弥生時代になると、稲作が始まり、狩猟・採集を中心としていた生活から大きく変わり、人々は定住して田畑を広げるようになります。
稲の生産量が高まり、稲の貯蓄もできるようになったことで、生活が豊かになった反面、富の蓄積による身分の違いや争いが生まれ、人々は争いあうようになります。
- 弥生時代の始まり
- 縄文時代と弥生時代の違い
- 邪馬台国の台頭
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#02
弥生時代になると、稲作が始まり、狩猟・採集を中心としていた生活から大きく変わり、人々は定住して田畑を広げるようになります。
稲の生産量が高まり、稲の貯蓄もできるようになったことで、生活が豊かになった反面、富の蓄積による身分の違いや争いが生まれ、人々は争いあうようになります。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
弥生時代と縄文時代の大きな違いは、稲作が始まったことが挙げられます。稲作が始まったことで、生活の様子が変わり、これまでにはない問題も起きるようになりました。
日本列島に水稲耕作が伝わったのは、一説によると、なんと約3千年前にも遡れるとされています。大規模なものではありませんが、約3千年前と推定される米粒が遺跡から見つかっています。
中国大陸の長江流域では、およそ1万年~7千年前に始まったと推定される稲作ですが、日本列島へは主なルートとして朝鮮半島を経由し、紀元前10世紀に日本の九州北部へ伝わりました。(朝鮮半島経由だけでなく、「長江下流から直接伝来」「南西諸島経由での伝来」などの説も唱えられています。)
その後稲作文化は九州から徐々に拡大し、紀元前7世紀には近畿地方にまで達し、さらに紀元前4世紀頃には本州北端まで広がったと考えられています。
水田稲作の以前は、雑穀やソバなどの畑作が行われていましたが、生産性に優れた稲作が主流となっていきます。
稲作の浸透により、狩猟採集社会から定住型の農耕社会へと変貌していきました。
弥生時代を通じて、稲作の技術自体も進歩していきました。
弥生時代初期に行われていた稲作は「湿田」と呼ばれ、湿地帯をそのまま利用して行われていました。福岡県の板付遺跡などにその様子が残っています。
板付遺跡では、稲の生産に適した水位を保つために井堰(いせき)を備えた水田が確認されています。
弥生時代の中期から後期にかけて、水稲耕作の技術はさらに発展し、灌漑施設を利用し、水の出し入れができる乾田での稲作が盛んになりました。
川や池から水を引くための水路を設け、水を必要な時に供給できる灌漑施設が整備されたことで、土の栄養価が高まり、米の生産性が向上しました。
弥生時代後期の集落と水田跡が残っているのが、静岡県にある登呂遺跡です。登呂遺跡では、12軒の家と2棟の高床倉庫が発見されており、約60人が暮らしていたとされています。
水稲耕作の広がりとともに、農業に使用される道具や技術も大きく進化しています。木製や石の道具から、鉄が使われるようになり、作業効率が大幅に向上しています。
弥生時代初期には、木製の農具が主に使用されていましたが、後に耕作用の鉄製の鍬(くわ)や鉄鎌が広く使用されるようになりました。
収穫の際には、初期には石包丁が使用されていたものの、やがて鉄鎌が主流となり、脱穀のために「竪杵(たてぎね)」と「木臼(きうす)」などの道具も使用されるようになりました。
稲作を支えるために補助的な道具も使用されました。肥料を田んぼに踏み込むために用いられた道具である「大足(おおあし)」や、田んぼの泥に足が沈むのを防ぐために足に履く、「田下駄(たげた)」などがあります。
収穫した米は、地面から高い位置に床を作る「高床倉庫」に保管されました。高い場所におくことで、湿気から米を守り、腐敗を防ぎつつ、倉庫の柱には「ねずみ返し」という構造が施され、米を守る工夫がなされていました。
