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地方政治の発展と武士の反乱

10世紀ごろになると、中央の税収が不足し、律令の土地制度が崩壊していくことになります。その一方で力を持ったのが、地方の受領や荘園です。

  • 律令の土地制度の崩壊と受領による統治
  • 荘園の発展と公領との対立
  • 歴史上最初の武士による反乱、承平・天慶の乱

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

崩れていく律令の土地制度と地方政治

律令の土地制度は、公地公民が原則です。すなわち、土地は全て「公」のものであり、私有が許されない制度でしたが徐々に崩壊していくことになります。その大きなきっかけとなったのが743年に発布された「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」です。これによって、荘園(私有地)が増えていくことになります。

墾田永年私財法では、開墾した土地を開墾者の私有を認めていました。しかし、私有地であっても納税の義務はあります。開墾者たちは、税負担を減らしたり、免れたりするために強い力を持つ大貴族や大寺院に開墾した土地を寄進(寄付)するようになりました。税負担を減らすスキームができたことから全国的に荘園の開発はさらに拡大していきました。

地方政治を担う国司:権力強化と「受領」の登場

律令制度では、男性を中心に課税していました。そのため、税負担が少ない女性に戸籍を偽る事例などが増えていきます。結果として、律令制の基盤であった班田収授法(農地を国から受け取る法)や戸籍制度が形骸化していました。

朝廷は地方行政官として仕事をする国司を配置し、なかでも現地に赴任して行政責任を負う「受領」は強大な権限を持ち、地方行政や徴税を一手に引き受ける体制が確立されていきました。

受領は有力農民の「田堵(たと)」に田地を耕作させ、官物(朝廷への貢物)や臨時雑役を課しました。また、土地を「名(みょう)」という単位で分割し、それぞれの土地に「負名(ふみょう)」と呼ばれる請負人を設定して徴税を行いました。この仕組みにより、受領は政府に納税するだけでなく、自らの収入を大幅に増やすことが可能となりました。

受領は、その強大な権限を駆使して巨額の財産を蓄え、一国(今でいう都道府県レベル)を事実上支配するほどの影響力を振るいました。受領の地位には莫大な経済的利益が伴ったため、摂関家など大貴族への賄賂や朝廷儀への私財提供をすることによって、受領の地位を獲得しようという行為が横行しました。また、受領としての任期が終了した後も現地に基盤を築き、土着する受領も多くなっていきました。

受領の権限が強化され、経済的な魅力のある職位となった一方、地方への赴任を嫌がる貴族もいました。国司として任命されたものの現地に赴任はしたくない、京に留まったままで収入だけは得たいという層がいたのです。こういった国司に任命されたものの現地に赴任しないものを「遥任(ようにん)」と呼びます。この場合、国司の代理人である「目代」が国衙(地方役所)に派遣されるようになりました。目代の監督の下、地方豪族を「在庁官人」として起用し、地方政治の実務を担わせるようになりました。中央から目代が赴任しているものの、地方における現地勢力の力が増していきました。

荘園の発展:租税を回避し貴族達の収入源に

律令の土地制度の崩壊とともに地方では、有力農民や豪族が耕作地を広げていき、勢力を拡大させました。

その中でも、大きな影響力を持ったのが、租税を免れる「不輸(ふゆ)」や役人の立ち入りを拒否する「不入(ふにゅう)」の特権を持つ荘園です。

荘園は当初、地方の有力農民や豪族が開墾した土地を基に発展しました。これらの初期荘園(墾田地系荘園)は、開発領主が直接経営する形式が中心でした。

しかし10世紀以降、国司による厳しい課税や土地収奪の圧力を受けた荘園所有者は、自身の土地を「不輸」と「不入」の特権を持つ有力寺院や大貴族に寄進し、保護を受けるようになりました。こうして成立したのが「寄進地系荘園」です。

寄進を受けた有力寺院や貴族は「領家」と呼ばれ、さらに上級の貴族や皇族に再寄進することで「本所」や「本家」と呼ばれる権威ある領主が生まれました。この構造により、荘園は多重的な支配関係を形成し、朝廷の管理外で発展していきました。

「不輸」とは荘園からの租税を免除する特権です。寺院や貴族が中央政府から太政官符や民部省符を取得することで認められました。

「不入」とは地方役人(国司など)の荘園への立ち入りを拒否する特権です。徴税や検田(田地調査)を回避するために利用されました。

これらの特権により、荘園は朝廷や国司の支配を事実上逃れ、自立した経営を行うことが可能となりました。荘園所有者は朝廷へ納める租税を回避し、代わりに領家や本所へ年貢や公事を納めることで、負担を軽減できたのです。

