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奈良時代:律令制度の推進と政局の混乱・聖武天皇による大仏造立

奈良時代に入ると、藤原不比等によって、律令制度の整備が進み、平城京に遷都されることで、政治的基盤が整っていきました。

しかし、藤原氏が政権を握った後、天然痘の流行や政治的な混乱によって、情勢は乱れていきます。

  • 平城京への遷都の律令制度の推進
  • 政局の混乱
  • 聖武天皇の鎮護国家思想と大仏造立

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

律令制の推進、計画都市「なんと(南都・710)」きれいな「平城京」

飛鳥時代から奈良時代に入り、遣使によって流入した知識や技術で発展が進みつつ、国家としての仕組みが整っていきました。

遣唐使:文化、政治に貢献

遣唐使は、中国・唐の文化や政治制度を学ぶことを目的として、初回船が派遣された630年(舒明天皇2年)から菅原道真の建議によって停止される894年(寛平6年)までの約260年間に十数回にわたり派遣されました。

冊封を受けない立場での外交使節派遣は、推古天皇の時代の「遣使」から始まりますが、618年に隋が滅び唐が建国されると、「遣唐使」として新たな形で継続され、我が国の文化に大きく貢献しました。

遣唐使は4隻の船団(「よつのふね」)で渡航し、貴族や僧侶、医師、学者、商人など数百人が同行しました。しかし、航海は非常に危険で、4隻全て無事で到着せず、難破する船も多数存在しました。

遣唐使の意義

遣唐使は仏教の経典や儀式、建築技術などを日本に持ち帰りました。特に、平安時代のことになりますが804年に遣唐使として唐に渡った日本僧の最澄と空海は、それぞれ日本帰国後に天台宗と真言宗を開きました。

また、逆に、唐からも唐の僧である鑑真が、日本からの要請を受けて、日本にやってきて戒律を広めるとともに唐招提寺を建立しました。

遣唐使が持ち帰った技術には、農業、織物、造船、医学などが含まれ、日本国内の産業発展に貢献すると同時に、唐から工芸品や絹織物がもたらされ、多くの利益をもたらしました。

遣唐使の航路

遣唐使の航路は、当初は朝鮮半島沿いの北路を使っていましたが、白村江の戦い(663年)以降は、新羅との関係が悪化したため、直接、東シナ海を横断する南路を使用するようになります。

日本は唐だけでなく、中国東北部におこった渤海とも友好的な関係を持ちました。新羅とは衝突が多かったものの、渤海とは友好的な関係を築き、渤海との北方貿易を通じて毛皮や海産物がもたらされました。

遣唐使の終焉

しかし、9世紀後半になると唐の国力が衰退し、内乱が頻発するようになりました。この状況を受け、894年、菅原道真の建議により遣唐使は停止され、以降遣唐使が派遣されることはありませんでした。

平城京:遷都とともに進められる律令国家の成長

710年(和銅3年)、元明天皇が即位し、藤原不比等(ふじわらのふひと)らによって藤原京から平城京への遷都が行われました。

平城京は、中国・唐の首都長安をモデルに、方形の都市計画で建設されました。中央には天皇が政務を執る平城宮が配置され、都市全体が政治・文化の中心地としての役割を果たしました。

和同開珎と貨幣経済の試み

遷都に先立つ708年、元明天皇の時代に和同開珎という銅貨が鋳造されました。

和同開珎は律令国家における貨幣経済の確立を目指したものでしたが、当時の社会では依然として物々交換が主流であり、流通には成功しませんでした。

その後、流通を増やすべく、蓄銭叙位令(711年)によって銭貨の所有量に応じて位を与える制度も導入されましたが、銭の貯蓄が進む一方で流通には結びつかず、廃止されました。

