏の残党や建武の新政に不満を抱く武士たちを集め、一時的に鎌倉を奪還します。

後醍醐天皇はこの事態を受け、足利尊氏を討伐軍として派遣し、乱を鎮圧させました。しかし、中先代の乱の鎮圧後、足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻します。

足利尊氏は建武の新政で不満が高まっている武士をまとめ、京都への進軍を開始しました。一度は敗北を喫しますが、1336年の「湊川の戦い」で楠木正成を破り、再び京都へ入ります。

京都を制圧した足利尊氏は、後醍醐天皇に対して譲位を迫ります。結果、後醍醐天皇の大覚寺統とは別系統である持明院統の光厳上皇の弟である豊仁親王(ゆたひとしんのう)を光明天皇として擁立しました。同時に「建武式目」を制定し、武士たちに対する新たな政治方針を打ち出し、実質的な幕府の創立を目指しました。

一方で、後醍醐天皇は京都を離れ奈良の吉野へと移り、1336年12月に吉野を新たな皇居とし、自らが正統な天皇であると宣言しました。

さらに、京都の光明天皇に渡した三種の神器は偽物であり、本物は吉野にあると主張しました。この動きにより、京都の「北朝」(持明院統)と吉野の「南朝」(大覚寺統)が並立し、日本は「南北朝時代」に突入します。

まとめ

後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕に成功し、建武の新政を始めたものの、貴族中心で武士を軽んじる政策や、急進的な改革による農民への圧迫により、3年で終わりを迎えることになります。

後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府を倒幕した立役者でもある足利尊氏は、武士の不満をまとめ、後醍醐天皇を裏切る形で、反乱を起こしました。京都を制圧した足利尊氏は光明天皇を擁立しました。

京都から離れた後醍醐天皇は吉野にて、正式な朝廷は吉野にあると宣言。この結果、京都の北朝と吉野の南朝の2つに分かれる南北朝時代が始まったのです。