弥生時代のもうひとつの特徴として、土器のみならず、青銅器や鉄器などの金属器が使われるようになったことが挙げられます。
鉄器は農具や武器など、日常生活や戦いで使われる実用品として広く活用されていました。
鉄は、弥生時代の初期に朝鮮半島から北部九州地方に伝来し、まずは農業用具として導入され、鉄鋤(てつすき)や鉄鎌(てつかま)などの鉄器が導入されています。
弥生時代以前の木製の道具と比べると、作業効率が高く、弥生時代の稲作を支える重要な道具となりました。
鉄剣などの武器も見つかっており、戦争にも活用されていたことも判明しています。鉄は主に朝鮮半島から輸入されていましたが、国内でも砂鉄が採取されていました。
青銅器は主に祭祀に使用されたと考えられています。
畿内地方を中心に発見される銅鐸(どうたく)は、大きな鐘のような形をしており、祭りや儀式の際に音を鳴らして使われたと考えられています。
瀬戸内地方や北九州地方では、銅剣や銅矛(どうほこ)が発見されました。銅剣や銅矛は武器の形をしていますが、実際には戦闘用ではなく、祭祀のために使われていたでしょう。
全国各地で銅鏡(どうきょう)も見つかっています。占いやまじない、あるいは儀式の一部として使用されたと考えられています。
縄文土器は低温で焼かれたため黒褐色で厚手なのに対し、弥生土器は高温で焼成された結果、赤褐色で薄手のものが多く見られます。
弥生土器は、用途に応じてさまざまな形状のものが作られました。これらの土器は、稲作農耕の発展とともに多くの地域で普及し、農業や生活の必需品としての役割を果たしました。
代表的なものには、以下のような土器があります。
弥生土器は東京都文京区の「弥生貝塚」で発見された壺にちなんで名付けられました。弥生時代の名称も、ここから取られています。
弥生時代は稲作が本格的に始まったことで、縄文時代の狩猟・採集を主軸としていた生活から、農耕に合わせた定住生活が始まったことが大きな変化です。
また、収穫した米を貯蔵する必要が出てきたことから、高床倉庫が登場しました。
しかし、貯蔵できるようになったことで、別の問題も発生し始めました。貯蔵、つまり「富」が蓄えられるようになったことで、集落内・集落間に貧富の差(身分)が生まれ、集落間での争いも起きるようになってしまいました。
そして、集落間での争いに対抗するため、集団をまとめる首長が誕生し始めます。外敵が侵入できないよう、周りに堀を巡らせた集落(環壕・環濠集落)が見られるようになるのも、この時代の特徴です。
首長を中心とした集団は次第に規模を増し、「クニ(小規模な国家集団)」を形成するようになっていきます。
当時の日本列島には多くの「クニ」が生まれ、戦乱状態にありましたが、徐々に統一が進み、30国ほどの「クニ」が連合し、邪馬台国が成立しました。
集落内外での富の格差が広がるにつれ、日本列島では首長による社会が構築されていきました。
日本列島には文字がなかったものの、日本列島各地に残っている遺跡や中国の歴史書の様子から、当時の様子を知ることができます。
吉野ケ里遺跡は、佐賀県にある弥生時代後期の環壕集落です。佐賀県東部の吉野ヶ里丘陵に位置し、その範囲は約40ヘクタールにもおよび国内最大規模の広さがあります。
外壕と内壕からなる二重の環壕があり、深さ2〜3メートルの堀や木柵、土塁が敵の侵入を防ぐために施されていました。環壕内には物見櫓が設置されており、集落が外部からの攻撃に備えていたことがわかります。
遺跡内からは矢じりが刺さった人骨や首のない人骨が出土し、争いが起きていたことがうかがえます。
集落内には甕棺や石棺、土坑墓など、一般住民や兵士のための共同墓地が、遺跡の南北には首長の墓と考えられる墳丘墓があります。
吉野ケ里遺跡からは多くの土器、石器、青銅器、鉄器、さらには勾玉や管玉といった装飾品が出土しており、祭祀が行われていたようです。遺跡周辺では、祭祀に用いられたであろう福田型銅鐸も発見されています。
