田沼意次の政治のあと、田沼政治の脱却を目指し、寛政の改革に取り組んだのが老中・松平定信です。
本記事では松平定信の取り組みやその成否について解説します。
- 松平定信の取り組みについて
- 具体的な施策と効果
- 化政文化の特徴
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#25
田沼意次の政治のあと、田沼政治の脱却を目指し、寛政の改革に取り組んだのが老中・松平定信です。
本記事では松平定信の取り組みやその成否について解説します。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
田沼意次のあとに政治を担ったのは、老中・松平定信でした。定信はこれまでの田沼意次の商業を重視した政策を否定し、朱子学の精神にもとづく独自の改革を実施します。
定信は1759年(宝暦8年)、田安徳川家の七男として生まれます。定信は8代将軍・吉宗の孫にあたり、その出自と聡明さからいずれは将軍の後継にと目される存在でした。しかし、親藩大名の一つ陸奥白河藩の養子となることが決まり、その後、藩主としての地位を継いで松平定信となります。
松平定信が藩主としての資質を示したのは、1783年(天明3年)の浅間山の大噴火が引き起こした「天明の大飢饉」の際です。
定信は食糧の緊急輸送や備蓄の増加など、先見の明に富んだ対策で領民を飢饉から守りました。
10代将軍・徳川家治の死後に田沼意次が失脚すると、翌年の1787年(天明7年)、後、定信はその政治手腕を買われ老中に任じられます。そして、11代将軍・徳川家斉の補佐として「寛政の改革」と呼ばれる改革に取り組みました。
寛政の改革は、失政と見なされた田沼意次の政策からの脱却を求める声が高まる中で始まりました。
田沼時代には、商業活動が政治の中心にあり、これが社会の不安定と財政の悪化を招いていました。松平定信はこれに対して、幕府の経済基盤を再構築し、社会秩序を正すことを目指しました。
定信は、田沼政治の象徴であった諸々の営利事業を取り止め、株仲間に課されていた税の一部を廃止しました。これにより、幕府内部の腐敗を抑え、経済活動を公正なものにしようと試みました。
当時は商業重視政策の影響で、農村を離れて都市へ流入する農民が増加していました。しかし、商いで儲けることを良しとしない朱子学を信奉していた定信は、「農業こそが国の根幹である」という価値観のもと、農村の復興に注力していきます。
まずは大都市江戸への一極集中を抑え、農村の労働力を回復するために、地方出身の農民に資金を与え帰農を奨励する政策(旧里帰農令)を実施しました。資金不足に苦しむ農民には、農具や種籾を低利で貸し出す助成策を行い、また、間引き(新生児の殺害)を禁じ、児童手当の支給を通じて農村の人口増加を図りました。
下級旗本・御家人は元々石高があまり高くないにも関わらず、江戸に居住しなければならなかったため、多くの者が借金生活を余儀なくされていました。武家の困窮は江戸全体の市場経済にも影響するため、松平定信は「棄捐令(きえんれい)」を出して救済に乗り出します。
棄捐令の内容は、札差(米の仲介業者で、高利貸しなども行っていた)に対して6年以上前の借金の帳消しや、それ以降の借金の利子抑制を求めるものでした。
棄捐令の施行は、旗本・御家人の経済状況を一時的に改善しました。借金の重荷から解放され、経済的な再起が可能となったのです。
しかし、この法令は札差に大きな経済的損失をもたらし、市場での信用不安を引き起こす要因になりました。結果として、札差からの借入が難しくなる事態ともなってしまいます。武家の困窮の原因は、そもそも江戸という大都市での生活苦があります。根本的な解決策ではない棄捐令は、余計に武家が困窮する事態を発生させてしまったのでした。
松平定信は、治安維持と、飢饉への備えとして、人足寄場・七分積金などの制度を実施しました。
