平安時代、桓武天皇の治世では、これまでの天武天皇系の治世からの脱却を目指し、平安京への遷都を始めとしたさまざまな改革が行われました。
- 長岡京、平安京への遷都とその背景
- 健児の制や勘解由使の設置・政治改革の内容と影響
- 東北への侵攻と徳政相論
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#09
平安時代、桓武天皇の治世では、これまでの天武天皇系の治世からの脱却を目指し、平安京への遷都を始めとしたさまざまな改革が行われました。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
桓武天皇は奈良の平城京から現在の京都府に位置する長岡京および平安京へと遷都しました。
710年の遷都以来、造営を重ねた平城京があるものの遷都を決断したのは、これまでの古いしがらみから脱却し、新たな政治基盤の確立のためでした。
784年、桓武天皇は奈良の平城京を離れ「長岡京」への遷都を実施しました。父・光仁天皇は天智天皇の孫にあたり、これまで平城京で治世を担ってきた天武天皇系の血統から天智天皇の血統になったこと、そして影響力を高めてきた奈良仏教を排していくことなど新しい政治を始めることを明確にする目的があったと考えられます。
しかし、長岡京への遷都翌年の785年、長岡京造営を主導していた藤原種継が暗殺されるという事件が発生しました。犯行の首謀者は大伴継人らと断定されましたが、桓武天皇の弟で皇太子であった早良親王の関与も疑われました。
早良親王は無実を主張するものの、淡路への流刑に処されてしまいます。流刑地に向かう途上で、早良親王は抗議の絶食を行い、ついには亡くなってしまいました。その後、桓武天皇と早良親王の実母や桓武天皇のお妃が病没し、早良親王の代わりに皇太子に立った桓武天皇の皇子の安殿親王(のちの平城天皇)が発病します。さらに長岡京では疫病や洪水が頻発しました。この一連の出来事は、「早良親王の祟り」と噂され、天皇自身もこれを恐れました。桓武天皇は早良親王を「祟道天皇」として祀り、霊を慰めることで事態の収拾を図りました。
度重なる災害と不幸が起きたことから、桓武天皇は784年の長岡京遷都からわずか10年後の794年、新たに平安京への遷都を敢行します。
平安京の場所は、縁起の良い場所を基準に選定され、その結果選ばれたのが、風水思想に基づく「四神相応」の条件を満たす山背国愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれました。元の長岡京からは桂川を挟んで僅か数キロメートル東に寄った地でした。四神相応とは、東西南北の方位を守護する神々を象徴する自然環境が揃った土地を吉祥とする考え方です。
このように、四方を自然の守護神に守られた地として選ばれた平安京は、朝廷を呪いや外敵から守る最適の地と考えられました。
新たに造営された平安京は、東西4.5km、南北5.3kmにも及ぶ壮大な規模を誇りました。唐の都・長安に倣って碁盤目状に整備された都は「平安京」と呼ばれるようになりました。これは、新京では悪いことが起こらず、「平らかで安らかな都」、「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという願いも込められたと考えられています。。
この変化の時代には、日本仏教にも新たな潮流がもたらされました。その中心にいたのが、最澄と空海という二人の僧侶でした。彼らは804年(延暦23年)に遣唐使船に乗って留学僧として唐に渡り、それぞれ天台宗と真言宗を学びました。
帰国後、最澄は平安京の鬼門とされる方角、比叡山に延暦寺を建立し、「すべての人々が仏になれる」という大乗仏教の理念に基づく天台宗を布教しました。
空海は密教系の真言宗を確立し、「草木国土悉皆成仏」(草木にいたる国土全体がことごとく皆、仏に成れる)の理念を広め、816年には高野山に金剛峯寺を建立し、山全体を修行の場としました。また、京都の東寺(教王護国寺)を密教の拠点として国家の守護に貢献しました。
政界への影響力を強める奈良仏教との対抗も狙ったのでしょう。桓武天皇は、天台宗と真言宗を庇護し、布教を後押ししました。こうして、最澄と空海は日本における仏教の新時代を切り開く存在となったのです。
「健児の制」は、東北や九州の防衛を除き、武芸の鍛錬を積み、弓馬にたくみな地方有力者の子弟や有力農民から選抜して健児(兵士)となる制度です。
