鎌倉幕府が成立した後は、北条時政ら北条一族が実権を握る執権政治が行われました。源氏将軍の時代が3代で終わりを迎えたことで、朝廷は承久の変を起こし、幕府に対して反乱を起こしますが、幕府はこれを圧倒します。
- 北条一族による執権政治
- 承久の変:朝廷の幕府に対する反乱
- 御成敗式目の成立
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#15
鎌倉幕府が成立した後は、北条時政ら北条一族が実権を握る執権政治が行われました。源氏将軍の時代が3代で終わりを迎えたことで、朝廷は承久の変を起こし、幕府に対して反乱を起こしますが、幕府はこれを圧倒します。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、関東の武士たちを中心に「鎌倉幕府」が開かれました。しかし1199年(正治元年)に源頼朝が死去し、長男の源頼家が2代将軍となると、早くも幕府内の力関係に変化が生じていきます。
源頼朝の死後、鎌倉幕府による政治は、有力御家人(鎌倉幕府に仕える武士のこと)を中心に合議体制となり、執権が中心となって政治をおこなう体制へと移行しました。この体制の基盤を築いたのが初代執権・北条時政です。
源頼朝の死後、2代将軍となった源頼家はまだ18歳と若く、頼朝の妻である北条政子とその父である北条時政が、将軍を支える形で幕政の中心となっていきました。
彼らは有力な御家人13人による合議制を導入し、将軍の権限を制限しました。この合議制の中心には北条時政がおり、これが執権政治の端緒となりました。
北条時政は源頼家に代わる形で実権を握り、さらに源頼家を伊豆修善寺に幽閉し、最終的には暗殺します。その後、頼朝の次男である源実朝を3代将軍に据え、北条時政は政所(政治の中心部局)の別当(長官のこと)に就任。これにより、北条時政は幕府の実権を掌握しました。
時政は自ら政所の長官となることで、その権限をより強化していきしました。また、実朝が政治に関心を持たなかったため、時政にとって都合の良い状況が続きました。
しかし、北条時政の権力確立は、政敵に次々と反乱を引き起こさせ、それを鎮圧することで政敵を排除する他氏排斥という形で進められています。具体的には、梶原景時の乱、比企能員の乱、畠山重忠の乱の3つが挙げられます。
北条義時は、父・北条時政のと同様、他氏排斥をしながら、幕府の実権を掌握しました。
北条義時の代での他氏排斥を代表する出来事が、1213年の和田合戦です。和田義盛は侍所(軍事の中心部局)の初代別当として御家人を統率する立場にありましたが、北条義時によって討たれました。
和田義盛を排除した北条義時は、侍所別当の職を兼任し、すでに父から引き継いでいた政所別当と合わせて、幕府の軍事・政治を掌握し、政務全般を統括することになりました。
この両職の兼務者を執権と呼ぶようになり、以降、執権は北条氏が世襲することとなりました。
義時による執権政治の成立を象徴するもう一つの事件が、源実朝の暗殺事件です。もともと3代将軍・源実朝は政治に関心が薄く、北条氏が主導権を握りやすい立場にありました。
しかし、1219年、実朝は鶴岡八幡宮で甥の公暁によって暗殺されます。暗殺の実行犯となった公暁も暗殺直後に処刑されてしまい、源氏の直系は3代で断絶してしまったのです。この実朝暗殺事件の黒幕がいたと言われますが、実際のところはわかっていません。この結果、北条氏は幕府の実権を完全に掌握することになりました。以降、鎌倉幕府における征夷大将軍の地位は、源頼朝の遠縁にあたる幼少の藤原頼経を迎え入れて継承され、その後、京から摂関家や皇族を迎え入れることにより、体裁上は将軍を戴きながら北条家が権力を握る執権政治が本格化していきます。
承久の変は1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時に対して討伐の院宣(上皇による命令)を出したことから始まった戦いです。
平安時代から続く荘園制度は、朝廷や貴族にとって重要な収入源でした。しかし、鎌倉幕府の成立により、東国からの荘園寄進が減少し、西国の荘園にも幕府による地頭配置が進んでいったことで、朝廷の経済基盤は大きく揺らぐことになります。
