織田信長が切り拓いた統一への道
織田信長は室町幕府を滅ぼし、楽市・楽座令を通して、経済活動を活性化させました。しかし、1582年に起きた本能寺の変によって、信長の時代は唐突に終わりを迎えます。
室町幕府の滅亡:混迷極める戦国の世
室町時代末期の日本は、政治的な混乱と地方大名間の激しい争いが起きている時代でした。
争いが続く過程で室町幕府は徐々にその権威を失い、最終的には完全に崩壊することとなりました。この過程は、戦国時代への完全な移行を象徴し、多くの武将たちが自らの力で天下を目指す新たな時代の始まりを告げたのです。
室町幕府の権威の低下
室町幕府は、足利尊氏が1338年に征夷大将軍に任命されますが、南北朝の動乱などの影響で就任当初から支配力が低かったですが、その幕府の権威も15世紀後半からさらに低下し始めました。
その加速を決定づけたのが応仁の乱(1467-1477)です。室町幕府内部の派閥間の争いから始まった応仁の乱は、やがて全国の大名が巻き込まれる大規模な戦いとなりました。
応仁の乱が終結した後も、中央政府としての機能は回復せず、各地の大名が一層の力を持つようになりました。また、都の貴族たちが応仁の乱の戦火を逃れるため各地へ疎開したことで、地方が豊かになり力をつけていくことになります。
織田信長と室町幕府の最後
織田信長が歴史上頭角を現したのが1560年に起きた桶狭間の戦いです。織田信長はこの戦いで東海地方の雄、今川義元を討ち取りました。
兵力差で見れば劣勢だったこの戦いを制した織田信長は、1568年に京都に進出し、室町幕府の将軍に足利義昭を擁立しました。
信長は、当初は室町幕府の権威を利用して自己の地位を確固たるものにしようと試みました。しかし、信長と義昭の関係は次第に悪化。1573年に信長は義昭を追放しました。義昭は将軍職を保持していましたが、この追放を以て事実上室町幕府が滅亡したとされています。
戦国時代への完全な移行
室町幕府の支配力が衰退するとともに、全国各地の有力武士達が、それぞれの領国内で本格的に勢力を伸ばすようになりました。
彼らは後に「戦国大名」と呼ばれ、独自に領国を治めながら互いに競い合いました。日本は名実ともに戦国時代へ突入したのです。
しかし、この下剋上の時代の中、戦国大名自身の立場も決して安定したものではありませんでした。彼らは「分国法」という自分が治める領国内に適用されるルールを作り、支配を強めて地盤を固めていきます。
楽市・楽座:自由な発展促す経済政策
戦国時代の日本は、地方ごとに独自の政策が採用されていました。経済政策にける特徴的なものが、織田信長による「楽市・楽座」の制度です。
美濃の制圧と岐阜城の重要性
1567年、織田信長は美濃国(岐阜県南部)の斎藤龍興を破り、稲葉山城(後の岐阜城)を攻略しました。
この勝利により、信長は美濃を平定し、京都進出への足がかりを固めることに成功しました。稲葉山城を岐阜城に改め、新たな拠点と定めた信長は、城下町の経済活動を活性化させることを急務と考え、実施したのが楽市・楽座令です。
楽市・楽座令の導入
信長は岐阜城の制札を通じて、市場での税の免除や誰でも自由に商売ができることを宣言しました。
これにより、商人たちは多大な自由と機会を手に入れ、経済活動が一気に拡大しました。
翌1568年には人や物の移動を妨げる関所の撤廃を行い、領地内の交通自由化を進めました。道路の拡幅、いわゆるインフラの整備も積極的に行いました。
これにより、商人たちの活動範囲が拡大し、地域間の経済交流が促進されました。それに加え、合戦時の物資輸送が容易になり、織田信長の戦略上も重要な役割を果たしています。
1575年に起きた長篠の戦いでは、歴史上初めて大々的に火縄銃を活用し、武田勝頼の軍に対して圧勝しました。
安土城下の経済政策
信長の楽市令は何度か交付されていますが、もっとも知られているのが、1577年に安土城下町に出した「安土山下町中掟書」という13条からなる法令です。
この法令で課税の一切の免除、普請や伝馬の役務免除などが定められ、これが町の急速な発展と人口増加をもたらしました。
信長のこの政策は、商人からの支持を不動のものとし、彼の権力基盤をさらに固めることに貢献しました。
経済革命としての楽市・楽座
楽市・楽座は単なる経済政策ではなく、既存社会に対する挑戦という側面もありました。
信長は「座」と「関所」という既得権益を根底から覆し、自由で開かれた市場経済の実現を目指しました。これは、中世日本の閉鎖的な経済システムを打破し、既得権益を喪った階層が没落していくことによって、近世への移行が進む重要な一歩であったといえます。
