日本は第一次世界大戦後の戦後不況から経済的苦境に陥り、世界恐慌によってますます困窮の度合いを深めます。日本は大陸への進出を加速させることによって、経済的な苦難を乗り越えようとしました。
しかし、大陸への進出は中国との武力衝突へと発展し、国際的な孤立が深まっていくことになります。日中戦争から太平洋戦争へと発展した日本の戦争は、最終的に敗北を喫してしまいます。
- 日本の孤立と日中戦争
- 第二次世界大戦と日本の対応
- 太平洋戦争の始まりと戦争の終結
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
日本の孤立と拡大への道
1929年に世界恐慌が発生すると、各国はその対応のために自国優先のブロック経済を形成しました。
日本はこの流れに対応できず、経済的な困窮度合いを深めていきます。そのような状況で、資源供給地・市場・移民先として重要な満州に進出することを模索し、満州事変を起こしました。
満州事変:日本の満州支配と満州国の建国
満州事変とは、日本の陸軍が自作自演の事件を起こし、満州国への軍事行動を開始した事件です。
中国における反日運動が激化する中、満州における日本の権益が危うくなり、これを守るために日本政府内で軍事力を用いるべきだという声が高まったことが背景にあります。
柳条湖事件
満州事変の始まりは、1931年9月18日、満州で突然、南満州鉄道の線路が爆破される事件が発生したことでした。この事件が「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん)です。
日本が南満州の利権を確保するために設置していた関東軍は、爆破の原因を中国による犯行だとし、満州に対する軍事行動を開始しました。
しかし、第2次若槻内閣は、戦闘の不拡大を宣言し、軍に対して自制を求めました。しかし、関東軍は日本政府の意向を無視し、軍事行動をさらに拡大させていきます。
この行動は、満州支配を強化し、さらには新たに「満州国」を建設するための第一歩となりました。しかし、後の調査で実際には、これが日本の関東軍による自作自演であることが明らかになっています。
日本の満州支配と満州国の建国
1932年、満州事変の結果として、清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を元首に据えた「満州国」が建国されることになります。
満州国は名目上は独立した国家として宣言されましたが、その実権は関東軍と日本人の官吏が握っていました。
国際連盟脱退:国際社会との対立
満州事変は国際社会から批判され、国際連盟からは満州国承認の撤回を求められ、日本は国際連盟を脱退、国際社会との対立が進んでいきます。
国際連盟における日本非集
中華民国は「満州事変は日本の武力侵略である」と国際連盟に訴え、1932年、国際連盟はリットン調査団を満州に派遣し、満州事変における軍事行動について調査が行われました。報告書では日本の軍事行動を「正当化できない侵略」と結論づけ、満州国の承認を拒否するよう勧告しました。
国際連盟からの脱退
この勧告に反発した日本は、1933年2月24日の国際連盟特別総会において退席し、正式に脱退を表明。これにより日本は国際社会から孤立し、協調外交から覇権外交へと方針を転換していくことになります。
日中戦争
満州事変以後の日本と中国の関係は緊張状態にありましたが、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに日中戦争に突入します。
日中戦争はアメリカ・イギリス・ソ連が中国に協力したことで、長期化し日本は徐々に疲弊していきました。
盧溝橋事件:日中戦争の始まり
1937年7月7日、北京郊外で起きた盧溝橋事件により、日本と中国の全面戦争に突入します。盧溝橋事件は日本軍に対して何者かが発砲したことから日中の武力衝突が起きた事件です。
日中戦争が起きると、中国国内で敵対関係にあった国民党と共産党は、対日戦争への協力のために第2次国共合作を行い、日本に対抗を始めました。
南京占領と戦争の長期化