須玖遺跡(須玖岡本遺跡)は、福岡県春日市に位置する弥生時代の遺跡で60以上の遺跡が周囲に残っています。
「奴国」と呼ばれる小規模国家の中心地だと考えられており、須玖遺跡では、数多くの甕棺墓が見つかっています。
墓からは青銅製の銅鏡、銅剣、銅鉾、ガラス製の大勾玉といった副葬品が出土しており、中国で製造されたものもあることから、当時の須玖遺跡が中国や朝鮮半島と外交していたことがわかります。
須玖遺跡の周辺では青銅器やガラス器の鋳造跡が見つかっており、奴国の王が管理していた官営工房があったと考えられています。
須玖遺跡は政治、経済、そして技術の中心地として栄え、奴国の王が地域の支配者として強大な権力を持っていたことがわかります。
中国の歴史書『漢書』地理志と『後漢書』東夷伝には、弥生時代の日本に関する貴重な記述が見られます。
『漢書』地理志の中では、紀元前1世紀頃の日本が「倭」と呼ばれており、100あまりの「クニ」に分かれ、一部の国が朝鮮半島北部にある楽浪郡に定期的に使いをおくっていたことが記されています。
『後漢書』東夷伝では、倭の奴の国王が紀元57年に後漢の光武帝に遣いをおくり、印綬を与えられたことが記載されています。また、107年には、生口(奴隷)160人を皇帝に献じたと記されています。
「クニ」が乱立する中、中国へ朝貢(貢ぎ物)して認めてもらうことで、自国の立場を高めようとした国があったことが推察できます。
『魏志』倭人伝には、3世紀ごろの倭の国の様子が記載されています。日本では多くの戦乱が起きていましたが、邪馬台国の卑弥呼が連合国家を形成することによって、戦乱をおさめたとされています。
『魏志』倭人伝によれば、倭国は元々百余国に分かれていましたが、3世紀には30ほどの「クニ」に集約されていました。30の「クニ」を連合国家として統括したのが邪馬台国です。
邪馬台国は、女王卑弥呼が統治し、卑弥呼は呪術的な力(鬼道)を使い、弟とともに政治を行っていたとされています。
邪馬台国は魏との交流があり、239年(238年説もあり)には卑弥呼は魏の皇帝に使者を送りました。魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を授け、金印や銅鏡を贈りました。
卑弥呼は魏の皇帝の承認を受けることで、倭国における自身の権威を強化しようとしたと考えられます。このように、邪馬台国は中国との外交関係を築き、魏との政治的な関係を通じて自国の安定を図っていたのです。
卑弥呼の死後、男性の王が立てられましたが、統治がうまくいかず、国内で争いが起こりました。しかし、壱与(いよ・とよ)という13歳の少女が王に即位することで、再び国が安定を取り戻したと記されています。
『魏志』倭人伝では、邪馬台国を中心とした倭国の政治体制や文化、風習、生活の様子が描かれています。
当時の倭国には明確な身分制度が存在していました。社会は「王」「大人」「下戸」「奴婢」といった階層に分かれ、各階層に応じた役割が与えられていました。
王や大人は上位の支配階層であり、下戸や奴婢はその下に位置し、日常生活の中でも明確な上下関係がありました。
また、すでに租税や賦役が存在し、厳格な規律があったため、犯罪が少ない社会であったことも記されています。
さらに、倭国の国々には市が開かれ、そこで交易が行われていたという記述もあります。
これらの内容から、「クニ」が乱立していた時代から徐々に統一が進み、初期の国家が形成され始めていたことがうかがえます。
弥生時代に入ると、稲作が始まったことで、定住が可能となり、生活の様式が大きく変化しました。
しかし、「富の蓄積」という概念が生まれたことで、身分の差が生まれ、他集団との争いも発生するようになり、100以上の「クニ」が現れています。
「クニ」の統一は徐々に進み、3世紀ごろには30の「クニ」が連合する邪馬台国が誕生しました。