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足利義政と長期化する応仁の乱

足利義満の死後、足利義持は父である足利義満に反発した政策をとりますが、大名の統率が取れずに土一揆も勃発するなど、治世が乱れ始めます。

  • 足利義持の政治と大名たちの台頭
  • くじ引き将軍足利義教の恐怖政治と終焉
  • 家督相続が複雑に絡み長期化する応仁の乱

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

波乱を呼んだ「相続争い」と土一揆の勃発

室町幕府第3代将軍「足利義満」は、南北朝の合一を果たし、長く続いた南北朝時代を終わらせました。

義満の死後、後継者の地位をめぐる争いや、社会不安の拡大により、民衆による一揆・蜂起が頻発し、世の中は混乱へと向かっていきます。

目次

足利義持:父・義満への反発と統制しきれぬ大名たち

足利義持は、足利義満の息子として誕生し、9歳で将軍職を継承しました。しかし、実権は依然として足利義満が握っていたため、足利義持は名目上の将軍に過ぎませんでした。

足利義持と足利義満の関係は次第に悪化していくことになります。足利義満が足利義持ではなく異母弟の足利義嗣を寵愛し、彼を後継者とする可能性が噂されていたことも義持の不信感を募らせる要因となりました。

1408年、足利義満が急死すると、足利義持は宿老・斯波義将(しばよしまさ)らの支持を受けて幕府の実権を掌握し、足利義満の政策を否定する形で独自の政権運営を始めます。

足利義満が建設した金閣寺一帯の建築物は舎利殿以外を解体します。足利義満が推進した日明貿易を断絶し、1411年には明の使者の入京を拒み、最終的には明との国交を完全に断絶しました。

脱・義満政治を進めた足利義持の時代は、その一方で義満の強権政治によって抑え込まれていた守護大名たちが再び力を持ち始める時代ともなりました。

足利義持は、多くの守護大名から支えられた存在であったため、守護大名による中央政治進出の動きを作り、その大名たちは次第に幕府による統制に従わずに独自の勢力を伸張するようになっていきました。

地方の動き:惣村の誕生と広がる土一揆

鎌倉時代末期から、京都の貴族・寺社勢力・有力武士などによる荘園支配の構造は徐々に変化を見せていき、惣村(そうそん)と呼ばれる農民主体の自治の動きが出はじめ、独自の社会を構成していきました。

惣村の誕生

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、全国各地で戦乱が続いたことで、従来の荘園支配体制が崩れ、農民たちは自衛や共同作業の必要性から「惣村」と呼ばれる自治的な村落運営をするようになりました。

惣村の農民たちは「惣百姓」と呼ばれ、村の運営を自主的に行うようになります。具体的には、年貢の管理や治安維持、灌漑設備の管理、村のルール作りなど、多岐にわたる自治機能を持ちました。

主な組織構成と役割は以下の通りです。

  • 寄合 村の運営について重要な決定をする会議。
  • 惣掟: 農業のルールや年貢の分担、治安維持の規定など、村の決まりごとをまとめたもの。
  • 乙名・沙汰人: 年功序列や能力に基づいて選ばれる村の指導者。
  • 地下請: 惣村単位で年貢の取りまとめを請け負う制度。村は外部の支配者と直接交渉する立場となり、自治権を強めました。
  • 地下検断: 惣村内の裁判や警察の役割を担う。惣村は独自の法と執行機関を持ち、犯罪者を処罰することもありました。

惣百姓の中には守護大名と主従関係を結ぶ地侍もいました。当時の社会は、一元的な支配体制がなく、複合的な構造を持っている複雑な時代でした。

土一揆

惣村は単なる集落ではなく、自治組織としての役割を果たしており、惣村が力を持つにつれ、農民たちは自分たちの権利を守るために、外部の権力に対抗するようになりました。

初期は、荘園領主や守護大名に対し、年貢の減免や不当な支配の是正を訴える強訴や、農民が集団で村を捨てて逃げ出し、領主に圧力をかける逃散などが行われていました。

守護大名の領国支配が進むにつれ、周辺の村々と連携し、「郷」や「組」という地域組織を形成。一致団結した集団行動をとるようになり、高利貸しの債務を帳消しにする「徳政令」を求めて武力蜂起する土一揆が行われるようになりました。

正長の土一揆

正長の土一揆は、1428年室町幕府第4代将軍である足利義持が病没した年に起きた土一揆です。4月には京都での疫病(三日病)が流行し、5〜6月には、京都を襲った大洪水と全国的な飢饉が起き、農民や馬借は借金を帳消しにする徳政を求めて武力放棄しました。

高利貸し業を営んでいた土倉や酒屋を襲撃し、借金証文を破り捨てる、質屋から質物を奪い返す、金融業を行っていた寺院の証文を破棄するなど、自力で借金を帳消しにする私徳政であったことが特徴です。

幕府は、管領の畠山満家に命じて一揆を鎮圧し、幕府は最終的に正式な徳政令を発布しませんでした。しかし、一揆によって借金証文が破棄されたため、事実上の徳政が行われたのと同じ状況になりました。

足利義教:「くじ引き」は神慮の結果!恐れ知らずの強権政治

室町幕府第6代将軍である足利義教は、くじ引きによって選出された異例の将軍です。足利義教は、将軍権力を絶対的なものとするため、守護大名や有力寺院の抑え込みを図り、「万人恐怖」と称される恐怖政治を展開しました。

