西郷隆盛(さいごう たかもり)は、幕末の薩摩藩士、明治時代初期の政治家、軍人です。大久保利通と長州藩の木戸孝允とともに維新の三傑の一人に数えられています。
薩摩藩の下級藩士でしtが、藩主の島津斉彬の目に留まって抜擢されました。当代随一の開明派大名であった島津斉彬の薫陶を受けて、めきめきと隆盛は頭角を現します。しかし、斉彬が急死して、その政敵である島津久光(斉彬の異母弟)が薩摩藩の最高権力者となると、失脚・流罪の憂き目にあいます。斉彬と比べると数段人物の劣る久光に対して、西郷はあからさまに不遜な態度を取っていたといいます。殺されかねない境遇にありましたが、大久保利通らの後押しで復帰することができ、禁門の変、薩長同盟の成立、王政復古、戊辰戦争を巧みに主導し、薩摩藩を勝ち組に乗せることに成功しました。また、江戸無血開城にあたっては、勝海舟らとの降伏交渉にあたり総攻撃を中止しました。1871年に岩倉使節団で大久保利通らが欧州見聞の旅に出ると、日本にとどまって留守を任されます。1873年に使節団が帰国すると、自身の征韓論を大久保利通らに反対されて西郷隆盛は下野。鹿児島に戻って私学校で教育に専念しました。佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱など士族の反乱が相次ぐなか、1877年に私学校生徒の暴動かあらおこった西南戦争の指導者となりますが、敗北して自刃。死後十数年を経て名誉が回復され、いまでは上野恩賜公園に銅像が建てられています。