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田沼意次政治の光と影。常識破りの商業重視政策

江戸時代中期、日本の幕政は財政的な局面を迎えていました。徳川吉宗の倹約的な政策によって冷え込んだ経済を立て直すため、革新的な政策が求められたこの時代に、その才能を遺憾なく発揮したのが田沼意次です。

商業を重視し、新たな財源を生み出す一方で、干拓事業など農業の発展にも目を向けた田沼意次の政策は、現在の日本にも大きな影響を与えています。 本記事では、田沼時代について詳しく掘り下げていきます。

  • 田沼意次が打ち出した政策
  • 商業重視の政策がもたらした利益と弊害
  • 干拓事業における農地開拓
  • 田沼意次の政治キャリアが教えてくれること
  • 田沼政治のもとで花開いた才能と文化

歴史年表だけでは語りつくせない激動の時代を、ラジレキが独自解説します。

目次

田沼意次の政治。当時の常識を打ち破る挑戦的な改革

田沼意次︰側用人兼老中として権勢を誇る

1719年(享保4年)、江戸の本郷弓町で紀州藩士出身の旗本・田沼意行の長男として田沼意次は生まれました。意次は600石の小身旗本の出身でありながら、9代将軍家重・10代将軍家治の信任のもと5万7000石を領する相良藩主にまで至り、さらに側用人と老中を兼務するという、破格の大出世を遂げます。

側用人とは、将軍の側近であり、将軍の命令を老中らに伝えるなど重要な任務をこなす立場にあります。老中は、複数任命されますが幕閣のトップとして幕政を司る職ですので、側用人と老中を兼務するというのは、現代で例えるならば「官房長官兼副総理」に相当するような非常に重要な職でありました。意次は1767年(明和4年)にこの地位に就任し、以降、幕政の中心に位置します。

積極財政︰商業敵視から商業重視への転換

徳川吉宗が行った享保の改革は質素倹約・年貢増徴が主軸であり、幕府の財政は一時的に安定したものの、一揆の増加などの社会不安を増すことになりました。

田沼意次は吉宗の路線を引き継ぎつつも、年貢だけに頼らない形で幕府の財政を支える新たな道を模索します。そこで目をつけたのが、商業資本の力でした。

当時の日本は、米作などの農業こそが国や社会の根幹であるという農本思想的価値観や、利益追求を是としない(むしろ良くないこととする)儒教の影響などもあり、農業を重視・商業を敵視する風潮がありました。

そのような中、商業を積極的に奨励するということがいかに挑戦的な方針であったかは、想像にかたくありません。意次は幕府の税収を増やすため、さまざまな政策を実行していきます。

ひとつは、専売制の拡張です。これまで金銀に限定されていた専売制は、銅や鉄、朝鮮人参などにも広げて幕府の収入源を増やしました。

また、株仲間を積極的に公認し、より多くの運上金や冥加金といった租税収入を得ることに成功します。

このように、田沼意次は商業重視政策を通じて、幕府財政の再建を試みたのです。

干拓事業︰農地開拓による増収の試み

意次は商業だけではなく、干拓事業を推進したことでも知られています。これまでは農業に不適だとされていた未開の湿地や沼地を干拓し、農地を増やして米の生産量を増加させ、幕府の歳入を増やすことを目指したのです。

田沼意次が特に力を入れたのは、下総国(現在の千葉県北部と茨城県南部)に位置する印旛沼と手賀沼の干拓でした。これらの湖沼を干拓し、肥沃な耕地を創出することによって米の生産拡大を図ったのです。

商人たちからの出資をもとに大規模なプロジェクトとして組まれたものの、浅間山の大噴火(1783年・天明3年)によって工事は中断、さらに利根川水系での大洪水(1786年・天明6年)によって堤防が決壊し、干拓事業は頓挫してしまいました。

外交政策︰中国・ロシアとの関係・蝦夷地開拓

この頃、ロシア船が蝦夷地近海に現れ、通商を求める動きがありました。それを受け、仙台藩の医師である工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著し、意次に献上します。この文書は、ロシア南下の脅威と蝦夷地の開拓、さらにはロシア交易の可能性を論じており、意次はこの提案を受け入れ、蝦夷地の調査と開発に乗り出しました。

まずは、最上徳内を含む調査隊を蝦夷地に派遣し、彼らの報告に基づいて蝦夷地の海産物を増産することに成功します。

当時、蝦夷地の海産物は「俵物」と言われる干し魚や海藻などがメインであり、生魚を食さない清(中国)での高い需要が見込まれました。増産された海産物は主に清向けの輸出品とされ、意次は清への輸出に注力する方針を固めることになります。

清への輸出は、日本の貿易収益を大きく増やす可能性を秘めていたのです。しかし、蝦夷地を通じてロシアとの正式な貿易ルートを確立する計画は、意次の失脚によって頓挫しました。