楽市・楽座により、信長は経済の自由化を推進し、新たな商業の流れを生み出しました。これは、戦国時代の混沌を一掃し、全国的な統一への道を切り拓くための基盤となったのです。
本能寺の変:道半ばで迎えた最期
織田信長は、戦国時代で最も影響力のある武将の一人として、天下統一に向けて着実に歩を進めていました。
しかし、その野望は1582年、京都の本能寺での出来事によって突如として断ち切られました。
信長の京都での活動
織田信長が京都に進出した後、彼は幕府の名目上の権威を利用しながら、実質的には自らの力で政治を動かしていました。
信長は京都を政治的な拠点、安土城を経済的な中心地と位置づけ、社会、宗教まで改革を進め、天下統一の基盤を固めつつありました。
しかし、その一方で全国各地の大名らによる信長包囲網が敷かれ、織田信長はこれらの鎮圧に追われることとなりました。
本能寺の変の発生
織田信長の生涯は天正10年6月2日(1582年6月21日)の未明、唐突に終わりを迎えます。
この日、信長は中国地方への軍事行動を行う途中であり、本能寺に宿泊中でした。この場所で信長の重臣であった明智光秀が謀反を起こし、本能寺を急襲しました。信長はわずかな護衛しか連れておらず、燃える本能寺の中で自害しました。
謀反の動機
明智光秀の謀反の具体的な動機は、いくつかの説が挙げられていますが、明らかにされていません。
信長の厳しい統治と高圧的な態度に対する不満が蓄積した結果というものや、光秀個人の野心が影響したという見方など様々な説が挙げられています。
影響とその後の動き
本能寺の変により信長は命を落とし、彼の天下統一の野望は突如として終焉を迎えました。
信長の死後、天下は一時的な混乱に陥りますが、この空白を上手く利用したのが豊臣秀吉でした。
豊臣秀吉が成し遂げた全国統一
織田信長の政策や構想は、秀吉やその後の徳川家康によって引き継がれました。
ここでは、豊臣秀吉が天下人になるまでの道のりや、代表的な施策である太閤検地と刀狩、朝鮮出兵について解説します。
天下統一:志を継ぎ天下人へ
豊臣秀吉は、織田信長の最も有力な家臣の一人であり、彼の死後にその事業を引き継ぐことになった人物です。
1582年、本能寺の変で信長が明智光秀に倒されたとき、秀吉は中国地方の高松城で毛利氏と戦っていました。しかし、信長の死を知るやいなや、迅速に和議を結び、京都へ向かい光秀を討ち取りました。
山崎の戦いでの勝利により、秀吉は信長の後継者としての地位を確立し始めました。
清洲会議と賤ヶ岳の戦い
1582年に行われた清洲会議では、信長の後継者選びと遺領分配が議題となりました。
秀吉は信長の孫である三法師(信長の長男の長男)を推し、これに抵抗する柴田勝家らを押し切って後継者に選出しました。それと同時に、清洲会議後の遺領分割において、秀吉は28万石を手に入れ、その勢力を一気に拡大することに成功していました。
この清洲会議により柴田勝家との対立が深まりましたが、、翌1583年、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と衝突し、秀吉が勝利しました。
賤ヶ岳の戦いでの勝利により、秀吉は織田家内での支配力を確固たるものとしました。
小牧・長久手の戦いと全国統一への道
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼした後、今度は、織田信長の次男・織田信雄との対立に秀吉は直面します。信雄は徳川家康と同盟を結び、秀吉と戦うことを決意し、小牧・長久手の戦いが勃発しました。
小牧・長久手の戦いは、東海地方のみならず、北陸、四国、関東にも影響を及ぼし、大規模な戦乱となりました。戦いは約8ヶ月間続き、徳川家康の巧妙な戦術により秀吉は苦戦しましたが、最終的には信雄と講和を結び、戦争を終結させました。
四国平定と関白就任
1585年、秀吉は四国の長宗我部元親を降伏させ、四国を平定しました。
同時に朝廷での二条昭実と近衛信輔による関白の座を巡る争いに秀吉は介入します。このときなんと、自分が近衛家の養子となることで、秀吉が関白に就任したのでした。
これにより、秀吉は政治的な権力・権威を一層強化することに成功しました。
九州平定と惣無事令
1986年、秀吉は九州の島津義久を降伏させ、九州平定を完了させました。さらに、全国統一の仕上げを目指して「惣無事令」を発令しました。
惣無事令は、大名間の私的な戦いを禁止し、違反者には厳しい処分を科す法令です。
この法令に多くの大名が従っていましたが、北条氏の家臣が惣無事令に違反したので、秀吉は小田原征伐に乗り出しました。