支配領域の拡大と律令国家の成長

平城京遷都後、朝廷は律令国家の整備を進めるとともに、支配領域の拡大を図りました。東北地方には出羽国、九州南部には大隅国を設置し、種子島も日本領に編入しました。

古事記と日本書紀:日本の歴史を記録する

712年には日本のこれまでの歴史を記録した『古事記』が完成しました。

翌年には各地の特産物や地名の由来を記した風土記の編纂が命じられました。

その後、720年には舎人親王が国家の正史としてまとめさせた『日本書紀』が完成します。

次々と変わる権力、皇族勢力VS藤原一族

奈良時代の政治は、藤原不比等によって、律令政治の基盤が整えられていきます。しかし、藤原氏が政治に進出する過程で徐々に崩れていきます。

藤原不比等と大宝律令:藤原家繁栄の基礎を築いた鎌足の息子

中臣鎌足の子である藤原不比等は、律令の専門家として、律令制度の確立に貢献した人物です。

669年に父である中臣鎌足を亡くした後、下級役人として政治の道を歩み始め、大宝律令(701年)や養老律令(718年)の編纂に携わりました。

藤原不比等は律令の編纂に加え、天皇家との結びつきを強化することで藤原家の繁栄の基盤を築きました。

事実上の天武天皇の後継者に位置づけられていた草壁皇子(天武天皇と持統天皇の息子)の教育係を務め、皇室の信頼を得ます。草壁皇子が天皇位を継ぐ前に死去すると、持統天皇によって皇子の「黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)」という刀が藤原不比等に与えられました。黒作懸佩刀はのちの文武天皇(草壁皇子の息子)に献上されています。

さらに、藤原不比等は文武天皇に娘の藤原宮子を嫁がせ、藤原家と天皇家の結びつきをさらに強固なものとしました。

長屋王と三世一身法:藤原氏台頭の防波堤となった天武天皇の孫

長屋王は天武天皇の孫として生まれ、右大臣として藤原不比等の死後に政権を主導しました。724年、首皇子(文武天皇の息子)が聖武天皇として即位すると、母である藤原宮子に「大夫人」という称号を贈る勅(天皇の命令)を出しました。

しかし、長屋王はこの称号が律令の規定にないとして反対。勅を撤回させました。この行動により、藤原不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は長屋王を危険視するようになりました。

長屋王の政権下で注目すべきは、田地の不足に対応するために723年に施行された「三世一身法」です。

三世一身法では、新たに開墾された田地の所有権を条件付きで認めました。条件としては、灌漑施設を新設して開墾した場合は子孫三代にわたり、既存の施設を利用して開墾した場合は本人の代限りで私有を許可しました。

三世一身法は、人口増加による口分田不足に対応し、土地開発を促進する狙いがありました。

藤原四兄弟と藤原氏からの初の立后:長屋王の変で権力を掌握した不比等の息子たち

長屋王は皇族勢力の代表的存在として聖武天皇即位後も実権を握っていましたが、対立する藤原四兄弟により、排除されてしまいます。

長屋王を排除した藤原四兄弟は、政権を掌握します。

藤原四兄弟と藤原氏からの初の立后

聖武天皇の夫人である県犬養広刀自との間に男児・安積親王が誕生すると、藤原氏は天皇家の外戚としての立場を失うことへの危機感を抱きました。

藤原四兄弟は妹の藤原光明子を聖武天皇の皇后に立て、政治の発言権を強化しようと画策しました。これに対し、長屋王は非皇族出身の光明子が皇后となることに対して「先例がない」と強く反対しました。

藤原氏と長屋王の対立が頂点に達した727年、藤原四兄弟は長屋王に謀反の疑いをかけ、自殺に追い込みます。これが「長屋王の変」とよばれる事件です。

藤原四兄弟は、藤原光明子を皇族以外から初の皇后とすることに成功。これにより天皇家との結びつきをより強化したのでした。

藤原四兄弟の栄光と挫折

藤原四兄弟は長屋王を排除し、政権を握りました。しかし、天然痘により、藤原四兄弟は相次いで亡くなってしまいます。

ただし、四兄弟の死後、彼らが築いた天皇家との結びつきや政治的基盤は藤原氏の繁栄を支え続けました。四兄弟を祖先とする南家、北家、式家、京家という四つの藤原氏の家が生まれ、その後の政治にも大きな影響を与えることになります。

橘諸兄と墾田永年私財法:光明皇后の異父兄にもあたる臣籍降下した元皇族。

橘諸兄(たちばなのもろえ)は、光明皇后の異父兄にあたりますが元皇族として、右大臣となり、藤原四兄弟の死後、政治の実権を握りました。

墾田永年私財法:律令国家から荘園制への転換点

橘諸兄の下で行われた重要な政策の一つが、743年の「墾田永年私財法」の制定です。墾田永年私財法は、それまでの「三世一身法」(723年)を改定し、新たに開墾した土地を永久に私有できるようにするものでした。

