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奈良時代:孝謙・称徳天皇による後継者問題と政治の混乱

史上唯一の女性皇太子として即位した孝謙天皇(後に再び即位して称徳天皇)の時代、天皇の地位や政権をめぐる争いが相次いで行われることになります。

権力争いにより政局は荒れに荒れますが、最終的に天皇位は、天武天皇系ではなく天智天皇の孫である光仁天皇が即位します。

  • 藤原仲麻呂の政治と橘奈良麻呂の乱
  • 孝謙上皇・道鏡と藤原仲麻呂の政権争い
  • 光仁天皇と桓武天皇による新たな政治基盤の確立

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

孝謙天皇の時代、女帝即位と混乱する政局。

聖武天皇には、皇位継承者となる男子の子どもが不在の状態でした。そのため、光明皇后との間に生まれた一人娘である阿倍内親王が、史上初の「女性皇太子」(今のところ唯一の事例)となり、その後、聖武天皇から生前譲位されて、孝謙天皇として即位します。しかし、孝謙天皇の後継者問題や政権掌握を巡って、政局は混乱することになります。

孝謙天皇:日本史上、唯一の女性皇太子から天皇となった古代最後の女帝

阿倍内親王(後の孝謙天皇)は、聖武天皇と光明皇后の一人娘として生まれました。皇位継承者となりうる男子が不在であったため、史上唯一の女性皇太子となり、749年に孝謙天皇は父・聖武天皇から生前譲位を受けて、即位します。聖武天皇死後は、藤原氏の血をひく母・光明皇太后の後見を受けつつ、孝謙天皇は藤原仲麻呂を重用して政治を行いました。

しかし、女性の天皇は独身または未亡人であることが原則とされ、次の皇位継承者をどうするのかの問題はくすぶり続けることになります。

藤原仲麻呂:光明皇后の甥として権勢を振るった藤原家のホープ

藤原仲麻呂(後に恵美押勝)は、藤原四兄弟の一人だった藤原武智麻呂の次男として生まれ、光明皇后の甥としてその信頼を一身に受けた人物です。

749年、孝謙天皇の即位により、藤原仲麻呂は大納言に任じられ、政権の中枢に進出しました。同時に、光明皇后が設置した紫微中台や中衛府の長官も兼任し、政治と軍事の両面を掌握しました。

橘奈良麻呂の乱

孝謙天皇・光明皇太后を後ろ盾に、藤原仲麻呂は権勢を拡大させていきますが、その専制政治に反発する勢力が朝廷内で台頭しました。その中心にいたのが、橘諸兄の子である橘奈良麻呂です。

橘奈良麻呂の父である橘諸兄は、聖武天皇の治世において太政官の首座を務め、政権を掌握していました。しかし、孝謙天皇の即位後、光明皇后の影響力が強まると、藤原仲麻呂が政権の中枢に抜擢され、橘諸兄の存在感は薄れます。

755年、酒宴の席で聖武上皇に暴言を吐いたことが密告されると、諸兄は自ら辞職。その後、藤原仲麻呂が太政官の実権を掌握し、政権は再び藤原氏が主導するものとなりました。

橘奈良麻呂は父の失脚を経て藤原仲麻呂に対する強い対抗意識を抱き、ついに反乱を企てます。しかし、計画は事前に発覚し、彼とその支持者たちは徹底的に排除されました。

藤原仲麻呂は、敵対勢力がいなくなったことで、事実上の独裁体制を構築するに至ります。

養老律令

養老は奈良時代に施行された律令制の基本法典です。藤原不比等大宝律令を制定した後も、日本の国情に合わせた律令の整理を継続していました。不比等の死後に停止していた作業を、不比等の孫である藤原仲麻呂が再開し、彼が政治の実権を握っていた孝謙天皇の治世中に制定にこぎつけました。

養老律令と大宝律令には、大きな違いはありません。養老律令が施行された背景には、藤原不比等の成果を活用することで、不比等の政治を継承することを宣言し、孝謙・仲麻呂政権の安定を図ろうとする政治的意図があったと考えられています。

孝謙上皇の時代、譲位後の主導権争い

孝謙天皇は一、天武天皇の孫にあたり、藤原仲麻呂に近い大炊王に天皇位を譲り、一旦上皇となりました。しかし、仲麻呂の後ろ盾とともなっていた光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と藤原仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなっていきます。

淳仁天皇:藤原仲麻呂の進言で、孝謙上皇の逆鱗に触れる

758年、孝謙天皇が譲位する形で、藤原仲麻呂が強く推す大炊王が淳仁天皇として即位します。淳仁天皇は、藤原仲麻呂と深く結びついていて、藤原仲麻呂が政治の実権を握っていました。