それまでの徴兵制では、庶民から大量の兵士を徴用していました。しかし、兵士の質の低下や、徴兵による負担から庶民の生活は圧迫され、社会不安を引き起こしていました。
792年(延暦11年)、桓武天皇は地方における徴兵制度を廃止し、民衆の負担を軽減しつつ地方の治安を維持できるようにしました。
桓武天皇の改革は軍制の見直しに留まらず、民衆負担の軽減策を打ち出しました。
「勘解由使」は地方行政における不正や不備を防ぎ、国司(地方行政の責任者)の交代時に適切な引継ぎを行うことを監視するための制度です。
勘解由使は、国司交代時に提出される「解由状」(げゆじょう)と呼ばれる引継ぎ文書を審査しました。この文書には、前任者が在任中に行った行政の記録や財務報告が記載されており、次の国司がスムーズに業務を引き継ぐためのものでした。
勘解由使は、この解由状の内容を精査し、前任国司が職務を誠実に遂行していたかを確認し、不正や怠慢が発覚した場合、勘解由使はこれを追及し、必要に応じて処罰を加えました。
勘解由使が実施される前は、地方の国司が自らの利益を優先し、民衆に過剰な負担を強いていることがありました。加えて、国司交代時には、不正を隠すために適切な引継ぎが行われないケースが多く、それが行政の混乱を招いていました。
勘解由使の設置は国司の不正の発見や対処を進め、地方政治を安定化させるための手段として導入されたもので、中央行政と地方行政を監査・監督する重要な職となりました。
桓武天皇は平安京の造営と同時に、日本の領域を拡大するため、8世紀後半から蝦夷の反乱に対して三度にわたる討伐を行いました。
坂上田村麻呂は「征夷大将軍」として、蝦夷(東北地方の先住民)の討伐に尽力し、東北地方の安定化を進めた人物です。朝廷は朝廷に反発する東北地方の蝦夷を討伐するため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命しました。
801年、坂上田村麻呂は約40,000人の兵を率いて蝦夷との戦争に挑みました。彼は蝦夷勢力の胆沢(いさわ:現在の岩手県奥州市)の拠点を攻撃。翌802年に胆沢城を築きます。胆沢城は、これまでの鎮守府であった多賀城(宮城県多賀城市)に代わる東北支配の新たな拠点となりました。
胆沢の戦いで注目されるエピソードが、蝦夷の族長である阿弖流為(あてるい)と盤具母礼(いわぐのもれ)の降伏です。阿弖流為と盤具母礼の二人は坂上田村麻呂に対して、500人の兵士を率いて投降しました。
坂上田村麻呂はその忠誠心と知略を評価し、二人の命を助けるよう朝廷に嘆願しましたが、朝廷は彼らを処刑しました。
二人の処刑は蝦夷の反発を産むものでしたが、坂上田村麻呂は最後まで二人に真摯な態度を示し続けたことで、以後の蝦夷の抵抗を弱める結果を生みました。
803年、坂上田村麻呂はさらに北方に進出し、志波城(しわじょう:現在の岩手県盛岡市)を築きました。
桓武天皇は平安京造営と蝦夷征討という大規模な国家事業を推進したものの、これが国庫を圧迫し、民衆に大きな負担を強いていました。「徳政相論」(とくせいそうろん)とは、805年にこれらを継続するか中止するかを巡っての議論のことです。
平安京の造営は、桓武天皇が784年に平城京から長岡京、さらに794年に平安京へ遷都したことで始まりました。新しい都の建設には膨大な費用がかかり、民衆にとって負担が重くのしかかりました。
さらに、東北地方での蝦夷征討もまた、財政と人材を消耗する事業でした。征夷大将軍・坂上田村麻呂が指揮する遠征は一定の成果を上げましたが、戦いは長引き、こちらも国家財政に重くのしかかっていたのです。
徳政相論は、当時32歳の藤原緒嗣と65歳の菅野真道という、世代も思想も異なる2人の参議の間で行われ、藤原緒嗣は、軍事(蝦夷征討)と造作(平安京造都)こそが天下の民を疲弊させている原因であるとして、停止を強く主張しました。これに対し、菅野真道は異議を唱えて、2人の主張は真っ向から対立しました。最終的に桓武天皇は藤原緒嗣の意見を採用し、平安京造営と蝦夷征討を中止する決定を下しました。
桓武天皇はこれまでの天武天皇系の治世や奈良仏教の影響などからの脱却を図るため、長岡京・平安京への遷都や健児の制や勘解由使の設置などさまざまな改革に取り組みました。
また、東北を支配下におくため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷征討を進めました。しかし、蝦夷征討は平安京の造営と合わせて財政を圧迫することになり、徳政相論と呼ばれる議論の結果、蝦夷征討も平安京造営も中断されることになります。