加えて、初代将軍・源頼朝の死後、2代将軍・源頼家、3代将軍・源実朝が相次いで早世し、源氏の正統な血筋が断絶。鎌倉幕府内での混乱が続いたことで、後鳥羽上皇は武力による幕府打倒の好機と捉えました。
後鳥羽上皇は強力な院政を敷き、西国の武士たちを招集、北条義時追討の院宣を発するとともに、京都守護の伊賀光季を討ち取り、朝廷軍の態勢を整えました。
天皇は神の系譜を継ぐ存在として扱われていたことから、院宣により鎌倉幕府の武士は動揺します。そんな中、東国武士たちを奮い立たせたのは、北条政子の力強い演説でした。彼女は「頼朝公の恩を忘れるな」と語り、御家人たちの士気を高めました。
幕府軍は北条義時の子、泰時と北条義時の弟、時房を総大将に据え、東海道・東山道・北陸道の3路から進軍し、最終的に総勢約19万の大軍勢となり、木曽川や宇治川の戦いで朝廷軍に勝利しました。
承久の変後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇を隠岐(島根県)に、土御門上皇(後鳥羽の息子)を土佐(高知県)に、順徳上皇(後鳥羽の息子、土御門の弟)を佐渡(新潟県)にそれぞれ配流しました。また、承久の変を主導した後鳥羽上皇・順徳天皇の意向で即位した仲恭天皇(順徳上皇の子)を廃します。天皇位から後鳥羽上皇の血筋を排除すべく、後鳥羽の兄の子にあたる後堀河天皇を天皇として擁立します。
加えて、西国の御家人の統括と朝廷の監視をする六波羅探題を設置しました。初代探題には北条泰時(北方)と北条時房(南方)が就任しています。
没収した約3,000箇所の荘園を御家人に分配し、新たに任命された新補地頭には、新補率法に基づき土地の収益を増やす特権が与えられました。
1226年には元服(成人)した摂関家出身の藤原頼経を4代将軍(摂家将軍)に擁立。幕府は将軍を形式的な存在とし、執権が実権を握る政治体制を完成させました。
北条泰時は、鎌倉幕府3代執権として、幕府の基盤を強化し、初の武家法である御成敗式目(貞永式目)を制定した人物です。
北条泰時は若い頃から多くの戦いに参加し、1221年の承久の変では幕府軍の総大将を務め、勝利後に京都の六波羅探題の初代代表として朝廷を監視し、西国の統治にあたりました。
また、1224年に父の北条義時が急死した後、「伊賀氏の変」という権力闘争を乗り越え、執権の地位を確立しました。
鎌倉幕府の勢力拡大とともに、武士たちの間では所領を巡る争いや、地頭として派遣された御家人と荘園領主・現地住民とのトラブルが増加していました。
加えて、当時適用されていた律令法は武家社会には馴染まない内容が多く、統一的な法の必要性が高まっていました。
北条泰時は公平な裁判の基準となる法典を作ることを決意し、1232年に御成敗式目を制定しました。御成敗式目は、源頼朝以来の政治・裁判の先例や、武家社会の慣習である「道理」を基に編纂されました。
御成敗式目は主に以下の内容が規定されています。
守護・地頭の職務:守護や地頭の行動を規制し、任務の範囲を明確化。
所領問題の解決方法:武士間の領地争いにおける調停や裁判の基準を提示。
道理と先例:武家社会の慣習を重視し、過去の政治や裁判の実績を法の基盤とする。
御成敗式目は、武士を対象とした武家法であり、一般の農民や商人には適用されませんでした。そのため、同時期には朝廷の公家法や荘園の本所法も併存していました。
制定後も時代の変化に応じて条文が追加されることがあり、これらは「式目追加」と呼ばれました。
御成敗式目は、単なる法典に留まらず、武家政権の正当性を示す重要な基準となりました。また、その後の室町幕府や戦国大名の家法、さらには江戸幕府にも影響を与えています。
源頼朝が鎌倉幕府を成立させ、武家を中心とした政治が始まりましたが、源氏直系が断絶してしまったことから、北条家による執権政治が行われるようになります。
源氏が途絶えたことを好機と捉えた後鳥羽上皇により、承久の変が起こりますが、幕府軍は朝廷を圧倒し、上皇らは配流されました。
また、鎌倉幕府3代執権である北条泰時により、御成敗式目(貞永式目)が成立し、武家社会の慣習に基づいた法律ができたことで、鎌倉幕府の治世は安定していきました。