相次ぐ天災と打ちこわし。田沼時代の終焉

意欲的な政策で財政再建を試みた田沼意次でしたが、不運にも数々の天災に見舞われます。自然災害の多発と社会不安の増大を受け、田沼時代は終わりを迎えるのです。

天災の連鎖

1783年(天明3年)の浅間山大噴火は、田沼政権にとって致命的な打撃を与えることになりました。この噴火は東北地方に広範な冷害をもたらし、多数の餓死者を出す大飢饉を引き起こしました。

のちに「天明の大飢饉」と言われたこの飢饉は、農民たちに多大な絶望を与えることになります。絶望に打ちひしがれ、負のエネルギーを極限までため込んだ農民たちは、百姓一揆へと突き進みます。

百姓一揆と打ちこわし

飢饉の影響は日本全国に広がり、瞬く間に社会不安へと転化しました。この社会不安は国民を暴動へと駆り立てることになります。

1787年には「天明の打ちこわし」として知られる大規模な暴動が江戸や大坂で発生しました。米の買占めや高騰に対する反発から、幕府や地方の権力者への不満が爆発したのです。

人々の批判は不当に米を買占めた米屋や、深刻な困窮状態を訴えても真剣に取り合わなかった町奉行、ひいてはその原因としての田沼政治に向かうこととなり、意次の立場は苦しいものとなっていきます。

田沼意次の失脚

相次ぐ天災と社会不安は、田沼意次の政治生命に決定的な影響を与えました。1786年、10代将軍徳川家治の死去に伴い後ろ盾を失った意次は、失政の責任を問われて老中を罷免、翌1787年には領地没収・蟄居(屋敷や自室内での謹慎)を命じられることになります。異例の大出世を果たした彼の政治キャリアは、重い処分とともに終焉を迎えました。

賄賂が横行?商業重視政策の負の側面

田沼意次の政策は商人たちに多大な恩恵を与えました。その一方で、多くの利権をめぐって数多くの人間が動いていたことも事実です。

特に、株仲間の公認や専売制度の拡張などは、商人の金銭的利益を約束するものであり、賄賂の動機付けになりました。商人たちは、政策の恩恵を受け続けるために、幕府役人や政治家に対して積極的に賄賂を提供しました。

田沼意次自身にも、「商人から『京人形』として贈られた箱を開けると、中に本物の京美人が入っていた」などという逸話・エピソードが語られるほど、田沼=賄賂・汚職というイメージが根強くありました。

しかし、実は意次本人が賄賂を直接求めたという明確な証拠はなく、真偽のほどはわかりません。また、当時の慣習としても贈り物は、お歳暮やお中元的な「挨拶」のようなものとして受け取られ、政治の円滑化のために使われることが多かったようです。

意次の政策がもたらした商業的繁栄を光とすれば、「賄賂」は光があるゆえに生まれる影であったと言えるかもしれません。

挑戦的なのは政治だけじゃなかった!田沼時代に活躍した市井の人々

田沼時代は、政治的な挑戦ばかりでなく、文化や学問の面でも大きな変革がありました。江戸の市井では自由な気風の中で挑戦的な活動が盛んに行われていました。

特に、蘭学者の杉田玄白と天才発明家の平賀源内は、この時代の代表的な人物として知られています。

平賀源内:革新と挑戦の象徴

平賀源内は医学・地質学や蘭学に明るく発明家としても活躍し、田沼意次と親交があったとされています。

彼の発明や改革は、日本の産業を刷新しようという意次の試みにマッチしていました。例えば、彼が発見した石綿は耐火織物の製造に利用され、幕府にも献上されています。また、長崎での遊学は、輸入品の国産化という目標に直結していました。

平賀源内の活動は、国内産業の自立と発展を目指す意次の政策と同じ方向にあるものでした。

杉田玄白:蘭学の普及に尽力

杉田玄白は、前野良沢らと西洋医学書『ターヘル・アナトミア』の日本語翻訳を行い、訳書『解体新書』を出版。日本の医学界に革命をもたらしました。

彼らの翻訳作業は、西洋の先進的な知識が日本にもたらされる重要なきっかけとなり、多くの日本人学者に影響を与えることになります。

玄白とその仲間たちは、田沼時代の自由な学問の気風の中で、新しい知識の獲得に励み、その成果を日本全体に広めることに成功しました。

まとめ

小身旗本から異例の出世を果たした田沼意次は、吉宗の緊縮財政・年貢頼みの政治路線を脱するべく試行錯誤しました。当時の常識を打ち破る改革で商業の発展をもたらしたという評価があるものの、賄賂政治といった批判も招いてしまいました。

功罪両面を持ち合わせた田沼時代ですが、その挑戦的な気風は江戸中期における町人文化繁栄の土台を築いたと言えるのではないでしょうか。