平安時代後期、藤原頼通以降、藤原氏を外戚としない天皇が即位し、天皇を譲位した後の上皇が政治を担う「院政」が始まり、藤原氏の影響力は低下していきます。
- 後三条天皇の即位と荘園整理
- 白河上皇による院政
- 鳥羽上皇による院政の継続
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#13
平安時代後期、藤原頼通以降、藤原氏を外戚としない天皇が即位し、天皇を譲位した後の上皇が政治を担う「院政」が始まり、藤原氏の影響力は低下していきます。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
9世紀後半以降、藤原氏一族による摂関政治が続きましたが、藤原頼通の時代には娘を天皇家に嫁がせたものの、男子が生まれなかったことで、天皇家の外戚という関係性が維持できなくなり、摂関政治の最盛期は終焉を迎えます。11世紀後半、藤原氏を外祖父としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位します。後三条天皇は、藤原氏の影響力を取り除きつつ、荘園整理をして、新たな政治の方向性を示しました。
後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇として即位しました。
後朱雀天皇の第二皇子として誕生し、母親が藤原氏出身ではなく、藤原氏を中心とした摂関家との外戚関係がありませんでした。このため、摂関家内部では疎まれる存在でしたが、一方で藤原頼通の異母弟、藤原能信の支援を受け、東宮(皇太子)としての地位を確立しました。
即位後、後三条天皇は藤原頼通の引退を受けて、頼通の弟の藤原教通を関白に任命しました。しかし、摂関家の影響力を抑えつつも、適切な関係を維持し、公正な態度を示すことで独自の親政を実現しました。
後三条天皇の代表的な政策として、1069年に発布された「延久の荘園整理令」が挙げられます。1045年以降に成立した荘園について、その権利を示す文書の提出を義務付け、不備があれば所有権を無効とする政策です。地方の官僚や有力貴族が私有していた荘園を整理し、朝廷の財政基盤となる公領を増やすことを目的としていました。
藤原氏は当初文書の提出を拒否したものの、平等院のような重要な荘園は例外とされ、藤原氏は最終的に延久の荘園整理令に従うことになります。
後三条天皇は、即位から4年後に白河天皇に譲位しましたが、その際、藤原氏の影響を排除するために、白河天皇の異母弟である実仁親王を皇太弟に立て、その次の皇太子にも白河天皇の異母弟の輔仁親王を指名しました。
後三条天皇が天皇主導の新たな政治体制への道筋を示し政治体制は、白河天皇に引き継がれました。白河天皇は譲位した後の上皇が政治を担う「院政」を行いました。
院政とは上皇(または法皇)が「治天の君」として朝廷機構の外から実権を握り、政治を行う体制です。治天の君とは、天皇家の当主として政務の実権を握った天皇または太上天皇のことを指します。
藤原氏など、 政治の中枢をおさえようとする貴族の影響力を弱めることを目的としていました。
院政は白河天皇が、幼少の息子・善仁親王(堀河天皇)に譲位した後も、上皇として政治を行ったことから始まったとされています。
上皇の地位は天皇による任命を必要としないため、上皇個人の意思による専制的な政治が展開できました。上皇の命令である「院宣(いんぜん)」 や「院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)」などを使い、朝廷の公式な機構を超えた決定権を行使しました。
院政の下では、上皇が重要な政治判断を直接下し、それを執行するための機関として「院庁」が機能しました。院庁は上皇の親しい側近や信頼する貴族が中心となり、実務的な役割を果たしました。院庁は朝廷とは別で存在しており、従来の朝廷機構に依存しない、上皇独自の政治が可能となりました。
また、院政を行うには多額の財政が必要であり、その基盤は荘園と知行国からの年貢で賄われていました。