1937年12月13日、日本軍は中華民国の首都である南京を占領しました。首都である南京が陥落したことからドイツを仲介にして日中間での和平交渉が行われましたが、日本側の要求が大きすぎたことから中華民国側は和平を受け入れませんでした。その結果、日本政府は、蒋介石(しょうかいせき)率いる国民党を相手にしないという近衛声明を出し、和平交渉は失敗に終わります。
日本は自らの戦争目的を日本・中国・満州国による「東亜新秩序の建設」と唱え、南京に親日政権として汪兆銘を首班とする政権を樹立しましたが、中国内部で「民族統一戦結成」(第2次国共合作)を進める中国側の抗戦派と対立する事態に入っていきました。
中国の国民党はアメリカ・イギリス・ソ連の協力を受けつつ、抵抗し、戦争は長期化してしまいます。
日本は長期化する戦争に対抗するため、国家総動員法を1938年に制定し、政府は議会の承認を得ずに人員・物資を戦争に動員できる体制を整え、本格的な総力戦体制に突入しました。
第二次世界大戦と日本の対応
日中戦争が長期化し、日本は戦力と資源の消耗を強いられていました。その最中、1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、国際情勢は激変しました。
第二次世界大戦勃発:日本は「大戦不介入」を宣言
1939年9月1日、ドイツによるポーランド侵攻をきっかけにイギリス・フランスは9月3日にドイツへ宣戦布告し、ヨーロッパ全体が戦場となり、各国の植民地にも戦線が拡大する第二次世界大戦が始まりました。
大戦不介入の宣言
当時の日本、阿部内閣は「大戦不介入」を宣言しました。 日中戦争ですでに大きく日本の国力は消耗しており余裕がなかったことに加え、ヨーロッパ戦線に関わらないことでアメリカとの衝突を避ける目的もありました。
日独伊三国同盟条約の締結
しかし、1940年5月にドイツがフランスを降伏させると、近衛内閣はドイツ・イタリアと交渉を進め、日独伊三国同盟条約を締結します。
日独伊三国同盟条によって、お互いの国家の指導的地位を認め、同盟国が攻撃を受けた場合、政治的・経済的・軍事的に援助を受けられることが認められました。
日本の南進政策とフランス領インドシナ侵攻
日本はアメリカ・イギリスなどの連合国側の中華民国への援助ルートを断つこと、東南アジアに勢力圏を築くこと、石油を手に入れることを目的に南進を始めます。
日本はフランス領であった仏領インドシナへの軍事進駐を開始しました。
日本とアメリカ対立激化:日本に対する段階的な経済制裁強化
日独伊三国同盟が締結され、日本が仏領インドシナへの軍事侵攻を始めると、アメリカとの関係性が悪化します。
アメリカの経済制裁と南進政策の加速
日本の南進政策と三国同盟締結に対抗して、アメリカは日本への経済制裁を強化し、1940年には鉄鋼・くず鉄の対日輸出を禁止しました。鉄資源を海外に大きく依存していた日本にとって、これは軍需生産に深刻な打撃となりました。
加えて、1941年7月、日本軍が南部仏印(フランス領インドシナ南部)に進駐すると、アメリカは在米日本資産の凍結と石油輸出の全面禁止措置を発動しました。これにより、アメリカからの石油輸入に大きく依存していた日本経済は深刻な危機に直面します。
日本は「ABCD包囲網(A:アメリカB:ブリティッシュ(イギリス)C:チャイナ(中国)D:ダッチ(オランダ))」と呼ばれるアメリカ・イギリス・中国・オランダによる対日経済封鎖を受け、国際的な孤立状態に陥ってしまいました。
日米交渉の行き詰まりとハル・ノート
アメリカとの対立が深まり、日中戦争も泥沼化している日本は、ソ連との間に1941年、日ソ中立条約を締結しました。これにより、さらなる戦線拡大を防ぎつつ、アメリカを牽制し、交渉の優位性を確保しようと試みたのです。
日本とアメリカの戦争を回避するため、1941年からワシントンで日米交渉が開始され、日本側は野村吉三郎大使、アメリカ側は国務長官コーデル・ハルを中心に交渉が進められました。
しかし、中国からの全面撤兵や三国同盟破棄など、アメリカ側の要求は日本にとって受け入れがたく、調整は難航します。1941年11月26日、アメリカは「ハル・ノート」と呼ばれる最終提案を日本に提示しました。
日本政府はこのハル・ノートを「最後通牒」とみなし、交渉は事実上決裂。1941年真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争に突入します。