三世一身法を出しても開墾のペースが遅く、口分田不足の問題解決がったため、墾田永年私財法を制定することで、土地開発をさらに奨励し、国土の利用効率を高め、財政基盤を強化する意図がありました。

確かに墾田永年私財法により、大貴族や大寺社が広大な土地を所有するようになりました。しかし、その一方で、初期荘園が生まれ、律令国家の公地公民制が揺らぐことになります。

藤原広嗣の乱

橘諸兄は遣唐使帰りの学者・吉備真備(きびのまきび)や僧侶・玄昉(げんぼう)を重用し、唐の先進的な知識や仏教思想を取り入れながら、朝廷の再建を図りました。

橘諸兄の政治体制に反発した藤原広嗣(藤原式家、藤原四兄弟の藤原宇合の子、光明皇后の甥にあたる)は、吉備真備と玄昉の追放を求めて大宰府で挙兵しました。しかし、この藤原広嗣の乱は聖武天皇の命を受けた討伐軍によって短期間で鎮圧されました。

平和を願う聖武天皇、仏教による鎮護国家

聖武天皇は藤原広嗣の乱が起きたことや、天然痘の発生に心を痛め、平城京を離れて畿内を転々とする一方で、仏教に基づく鎮護国家思想を深めていきました。

仏教を国の柱として、国分寺建立の詔や大仏造立の詔を発布し、世の中の不安に対応しようと試みます。

東大寺建立へ:彷徨五年、国分寺建立、盧舎那仏像造立の詔

国分寺建立の詔

741年(天平13年)、聖武天皇は全国各地に国分寺と国分尼寺を建立するよう命じる「国分寺建立の詔」を発布しました。

地域ごとに国分寺を建て、仏教の加護を広げ、地方の安定を図る目的がありました。

盧舎那仏像造立の詔と東大寺への遷移

743年(天平15年)、聖武天皇は「盧舎那仏像造立の詔」を発布し、「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏の造立を発願しました。

当初、紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏を建立する計画が進められていましたが、政治の中心が平城京に戻されたため、745年(天平17年)に奈良の東大寺大仏殿で造立が再開されました。

大仏造立は多大な資金と労力を必要とし、途中で資金難に直面しましたが、仏教僧・行基(ぎょうき)による勧進活動で資金難を乗り越えます。

行基は全国の信徒から寄付を募り、多くの人々を結集して再び造営を推進しました。

聖武天皇自身も「華厳経」の教えに基づき、造立作業に積極的に参加しました。土を運ぶ天皇の姿勢は、臣下や民衆の一致団結を促し、約10年間の作業の末に大仏は完成します。

<コラム>皇族ではない藤原家からの皇后

藤原家から皇后が誕生したことは、エポックメイキングな出来事です。

皇族以外の人間から、皇后が誕生したということはこれまでの日本史の中でも例がありませんでした。それまで皇后という地位は、天皇の代理や中継ぎとして皇后が天皇に即位する事例も多く、天皇になる可能性のある高い地位でした。

そのため、光明子がなる前までは、天皇の男系子孫の皇族であることが皇后となるための前提条件としてあったのです。一貴族である藤原氏から皇后になるということは非常に大きな出来事だったのでした。

過去に、皇后を立てることはなかったものの「天皇の外祖父」として外戚政治を行った例として葛城氏や蘇我氏もありましたが、これらの例と、光明子が皇后となった以降の外戚政治とでは以下の点で異なります。

  • 両者は皇統につながる武内宿禰を祖としており、藤原氏と出自の格が異なること
  • 「『天皇は父子直系で相続』が原則化した時代以降の、初の外戚政治」であること

以上のことから、藤原氏から皇后が誕生したこと自体も、藤原氏がいかに政治の中枢において強大な権力を握っていたのかが分かりますし、その後の政治権力を握り続けていくきっかけとなった点においても重要な出来事だったことがわかります。

まとめ

飛鳥時代から奈良時代になると、遣唐使によって知識や技術が入り、律令制度の整備・運用が進んでいきました。

その過程で藤原氏が権力を握ることになりますが、天然痘の影響で藤原四兄弟が相次いで亡くなってしまうと、政局は皇族勢力による巻き返しもあり、混乱します。

藤原四兄弟の死後、聖武天皇は国分寺建立の詔や盧舎那仏像造立の詔を出し仏教の力で、政治の不安や疫病などの混乱を乗り越えようとしたのでした。