荘園は貴族や寺社の私有地として発展しましたが、結局は上皇をはじめとする天皇家も藤原氏と同様に寄進を受けており、上皇直轄の荘園は「院領」と呼ばれ、八条院領や長講堂領のような巨大な荘園が形成されていました。
知行国からの年貢収入も、院政を支える重要な財源です。知行国とは、公領の一部のことで、上皇やその側近は、「知行国主」として収入を確保していました。
白河天皇は、後三条天皇の第1皇子として生まれ、20歳で即位、後に上皇、1096年に出家して法皇となった後も政治の実権を握り続け、堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の3代にわたり、政治的な中心人物であり続けました。
1086年、白河天皇は8歳の堀河天皇に譲位し、自らは上皇となりました。幼い堀河天皇の政治を補佐するため、白河上皇が実権を握ったことが院政の始まりとなります。
白河法皇は、法勝寺の建立や、高野詣や熊野詣などの参詣を行い、仏教崇拝に力を入れていました。
一方で、寺院が増長したことによって、延暦寺(比叡山)や興福寺(奈良)の僧兵によって、力ずくで要求を通そうとする「強訴(ごうそ)」が頻発しました。僧兵たちが神輿や神木を担いで要求を通そうとし、白河法皇は手を焼きます。
ただ寺社勢力におされていたわけではなく、白河法皇は、源氏・平氏などの武士からなる「北面の武士」を設置し、院御所の警備を強化し、寺社勢力への抑制策を講じました。
白河法皇の権力は絶大であり、自身の意に沿わないものはほとんど存在しなかったとされ、彼が「天下三不如意(自分の思い通りにならない三つのこと)」として挙げたものとして、「賀茂川の水」「賽の目」に加えて「延暦寺の僧兵」が含められるほど、延暦寺の僧兵には手を焼いていた様子が伺えます。
白河院政の晩年、武士層が台頭し始めました。北面の武士として仕えた平正盛が源義親の乱を鎮圧し、その功績により勢力を拡大しました。院政期には武士が上皇に仕えながら徐々に力を蓄える過程が見られ、後の平清盛による平氏政権成立の布石ともなりました。
白河法皇の治世は、藤原摂関家の権力を抑えつつ、上皇が政治の実権を握る新たな体制を確立しました。また、宗教的活動を通じて仏教文化を発展させ、平安時代後期の政治・文化の基盤を築きました。
鳥羽天皇は、父の堀河天皇が崩御した後、5歳で即位しました。政治の実権は祖父である白河法皇のままでした。
1123年、白河法皇の主導で鳥羽天皇は19歳で譲位を余儀なくされ、第一皇子の顕仁親王が3歳で即位し、崇徳天皇となりました。鳥羽天皇は上皇となりましたが、引き続き健在であった白河法皇が実権を握り続けます。
1129年、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇はようやく「治天の君」として政治の実権を握り、院政を開始しました。
白河法皇によって隠居させられていた藤原忠実を呼び戻し、藤原忠実の娘である藤原泰子を后に迎えました。荘園整理をほとんど行わず、むしろ積極的に荘園を認めて、天皇家も荘園を拡大していくことで、財政基盤を安定させ、多くの御願寺を建立しました。
崇徳天皇は23歳で譲位を迫ら れ、崇徳上皇となります。鳥羽上皇は、藤原得子(美福門院)との間に生まれた躰仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた事により、皇位継承をめぐる波乱が起こり始めます。
1155年、近衛天皇が早世すると、鳥羽法皇は崇徳上皇の実子、重仁親王ではなく崇徳上皇の実弟、雅仁親王(後白河天皇)を即位させ、さらに後白河天皇の子、守仁親王を皇太子としとしました。
崇徳上皇は後白河天皇の即位に大きな遺恨を抱え、崇徳上皇と後白河天皇の対立が深まりました。
この対立が翌年1156年に鳥羽法皇が崩御した後の「保元の乱」の原因となり、武士の台頭と中世の政治体制の転換へとつながる重要な出来事となります。
9世紀後半になると、藤原氏を外祖父としない後三条天皇が即位し、藤原氏の勢力は徐々に失われていき、白河天皇の時代から天皇が上皇となって政治を行う、院政の時代を迎えました。
院政の時代、天皇家も荘園と公領から収入を得ており、財政は安定していましたが、武士が力をつけ始めたことで平安時代以降、武士が日本史に関わり始めることになります。