小田原征伐と全国統一
1590年、北条氏の家臣である猪俣邦憲が、秀吉に臣従していた武将の城を占領しました。
このことが惣無事令に違反するとして、豊臣秀吉は挙兵しました。全国の諸大名が参戦、20万もの大軍が北条氏の討伐に向かいました。
最終的に北条氏が降伏したことで、小田原征伐は終結しました。小田原征伐によって、秀吉の権威は全国に示され、全国統一を成し遂げました。
検地と刀狩:兵農分離の推進
豊臣秀吉が推進させたのが、検地と刀狩による兵農分離です。
検地と刀狩を通じて農民や町人に対する支配構造を強め、下剋上の風潮を薄めることで安定した統治を行うという狙いがありました。
太閤検地:土地の中央集権的管理
秀吉の検地(太閤検地)は、日本全国の土地を正確に測量し、土地の所有と利用状況を中央集権的に管理するシステムを確立するために行われた政策です。
太閤検地は1583年から1598年にかけて行われ、各地の耕地や宅地の面積と等級が調査され、耕作者が検地帳に登録されました。
従来は、各荘園によって耕地や宅地が管理され、そこに様々な権利や義務が生じている複雑かつ非効率な状態でした。太閤検地によって、耕地や宅地の情報が一つに集約され、土地に対しての税の徴収を合理化することに成功しました。
刀狩:社会階層の明確化と兵農分離
秀吉の刀狩は1588年に実施され、農民と武士の階層を明確に分離し、秩序ある統治体制の確立を目指しました。
また、1587年には喧嘩停止令を布告し、刀狩と争いごとを無くすことも目的でした。
戦国時代は争いごとが日常茶飯事であり、「自分の身は自分で守る」という考えが主流でした。争いごとを未然に防ぐため、刀狩では1万本以上の刀や槍が集められ、農民は武装蜂起する能力を剥奪されてしまいました。
身分統制令と社会構造の固定
1591年には身分統制令が発令され、武士、農民、町人などの身分や職業を法的に固定しました。
身分統制令により、各階層は自身の社会的役割と職務に専念することを余儀なくされ、社会の安定と効率的な統治が可能となりました。
戦国時代の自由で流動的な社会構造から、江戸時代の厳格な身分制度への移行を促進するものとして機能しました。
バテレン追放令と朝鮮出兵:対外政策の目的
豊臣秀吉の統治下で行われたバテレン追放令と朝鮮出兵は、国内の統制強化とともに、日本の国際的な地位と影響力を高めることを目的としていました。
バテレン追放令の背景と目的
1587年、秀吉は九州出兵の際にバテレン追放令を発令し、キリスト教の宣教師たちを国外に追放しました。
バテレン追放令はキリスト教が急速に広がる中で、日本人が奴隷として輸出されていること、キリシタン大名が領地を教会に寄付していることを知り、その対策として発布しました。
朝鮮出兵の複合的動機
国内の統一に成功した秀吉は、1592年と1597年のニ度にわたって朝鮮半島へ出兵します。(文禄・慶長の役)朝鮮出兵の目的については資料が少ないものの、いくつかの説が主張されています。
一つには、織田信長の遺志を継ぐ形で、さらなる領土拡大としての「唐入り」です。秀吉は天下統一後、新たな領土を求めて朝鮮への出兵を決断し、最終的には明(中国)への進出も視野に入れていました。また、欧州の列強国がアジアへの進出を進めている中で、日本が先行してアジアでの影響力を確立することも目的だったと考えられています。
出兵の経済的・軍事的背景
経済的には、明との貿易再開の可能性も朝鮮出兵の一因とされています。室町時代に栄えた日明貿易を再び活性化させることで、日本の経済的な利益を増大させる計画でした。
軍事的な背景としては、高い軍事技術があったことが挙げられています。日本は当時、大量の火縄銃を保有しており、軍事技術でも高い能力を持っていました。
これを背景に、秀吉は朝鮮半島を経由して明を攻略する戦略を立てていたといわれています。
出兵の結果と影響
朝鮮出兵は、当初は首都陥落まで進展したものの、その後朝鮮と明の抵抗により戦線は膠着。
最終的には秀吉の死によって日本軍は撤退、1598年に終結を迎えました。
この戦争は、多大な資源を消費し、日本国内の政治的、経済的負担を増加させる一因となったといわれています。また、朝鮮と明の反日感情を強める結果となりました。
まとめ
織田信長の野望を受け継ぎ、念願の全国統一を実現させた豊臣秀吉。しかし、本能寺の変の混乱にもみられるように権力の相続と維持の仕組みは依然として整わないままでした。この問題を解決するのは、秀吉亡き後に天下人として名乗りをあげた徳川家康。約260年間も続いた江戸幕府の成立へと繋がるのです。