太平洋戦争の開戦:真珠湾攻撃と対米英戦争の開始
1941年12月8日(日本時間)、日本海軍はアメリカ・ハワイの真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃。アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与え、太平洋戦争が勃発します。同時に、日本はイギリス領マレー半島に上陸し侵略を進めました。香港、シンガポール、フィリピン、オランダ領東インド(インドネシア)、ビルマなど東南アジア各地へ進撃。短期間で広大な地域を制圧しました。
日本は、この軍事行動について、ヨーロッパの植民地となっていたアジア諸国を解放し、日本とともに「大東亜共栄圏」を建設することを大義名分に掲げました。アジアの民族自立を支援することを強調していましたが、実態は日本が実権を握り、支配を続けたことから、徐々に反日ムードが高まっていくことになります。
戦局の悪化と本土空襲:徐々に劣勢となる日本軍
開戦当初、快進撃を続けた日本でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍が壊滅的打撃を受けると、戦局は大きく不利になっていきます。
ガダルナガル島の敗戦を始め、日本軍は敗戦続きとなり、1944年に南洋諸島の重要拠点であるサイパン島が陥落すると、東条内閣は総辞職しました。その後の小磯内閣の元で戦争は続けられましたが、国内の生産能力の大部分を戦争に注ぎ込んでおり、国民の生活は大きく困窮していました。若い成人男性は戦争に送り込まれ、労働力不足も深刻化し、生活必需品や食料も不足していました。
1945年3月には東京大空襲が起き、東京の下町や主要都市の大部分が焼け野原となりました。続いて同月に米軍は、沖縄に上陸し地上戦が展開されます。住民を含む激しい戦闘の結果、多くの民間人も犠牲となり、6月に沖縄は米軍に占領されました。
日本の敗戦:原爆投下とポスダム宣言受諾
1945年、5月にドイツが降伏すると、7月には、アメリカのトルーマン、イギリスのチャーチルとアトリー、ソ連のスターリンがドイツの首都ベルリン郊外のポツダムに集まり、日本に対して無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」が出されました。
ポツダム宣言に対して、鈴木内閣は対応方針をまとめきれず、無視することしかできませんでした。
原爆投下とソ連参戦
ポツダム宣言を無視した日本に対して、アメリカは8月6日に広島へ、8月9日には長崎に原爆を投下し、多くの尊い命が失われました。同時にソ連は8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦をし、満州や千島列島への侵攻を開始しました。
8月14日ポツダム宣言の受諾・敗戦
こうした情勢下の8月14日、御前会議の結果として、日本政府はポツダム宣言を受諾することを連合国に対して通告しました。翌8月15日、昭和天皇によるラジオ放送(玉音放送)が行われ、日本国民の多くは日本の敗北を知ったのでした。
まとめ
日本は世界恐慌をきっかけに、経済状況が悪化し、自国権益の拡大のため、大陸への本格的な進出を開始し、満州事変・日中戦争が始まります。
日本の大陸進出は、欧米列強との軋轢を生じさせ、日本は国際連盟を脱退しました。その後、さらに日中戦争は泥沼化し、ヨーロッパにおいても第二次世界大戦が勃発します。
日本はヨーロッパの戦争に対して当初不介入の姿勢を示していたものの、日独伊三国同盟を結成し、アメリカも含めた連合国側との対立が深まっていきました。
アメリカとの交渉が行き詰まりの中、戦争による状況打破を選び、太平洋戦争を始めました。当初は快進撃をみせましたが、日本の国力は長期戦に耐えられるだけの体力を欠いており、次第に劣勢へとなりました。日本各地を襲う空襲、沖縄での凄惨な地上戦、そして広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦によって日本は降伏を決意し、1945年8月15日の玉音放送をもって日本の敗戦を迎えることとなりました。