ラジレキ

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2度の元寇と困窮する鎌倉武士

鎌倉時代は、承久の変以降、比較的安定した時期となりましたが、海外ではチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が大きく成長していました。チンギス・ハンの孫フビライは、日本に朝貢を要求し、日本はこれを無視したことから、モンゴルの襲来を受けることになります。

  • 元寇:元の襲来とその背景
  • 元寇勝利の代償|武士たちの困窮
  • 武士救済のための永仁の徳政令とその影響

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

大海を渡る脅威!蒙古襲来

承久の変以降、鎌倉幕府は安定していましたが、8代執権・北条時宗の時代に、日本は外国(モンゴル)からの攻撃を受けます。

そのことで、鎌倉幕府は大きく揺らいでいきます。

モンゴル帝国:チンギス・ハンの孫フビライによる中国併呑、元の成立

12世紀末、モンゴル高原の遊牧民たちは、チンギス・ハンによって統一され、優れた軍事組織と騎馬戦術を用い、中央アジアや中国大陸北部、さらに西アジアに至るまで領土を拡大していきます。その最大の特徴は、騎馬軍団による高速機動と、征服地の占領にあたって巧みに懐柔政策・恐怖政策を併用した点にありました。

短期間のうちにユーラシア大陸の東西にまたがる広大な領域を支配下に置いたモンゴル帝国は、世界史上例を見ない規模の大帝国となりました。

中国大陸の南部には南宋(なんそう)が交易を軸にした経済力を誇っていましたが、チンギス・ハンの孫のフビライは軍事的圧力を強めていきます。1271年にフビライは国号を「大(元)」とし、中国王朝として中国全土を支配する正統性を主張しました。

ついに1276年には南宋の首都・臨安(現在の杭州)を陥落させ、1279年までに南宋を完全に滅亡させることに成功します。

フビライによる南宋平定後、中国大陸全土が元の統治下に入りました。フビライは大都(現在の北京)を首都とし、中央アジアや中近東とも陸路・海路でつながる交易網を整備していきます。

南宋征服の前にも、モンゴル帝国は東アジアの各国を攻め、女真族、中国北部)と高麗(朝鮮半島)を支配下に置きました。

元寇:二度にわたって襲い来る蒙古軍

フビライは、モンゴル帝国を統一したチンギス・ハンの孫であり、強大な力を誇る帝国を築いており、日本にも朝貢を求めました。

しかし、鎌倉幕府8代目執権の北条時宗は5回にわたるフビライの要求を無視し続けました。この対応によって、フビライは武力による日本征服を選択することになります。

文永の役

元軍による最初の襲来は、文永の役とよばれ、1274年に始まりました。元は、高麗の協力を得て、対馬・壱岐を経由して九州北部の博多湾に上陸しました。

元軍の戦法は、太鼓や銅鑼を打ち鳴らして集団戦を繰り広げるもので、当時の日本の武士たちの戦場の流儀とは異なっていました。また、元軍が用いた「てつはう」とよばれる爆弾や毒矢などは、日本側にとって大きな脅威となりました。

激戦が続く中、元軍は突然船に引き上げ、博多湾から退却します。諸説ありますが、一説には暴風雨が発生し、停泊中の艦船が大きな被害を受けたためとされます。

また、長期的な戦闘を想定していなかったことや、当初の目的が威圧的な示威行動に重きをおいていた可性も指摘されています。いずれにせよ、侵攻軍は撤退し、日本側は一旦、危機を乗り越えました。

弘安の役

初回の文永の役では、日本への侵攻が中断されました。しかし、フビライは日本を支配下に入れることをあきらめず、引き続き日本に使者を送り朝貢を要求し続けます。日本側が応じる気配を見せなかったため、元は再度の大規模軍事行動を計画することとなりました。

1281年の弘安の役では、文永の役と比べても、さらに大きな兵力を率いて再び日本への侵攻をはじめます。

日本側は前回の襲来を教訓に、「異国警固番役」を設置し対策責任者を確にし、また、博多湾の海岸線に石と土を積み上げた防塁(ぼうるい)を築いて守りを固めていました。その他、元の戦法に対応するため、弓矢や戦術の工夫がなされ、元軍に対する戦力が整えられました。

博多湾沿岸は防塁や海岸線の狭さなど地形的な要因もあって、元軍の大軍勢でも容易に上陸しきれませんでした。

日本側の夜襲や小型船による攻撃も奏功し、元軍は思うように前線を押し上げることができず、艦隊は海上で長期停泊を余儀なくされます。

文永の役に続き、この弘安の役でも運命を決する暴風雨が発生しました。日本近海に停泊していた元軍は暴風の直撃を受け、元の艦隊は大損害を被ります。船団が破壊され、多くの兵士が海の藻屑となり、やむを得ず撤退を余儀なくされました。

この文永の役・弘安の役での二度にわたる暴風雨はのちに「神風(かみかぜ)」と呼ばれ、元軍の侵攻失敗を神仏の加護だと捉える風潮が日本国内に広まることとなります。

報酬がない武士の困窮、幕府への不満が募る

元寇の勝利は、鎌倉幕府の指揮下にある武士、御家人たちの活躍あってこそのものでした。しかし、幕府は、その活躍に対して十分な報酬を与えることができませんでした。なぜなら、防衛戦争であり、侵略を防ぐことができましたが、新たに得られた土地がなかったのです。満足いく報酬もない中、戦費負担をした御家人は困窮していきます。その結果、幕府への不満が募りはじめました。

永仁の徳政令:債務関係を強制リセット

1297年、鎌倉幕府の9代執権・北条貞時は、経済的に困窮していた御家人たちを救済するために「永仁の徳政令」を発令しました。

永仁の徳政令の主な目的は、御家人が売却または質入れした土地を無償で元の所有者に返還させることによって、彼らの債務関係を強制的にリセットすることでした。

当時、御家人は元寇や異国警護に従事することで生じた軍役負担や、分割相続によって領地が細分化され、生活が困窮していました。そのため、多くの御家人は金銭的な問題を抱え、土地を売却したり質入れすることでその場をしのいでいたのです。

このような状況を回避するため、永仁の徳政令では、すでに売却されたり質入れされた御家人の所領を取り戻すことが定められました。特に、土地の売却や質入れが20年に満たない場合、その土地を無償で返還することが義務づけられたのです。この措置は、御家人の債務問題を解消し、幕府の基盤を安定させることを目的としていました。

永仁の徳政令は、一時的に御家人の困窮を緩和する効果がありましたが、長続きしませんでした。元寇後の財政的な問題や、御家人の土地相続問題などの根本的な問題・課題が解消されたわけではないからです。むしろ「借金帳消し」という事態から、その後の土地売却や質入れが困難となり、経済が混乱してしまいます。

徳政令発令からわずか1年後には、一部の条項が廃止され、御家人の土地処分権に対する規制も緩和されることとなりました。

まとめ

承久の変以降の鎌倉幕府の政治は安定していたものの、元軍による二度の侵攻(元寇)が行われ、激戦や防塁築造などで幕府・御家人に大きな財政負担がのしかかり、体制の動揺を招く一因となりました。

幕府は、元寇を打ち払うことに成功したものの、活躍した御家人に十分な報酬を与えられませんでした。

困窮した御家人を救済するため、鎌倉幕府は永仁の徳政令を実施しましたが、効果は一時的で困窮する御家人を救済するまでには至りませんでした。幕府を支えるべき御家人の弱体化は、鎌倉幕府の衰退へと繋がることになりました。