18世紀末から欧米列強の動きが活発になり、欧米列強は日本に開国を迫るようになります。日本は「鎖国」体制を維持しようとしますが、ペリーの来航によって終焉を迎えます。
本記事では、ペリー来航から開国までの流れとその後の幕府の混乱について解説します。
- ペリー来航と「鎖国」の終焉
- 日米和親条約と日米修好通商条約締結までの経緯
- 開国による政治・経済の混乱と尊王攘夷運動の高まり
歴史年表だけでは語り尽くせない日本と欧米列強のせめぎ合い、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#28
18世紀末から欧米列強の動きが活発になり、欧米列強は日本に開国を迫るようになります。日本は「鎖国」体制を維持しようとしますが、ペリーの来航によって終焉を迎えます。
本記事では、ペリー来航から開国までの流れとその後の幕府の混乱について解説します。
歴史年表だけでは語り尽くせない日本と欧米列強のせめぎ合い、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
18世紀末以降、欧米列強の船がさかんに日本を訪れるようになります。アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことをきっかけに、1842年に異国船打払令を緩和して対外姿勢を軟化しました。
しかし、「鎖国」そのものは維持する姿勢を見せ、1844年のオランダ国王による開国勧告にも従おうとはしませんでした。
これを終焉させたのが、ペリーの黒船来航です。
1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令長官であるペリーは、4隻の軍艦を率いて江戸湾の浦賀に突如現れました。蒸気の力を使い、風や潮の流れに逆らって進む巨大な軍艦は、「黒船」と呼ばれ、日本人からは恐れと驚きの目で迎えられました。
ペリーの来航の背後には、北太平洋での捕鯨活動や、太平洋を横断する新しい貿易ルートを開くという目的がありました。
特に中国との貿易は、アメリカにとって非常に重要であり、そのためには日本の港での食料や燃料の補給が不可欠でした。
ペリーはこれまでの外交使節と比べると強硬路線を取り、武力行使も辞さない姿勢を示しました。過去の穏健な路線では失敗が続いていたため、日本に対して「友好に訴えるより恐怖に訴える方が利点がある」と考えたのです。
開国要求に対し、幕府は翌年に回答するとして一旦ペリー達を退去させましたが、1954年(嘉永7年)、ペリーは前回よりも多い7隻の艦隊を率いて再来航し、幕府を威圧したのでした。
ペリーの来航と強い圧力により、幕府はやむなく1854年(安政元年)、日本はアメリカと日米和親条約を締結しました。
日米和親条約では、下田と箱館の二港を開港し、アメリカ船に対して水、燃料、食料の補給を行うことが約束されました。アメリカ人には一定の地域内での行動自由が認められ、下田にはアメリカ領事館が設置されました。
日米和親条約の大きな問題点は、片務的最恵国待遇をアメリカに与えたことです。
片務的最恵国待遇とは、日本が他国とアメリカよりも有利な条約を結ぶ場合、アメリカにも同等の待遇を保証するという内容です。アメリカが日本より有利な条件での条約を結んだ場合には最恵国待遇は適用されません。
日米和親条約によって、アメリカは日本から一方的に有利な取扱いを受けることとなります。そのため、日米和親条約の締結は、日本国内で大きな反発を招きました。
日米和親条約の締結後、日本はイギリス、ロシア、オランダとも同様の不平等条約を結ぶことになります。約200年におよぶ「鎖国」体制はこれらの条約の締結により終わりを迎えました。
1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスが下田に着任し、通商条約の締結を強く迫りました。日本側は消極的な態度でしたが、ハリスはアロー戦争で英仏が清と争っていることを背景に、日本も侵略を防ぐにはアメリカとの条約調印を早く進めるべきであると求めました。
老中である堀田正睦は、外国との条約調印にあたり天皇の勅許を得ようとしましたが、孝明天皇と攘夷派の公家たちはこれに強く反対しました。やむなく、大老の井伊直弼は、朝廷の勅許なしで条約調印を強行することとなりました。
1858年(安政5年)に日本はアメリカと日米修好通商条約を締結しました。この日米修好通商条約では、神奈川を含む5港の開港、江戸と大坂の開市、自由貿易、片務的領事裁判権の承認、および関税自主権の喪失が定められました。
領事裁判権とは、アメリカ人が日本で犯罪を犯した場合、アメリカの法律で裁くというものです。この権利はアメリカにだけ認められ、日本には認められませんでした。
日米修好通商条約により、日本はさらに多くの不平等な条件を受け入れることになります。加えて、日本はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の不平等条約を結ぶことになりました。これらの一連の条約を安政の五カ国条約とよびます。
日本の開国は、日本国内の経済、政治、社会の各面で大きな変化を引き起こしました。外国との通商が始まることで、特に経済面では輸出の増加とともに、多くの問題が浮上することになります。
日本の主要輸出品である生糸や茶の輸出が急増し、国内の市場では生糸や茶の不足により、物価が上昇しました。
同時に、外国からの輸入品が国内市場に流入することで、国内の生産者は競争に晒され、多くの人々が困窮することになってしまったのです。特にイギリスからの毛織物や綿織物の輸入は、日本の織物業者に大きな打撃を与えました。
さらに、日本と外国間での金と銀の交換比率の違いを利用して、外国人は日本の金を大量に持ち出しました。10万両以上の金が国外に流出し、国内経済のインフレと混乱を招きました。
幕府は金の含有量を下げた万延小判を発行して対策を講じましたが、これが逆に貨幣価値の低下を招き、さらなるインフレを促進したのです。
上記の物価の高騰と市場の混乱を収束させるため、幕府は1860年に五品江戸廻送令を発令しました。
五品江戸廻送令とは、主要な商品を江戸の問屋を通じてのみ販売することを義務付けた政策です。貿易を管理することで、物価を安定させることが狙いでしたが、在郷商人や外国人商人の反発を招いたため、効果は限定的でした。
外国船の度重なる来航を受け、国内では開国以前より攘夷論(外国排斥論)が高まっていました。特に孝明天皇は開国に反対していたため、やがて攘夷論は尊王論と結びつき、下級武士や公卿を中心に支持が拡大していきます。
そのような中、庶民や下級武士の生活に大きな影響を与えた開国後の経済的混乱は、幕府への不信感へと繋がりました。そして、全国における尊王攘夷と反幕府の気運を後押ししていくことになるのです。
約200年間続いた日本の「鎖国」体制は、ペリー来航をきっかけに終焉を迎えます。武力行使を辞さない強硬姿勢を取る米国に対して、不平等な条約である日米和親条約や日米修好通商条約を結ぶことになりました。
アメリカ以外の西欧諸国に対しても同様の条約を結び、貿易が始まると物価上昇や金の流出などの問題が起こり、経済的に混乱し始めます。その結果、幕府への反感が高まり、江戸幕府の立場を揺るがすことになる尊王攘夷の動きが活発化するようになったのです。