人足寄場は、無宿人や浮浪者を一か所に集め、彼らに職業訓練を施し社会復帰を促す目的で江戸の石川島に設置されました。石川島では大工や米つきなどの技術が教えられました。
人足寄場は、当時増加していた無宿人問題への対策として、世界史上でも非常に先進的な取り組みであったと評価されています。
諸藩に対して飢饉に備える穀物の備蓄を命じ、社倉(公共の穀物倉庫)を建設しました。後には江戸にも適用され、将来の食糧危機に迅速に対応できる体制を整えました。
七分積金は町々が積み立てた救荒基金であり、町入用の経費を節約した額の7割に、幕府からの1万両を加えて基金を形成しました。
この基金は、地主が負担する町入用の経費に充てられ、水道や道路の修繕など、基盤整備に使用されました。
この制度はその後も厳格に運用され、後の災害時での救済に大いに役立ったとされています。明治維新の際には総額で170万両の余剰があったとされています。
朱子学を信奉していた松平定信は、朱子学のみを幕府公認の学問として認め、それ以外の学問を教えることを禁じました。(寛政異学の禁)
当時、各地で流行していた様々な学問、特に陽明学や古学などの朱子学以外の学問を排除し、1790年(寛政2年)、湯島聖堂学問所(後の昌平坂学問所)での朱子学以外の学問の教授が禁止されました。
この措置は、幕府による儒官の登用試験においても反映され、朱子学に基づく知識のみが求められるようになりました。
ただし、寛政異学の禁が適用されたのは幕府直轄の学問所のみであり、各地の藩校で朱子学以外の学問が禁止されたわけではありません。
また、長崎の出島でのオランダとの交流などヨーロッパからもたらされた洋学や日本古来の文化や文学を学ぶ国学などを後に取り入れるようになり、寛政異学の禁は数年で実質的に機能しなくなりました。
朱子学精神のもと精力的に改革を推し進めた松平定信ですが、「尊号一件」と呼ばれる事件をきっかけに失脚することとなります。
時の天皇であった光格天皇は、皇子がいなかった後桃園天皇の後を継ぐべく閑院宮家から即位しました。そのため、実父である閑院宮典仁親王は、天皇に即位しておらず、摂関家よりも位が下という扱いだったのです。このことに不満を抱いた光格天皇は、実父に「太上天皇(上皇)」の尊号を贈ろうとしたのです。しかし、定信は、太上天皇の尊号は皇位を譲位した者にのみ与えられるべきであり、皇位についていない典仁親王に贈るのは不適切だと主張しました。
松平定信が反対したのは、尊号の贈与が政治的に利用されることを懸念し、君臣の名分を私情によって動かすべきでないという考えからです。定信のこの姿勢は、彼の政治的な清廉潔白さを象徴するものともいえます。
すると、時を同じくして、将軍・徳川家斉も父の一橋治済に「大御所」の尊号を贈ろうとしたのです。
光格天皇の要請を拒絶した理屈上、定信は家斉の件にも反対します。これが定信にとって致命傷となり、寛政の改革の不首尾と家斉の不興を買ったことから、松平定信は1795年に老中を解任されてしまいます。清廉潔白な態度を貫いたことによる解任でした。実は定信が老中に在任していた期間は十年にも満たなかったのです。
定信解任後は、11代将軍徳川家斉が実権を握ることになりました。家斉の将軍在任は1837年にまで及び、さらに家斉は将軍を子どもの家慶に譲った後も大御所として実権を握りました。徳川家斉が実権を握っていた寛政の改革から天保の改革までの間の約50年間を大御所時代と呼びます。(家斉が実際に大御所だった期間は1837年から1841年までですが、後に振り返って、徳川家斉が実権を握っていた時期は、将軍在任期間も含めて大御所時代と呼ばれるようになりました。)
大御所時代は自国の内外部両面で、情勢が緊迫していたものの、将軍は贅沢な生活を続け、その結果、政治は腐敗し、治安も乱れることになりました。
化政文化は19世紀の文化・文政期(1804年~1830年)に最盛期を迎えた文化です。時期的には寛政の改革後の大御所時代にあたり、泰平の世を満喫する江戸の庶民を中心に、活気あるさまざまな文化が生まれました。