寄進地系荘園の増大により、朝廷の税収構造の崩壊は進み、有力農民は自らの土地を寄進することで、国司からの課税を回避しつつ保護を得る仕組みを作り上げました。

一方で、貴族や寺社は荘園からの収入を主要な財源とし、特権を行使することでその支配を拡大していきました。

荘園VS国司:荘園と公領を中心とした土地制度へ

10世紀以降、荘園と公領が並存する「荘園公領制」が成立しました。公領とは、受領が荘園以外の土地を私領のように経営している土地のことです。荘園と公領の両方が存在することで、国司と荘園領主の間で支配権や租税をめぐる対立が深まりました。

朝廷は租税徴収の責任を現地派遣の国司である受領に委ねました。受領は荘園以外の農地を「公領」として管理し、徴税を担いましたが、徴収が難航する場面も多く、滞納分を処理するために租税収納権を貴族や寺院に委ねる事例も増加しました。

荘園の増加は朝廷の財政基盤を圧迫し、11世紀以降荘園整理令がたびたび発布されました。荘園整理令は、新たに成立した荘園を停止することを目的とし、特定の基準年以降に発生した荘園の特権を否定しました。

荘園整理は地方の複雑な利害関係や貴族・寺院の強い政治力により、実行が容易ではありませんでした。むしろ、荘園領主の影響力が強まり、公領と荘園の区別を明確化する措置が進められる結果となり、土地と民衆の支配は公領と荘園に分けられるようになりました。

承平・天慶の乱 !時代をゆるがす東西二つの内乱

平安時代中期には、富士山の噴火や地震、洪水などの天変地異が頻発し、各地で盗賊行為や海賊行為が横行するようになります。社会不安な情勢の中、地方の有力氏族は自らの土地や作物を守るために武装した集団を抱えるようになりました。

承平・天慶の乱とは、ほぼ同時期に起きた、関東での平将門(たいらのまさかど)の乱と瀬戸内海での藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱の総称です。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されています。

承平・天慶の乱はただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであり、「東の将門、西の純友」という言葉も生まれました。

平将門の乱:「新皇」(しんのう)を名乗り、独立国家を形成

平安時代中期に発生した「平将門の乱」は、平将門が関東地方で起こした反乱です。

桓武天皇の孫である高望王は、臣籍降下により「平(たいら)」の姓を与えられ、千葉県南部の国司である「上総介(かずさのすけ)」となり、そのまま土着して地域の支配者となりました。高望王の子らは武士として関東各地に勢力を築いていきます。平将門もその一族の一人です。

平将門は下総国豊田(現在の茨城県南西部)を拠点とする中級官人でしたが、父である平良将の死後、伯父の平国香や平良兼との親族間の争いが激化し、この対立・抗争がゆくゆく将門の挙兵のきっかけとなります。

939年、平将門は常陸国の国府を攻め落としたことを皮切りに、下野国・上野国の国府を占領。自らを「新皇」と称し、関東独立国の樹立を宣言しました。

これに対して、朝廷は将門の討伐を決定。将門の従兄弟である平貞盛や、藤原秀郷らが中心となり討伐に乗り出し、最終的に平将門は戦死して乱は収束します。

藤原純友の乱 :西日本の最重要拠点・太宰府を占領

一方の西日本では、藤原純友が瀬戸内海を拠点に反乱を引き起こし、西日本の政治的中枢である太宰府を一時占領するほどの事態になりました。

当時、瀬戸内海では海賊行為が頻発しており、藤原純友は当初、朝廷から国司の伊予掾(いよのじょう、掾とは、4ランクある国司の中で、上から3番目にあたるものです)として任命され、海賊の討伐に当たりました。しかし、藤原純友はその後、伊予の日振島を拠点に千艘の船団を組織する海賊勢力の頭領へと転身します。

藤原純友は大宰府を襲撃し、占領することに成功しました。純友の勢力拡大に対し、朝廷は追捕使を派遣し本的な討伐に乗り出し、最終的に藤原純友は捕らえられて、斬首されることになりました。

まとめ

平安時代中頃になると、税収不足が本格化し、律令制度が崩壊し始めます。その一方で地方政治の影響力は高まり、国司の最高位である「受領」が管理する公領と、「不輸・不入」の特権を持つ荘園との対立が激しくなっていきました。

また、地方の有力氏族が朝廷に対して反乱を起こしたことも重要な事件です。平将門と藤原純友が起こした反乱は、承平・天慶の乱と呼ばれ、最終的に鎮圧されるものの、武士が起こした初期の反乱として歴史に刻まれることになりました。