藤原仲麻呂は「恵美押勝」という名をたまわり、さらに政治権力を独占していきます。貨幣の鋳造権や、私印を利用する権利(当時は原則禁止であった)を手中に収めるだけでなく、皇族以外で初の太政大臣(大師)となり、文化を積極的に取り入れる独自の政策を推進しました。

藤原仲麻呂が実権を握る一方で、孝謙上皇は自らを看病してくれた道鏡という僧侶を寵愛し、彼を側近として信頼を寄せていました。

道鏡が政治に関与することを快く思わない藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせました。この進言は孝謙上皇の怒りを買い、上皇と藤原仲麻呂・淳仁天皇の対立が顕在化することになります。

道鏡:孝謙上皇の寵愛を受けて出世した稀代の「怪僧」

道鏡(どうきょう)は、奈良時代に孝謙上皇の寵愛を受け、一介の僧侶から朝廷の中枢にまで登り詰めた人物です。

道鏡は高僧・義淵や良弁に学び、仏教知識やサンスクリット語に通じていました。道鏡は孝謙上皇が病に伏していた際に献身的な看病を行ったことで彼女の信任を得るに至ります。

その知識と修行による高い評価も、孝謙上皇からの信任を深める要因となりました。やがて、道鏡は「少僧都」という高位の役職に任命され、政治にも関与するようになりました。

藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱

藤原仲麻呂と孝謙上皇との対立が深まる中、藤原仲麻呂はついに武力をもって孝謙上皇とその側近である道鏡を排除しようとしました。

しかし、計画は孝謙上皇の側近によって事前に察知されてしまいます。一か八か、764年に仲麻呂は蜂起しますが、失敗。斬首となってしまいます。この乱により、藤原仲麻呂による専横政治は終焉を迎えました。

藤原仲麻呂が敗死した後、藤原仲麻呂の影響を強く受けていた淳仁天皇も天皇位を廃され、淡路国に流され、現地で亡くなりました。

称徳天皇(孝謙上皇の再即位)の時代、後継天皇をめぐる混迷の政局

孝謙上皇は藤原仲麻呂を排除した後、重祚(ちょうそ、再び天皇の座に就くこと)しました。二度目の天皇在位期間中のことを「称徳天皇」と呼びます。重祚した称徳天皇は、道鏡を政治の中心に据えました。

宇佐八幡神託事件:「道鏡を天皇に!」衝撃の神のお告げ

実権を取り戻した称徳天皇は、道鏡を「太政大臣禅師」に任命し、強い権力を与えました。また、後には「法王」という宗教界の最高位も与え、道鏡の影響力は非常に増していきます。

そのような中、道鏡の支持者たちが「道鏡を皇位につければ天下太平になる」という神託を称徳天皇に奏上しました。天皇は宇佐八幡宮の神託が本当かどうか確かめるため、和気清麻呂(わけのきよまろ)を調査に向かわせますが、清麻呂は「皇位は皇族が継ぐべき」との報告をしました。

この報告を聞いた称徳天皇は怒り、清麻呂を「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流しました。これが宇佐八幡神託事件です。結果、道鏡を天皇にすることについて反対意見が多く寄せられることになり、称徳天皇も「道鏡に皇位を継がせることは無い」という詔を出すに至りました。

770年に称徳天皇が崩御すると、天皇の軍事指揮権は、藤原永手や吉備真備ら太政官の手に渡り、道鏡の政治的影響力は急激に失われました。道鏡は下野国の下野薬師寺に左遷され、その生涯を終えることになります。

光仁天皇:天皇位が天武天皇系統から天智天皇の子孫へ

称徳天皇の崩御後、皇位継承問題が再び浮上しました。

後継者選びは左大臣・藤原永手(藤原北家、藤原不比等の孫にあたり、藤原四兄弟の一人房前の息子)と右大臣・吉備真備による協議によって進められましたが、天武天皇系統の皇族が次々と粛清されていたことで、天武天皇の血統から新たな天皇を選ぶことは事実上不可能でした。そこで、皇位は約100年ぶりに天智天皇の子孫に移ることになります。それが、天智天皇の孫にあたる白壁王です。

770年に白壁王は光仁天皇として即位しました。

即位時点ですでに高齢であったため光仁天皇自身は10年ほどで譲位しますが、その後、光仁天皇から皇位を譲られた桓武天皇の時代になると、長岡京・平安京への遷都を始めとしたさまざまな政治改革が行われました。

まとめ

孝謙天皇の時代、後継者を巡り、藤原仲麻呂や道鏡など、多くの人物が政権を握るために争い、政局は混乱していました。

最終的に、天智天皇の子孫にあたる光仁天皇やその息子の桓武天皇の時代に、さまざまな政治改革が行われていくことになります。

その後、桓武天皇が平安京に遷都し、奈良時代から平安時代へと移行していくことになりました。