国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)は、明治時代に日本の国会開設運動で中心的な役割を果たした政治結社です。自由党の母体となりました。
板垣退助が、1875年(明治8年)に自由民権運動を全国的に展開するため、愛国社を結成しましたが、板垣が政府の参議に復帰するなどしたためにすぐに自然消滅。それから3年後の1878年(明治11年)9月に愛国社は再興され、翌年11月に開かれた第3回愛国社大会で国会開設請願の署名を集める事と全国で遊説を展開する事が決まりました。
1880年(明治13年)3月15日に第4回愛国社大会が大阪で開かれると、全国から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まったのです。この大会では議長に片岡健吉、副議長に西山志澄が選ばれ、愛国社とは別組織の形で国会期成同盟が発足することになったのでした。
国会期成同盟は、国会開設請願書を天皇に提出する事、国会開設の請願が天皇に聞き届けられなかった場合には同年11月に大会を開く事、国会開設が実現するまでは国会期成同盟を解散しない事などを決め、河野広中、片岡健吉を請願の代表として選んで東京に赴かせました。
国会開設請願書を太政官および元老院に提出しようとしましたが、政府は請願権を認めず却下。また、政府は太政官布告として集会・結社の自由を規制する「集会条例」を制定して自由民権運動を圧迫、弾圧しました。