しかし、足利義教の強権政治は、大名だけでなく、庶民や武士層の反発も招きます。

1438年に起きた永享の乱では、関東に勢力を持つ鎌倉公方・足利持氏を、足利義教が討伐するに至りました。

また、1441年播磨の守護大名・赤松満祐が、足利義教を謀殺する嘉吉の乱を起こします。足利義教が暗殺されたことで、将軍の地位は大きく後退しました。

混迷の時代を生きた優美なる将軍、足利義政

足利義政の治世では、様々な方面で父の足利義教に対する反発を一手に引き受けることとなり、世の平和を求め続けたものの、失政を重ねたことで、幕府の体制を保てなくなってきました。

応仁の乱:決断の遅れが招いた権力闘争

応仁の乱は、足利義政の後継者問題に端を発する争いです。室町幕府の統治機能が崩壊し、戦国時代への幕開けとなった大規模な戦乱となりました。

父の謀殺、兄の病死が続き、足利義政は第8代将軍として若くして就任しました。その後、なかなか子宝に恵まれなかった足利義政は、弟の足利義視を養子に迎え、将軍後継者としていました。

しかし、1465年に義政と正室・日野富子の間に実子・足利義尚が誕生すると、足利義政の後継のを巡る対立が発生してしまいます。この結果幕府内の権力争いが深刻化してしまいました。

時を同じくして、畠山氏や斯波氏といった有力守護大名の家督争いが並行して発生し、それらの調停にあたっても足利義政の優柔不断な対応が混乱を拡大させていきます。

さらに、幕府内の最巨頭である細川勝元派と山名宗全派という二大勢力の対立も加わり、複雑な家督相続の争いを発端とする応仁の乱へと突入することとなりました。

応仁の乱がこれほど長期化した背景には、いくつかの要因があります。

1つは足利義政の失政により、幕府が大名同士の争いを収拾できなくなっていたことです。守護大名は独自の権力を強め、幕府の命令に従わなくなっていきました。

そして、応仁の乱は将軍家の後継問題だけではなく、守護大名家の相続争いも複雑に絡み合っていました。畠山氏、斯波氏、京極氏などの家督争いもあり、将軍家の後継問題が解決しただけでは争いの沈静化に至らず、応仁の乱が長引くことになります。

応仁の乱では、多くの守護大名が京都に軍を進駐させたため、地元では守護代(守護大名の代理、副知事)や国人(地方現地土着の武士)が実権を握るようになりました。大名は京都に長く留まることができず、戦争が膠着状態に陥りました。

応仁の乱は細川勝元と山名宗全の死を以て、11年で終結しましたが、終結後も幕府の権威は低下し続けます。また幕府だけでなく、守護大名の中には応仁の乱で領国に戻れず、守護代や国人が実権を握るようになるケースもありました。幕府中央や守護大名といった室町時代前期の権威・権力層の命令を無視する「下克上」の風潮が強まり、地方の戦国大名化が進むようになりました。

また、応仁の乱によって京都は焦土と化し、政治の中心地としての機能を失い、天皇や公家は経済的に困窮し、幕府への信頼も失われました。

守護大名の統制が緩み、各地の領主が独自に領地を支配するようになった。これにより、戦国時代の群雄割拠の時代へと突入していくことになります。

東山文化:現代につながる和の美学

足利義政の時代の文化は、簡素でありながら趣き深いことが特徴である東山文化として知られています。

足利義政は政治の面では活躍できていませんが、芸術に対する造詣が深く、足利義政は銀閣を建てる際、芸術家や職人を積極的に保護し、銀閣を建てました。

銀閣は財政難により、銀を貼れなかったとされていますが、簡素な武家屋敷のような装いが特徴の書院造や石と砂で風景を表現する枯山水などが取り入れられています。

茶道や華道 もこの時期に確立されました。村田珠光が侘び茶を発展させ、千利休 によって茶道として完成。また、池坊専慶 によって華道(立花)が大成されました。

水墨画では雪舟中国画の模写から脱した日本独自の水墨画風を確立し、狩野派 の祖である 狩野正信・元信 が新しい画風を生み出しました。

また、武家だけでなく庶民の生活も大きく変化し、商業や農業の発展により、各地で 六斎市(定期市) が広がり、行商人や問屋が活躍。物流の発達とともに、都市部の商業が活性化しました。農業では 二毛作や稲の品種改良 によって収穫量が増え、食文化も豊かになり、うどんや豆腐、茶 などが庶民に広まります。

一方で、職人の活動も盛んになり、刀剣や漆器 などの特産品が生産されるようになりました。商工業者は 座(組合) をつくり、販売権を得る仕組みを確立しましたが、関所の通行税や貨幣流通の問題が課題となりました。

武士と庶民の服装が近づき、小袖の着流しや帯の結び方、髪型が定着し、食文化の面では、禅宗の食文化が広まり、精進料理や膳立ての形式が確立しています。住宅は火災や戦乱を考慮し、簡素で実用的な家屋が増加しました。

猿楽や田楽、盆踊りが盛んになり、能や狂言も武士や民衆に親しまれました。また、『一寸法師』などの御伽草子が流行し、文学の世界にも庶民文化が浸透しました。

まとめ

3代・足利義満の死後、4代・足利義持は足利義満に反発する政治方針を取ったことで、守護大名の力が強まる結果となります。その後、万人恐怖の政治を行った6代・足利義教の治世では、恐怖政治への反発から足利義教は暗殺されてしまいました。

8代・足利義政の治世では、優柔不断な対応から後継問題へと発展し、有力大名家などの家督争いも加わったこと応仁の乱が勃発。戦乱は長期化し、京都が廃墟となるほど荒廃してしまいました。

守護大名が応仁の乱への対応に追われる一方で、守護代や国人が実権を握るようになり、新たに戦国大名が台頭する時代を迎えることになります。