この時代、寺子屋の普及などによって識字率が向上し、庶民の文化水準が高まっていました。中でも文芸は「遊びのもの」として広く町人生活のさまざまな面を滑稽や人情豊かに描き出され、特に滑稽本と読本が、広く愛読されるジャンルとして台頭しました。
滑稽本は、日常生活の風刺やユーモアを交えた物語です。庶民の間で特に人気があり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が代表作として知られています。
『東海道中膝栗毛』は、主人公の弥次郎兵衛と喜多八が東海道を旅する様子をユーモラスに描いています。
式亭三馬は、『浮世風呂』や『浮世床』など、江戸の町人生活をリアルに描きました。
式亭三馬の作品は、銭湯や飲食店が舞台となり、そこで繰り広げられる人々の生活や人間模様を鮮やかに描いています。
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は、約30年にわたり100冊以上が出版された大作です。
『南総里見八犬伝』は忠義や勇敢さを象徴する八つの珠を持つ八人の犬士の冒険を描いており、勧善懲悪の思想が色濃く反映されています。
錦絵とは、多色刷り技法を用いた浮世絵の一種です。
18世紀後半の江戸時代に日本で発展し、単色の墨版画から一歩進んで、色彩豊かな表現が可能になり、庶民文化の中でも特に目を引く芸術として急速に普及しました。
東洲斎写楽は役者絵を中心に活動した浮世絵師です。役者の表情や動きを強調して描くことが東洲斎写楽の作品の特徴として知られています。
これまでの時代は、役者を美化する、役柄に合わせるなどして類型的に描かれていましたが、東洲斎写楽はそうした常識にとらわれず、役者の顔が持つ特性やポーズなどを大胆に表現しました。
喜多川歌麿は、美人画において類まれな才能を示した画家です。
これまでの美人画では風景の一部や全身が描かれているものが主流でしたが、喜多川歌麿の作品の多くがバストアップの構図で描かれています。
女性の顔の表情や細部を細やかに表現し、雲母の粉を用いた雲母摺りで、光沢のある仕上がりに仕上げていることが特徴です。
葛飾北斎は創造力と技術の幅広さで知られる浮世絵師で、特に『富嶽三十六景』は世界的にも知られています。
『富嶽三十六景』は全46作品に富士山をあしらっており、風景画というジャンルを確立させました。
広重の風景画は人物や名物を描くことで旅の情景をリアルに捉える画風が知られています。
江戸時代後期は化政文化の盛り上がりと共に、都市部で劇場や見世物小屋が急速に増加しました。
歌舞伎や人形浄瑠璃などの伝統的な演劇から、落語や講談、奇抜な見世物まで、多種多様な娯楽を提供し、庶民の間で大いに人気を博しました。
また、五節句のような貴族社会で行われていた年中行事が、武士や庶民にも広がりました。正月、端午の節句、七夕などが庶民の間に広がったのもこの時代です。
伊勢神宮参拝や西国三十三ヶ所巡礼、四国八十八ヶ所巡りなどの宗教的巡礼が流行し、湯治、物見遊山として旅行に行く人が増えました。
厳しい貧富の差はありながらも、都市を中心に市井の人々の暮らしは全体として豊かになっていったのが化政文化の特徴と言えます。
松平定信が行った寛政の改革は、田沼意次の治世から脱却するべく、農村の復旧に注力したことが特徴です。囲米や七分積金のような後に続く政策もあり、一定の成果を上げました。
しかし、朱子学の精神にもとづく定信の政治はある種「真面目すぎる」側面もあり、その代表とも言える尊号一件が起きたことで、松平定信自身も失脚してしまいます。
その後は50年にもわたる大御所時代が続き、政治の腐敗や治安の乱れが進みますが、この頃日本海にはさまざまな外国船が出没するようになります。いよいよ、泰平を誇った江戸時代にも暗雲が立ち込めるのです。