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徳川吉宗と享保の改革:財政難に苦しむ幕府の改革

徳川幕府が成立して100年が過ぎ、平和な時代が続いていましたが、財政は困窮していました。財政困窮の課題に取り組んだのが、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗です。

本記事では徳川吉宗がどのような取り組みをしたのか、その成否についても解説します。

  • 徳川吉宗が将軍となった背景
  • 石高増収のための取り組み
  • 公事方御定書と相対済し令
  • 目安箱設置の影響

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

8代将軍徳川吉宗。紀州藩主から将軍へ

徳川の時代も100年続き、世の中は比較的安定していましたが、米を中心とした社会体制に徐々に矛盾が生じ、武士や幕府は困窮していました。

その立て直しに取り組んだのが、8代将軍徳川吉宗です。徳川吉宗は、徳川将軍家の直系ではなく、徳川御三家である紀州徳川家から将軍となりました。

徳川御三家︰尾張・紀州・水戸徳川

徳川御三家は尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の三家を指し、徳川将軍家に次ぐ地位を有していました。

尾張徳川家は、初代将軍徳川家康の九男・義直を家祖とし、現在の愛知県名古屋市を拠点としていました。紀州徳川家は、家康の十男・頼宣を家祖とし、現在の和歌山県和歌山市を拠点としており、水戸徳川家は、家康の十一男・頼房を家祖とし、現在の茨城県水戸市を拠点としていました。

徳川御三家は徳川将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川宗家の血筋が絶えた場合には、次の将軍を輩出する重要な役割を徳川御三家が担っていました。

8代将軍誕生︰直系以外から初の継承

徳川吉宗は徳川将軍家の直系ではなく、徳川御三家の一つ、紀州徳川家から継承した初の将軍でした。

徳川吉宗が将軍になるまで、江戸幕府の将軍は徳川将軍家によって継承されてきました。しかし、7代将軍家継の早世により、将軍家の男子が途絶える事態が生じました。

吉宗が、徳川将軍家の継承者として選ばれたのは、紀州での政治的な手腕を評価されていたことと、御三家の中で家康との世代的な近さ(吉宗は、家康の孫にあたります)ということなどが、理由として挙げられます。

成功?失敗?質素倹約の享保の改革

徳川吉宗が行った享保の改革は、困窮する幕府や武士の財政難を立て直し、幕府の財政基盤を強化し、経済の安定を目指すことを主な目的としていました。

身分に応じて衣食住を細かく規制し、贅沢や浪費を取り締まる「倹約令」を出し、吉宗自身も派手な衣装をやめ、質素な生活を送りました。

「米将軍」︰収入増に苦心した吉宗

徳川吉宗の取り組んだ享保の改革の中でも、幕府の収入を増やすために取り組まれていたことが米に対する取り組みです。幕府の財政は米を中心としており、「上米の制」、「新田開発」、「定免法」という3つの取り組みが大きなものとして挙げられています。

上米の制

1722年に導入された「上米の制」は、大名に対して1万石につき100石の米を提出させる代わりに参勤交代における江戸在勤の期間を1年から半年に短縮する制度です。

大名としても江戸在勤時の出費が抑えられるため、財政上のメリットもあり、比較的スムーズに受け入れられました。

新田開発

徳川吉宗は未開発地を農地として開拓させ、石高を上げる(コメの生産量を増やす)ことで、税収を増やそうとしました。

従来は農民が農地開拓をするというのが通例でしたが、町人請負の形式を取り入れ、私的資本による開発を奨励しました。

また、自分の実家である紀州藩から招聘した土木技術者による新しい技術の導入は、大規模な水制工事を可能にし、多くの新田が開発されました。これにより幕府の直轄地における農地が大きく増加し、財政収入も向上しました。

定免法

定免法とは、年貢の算出方法の一つです。定免法では、過去数年の平均生産量の平均から納める年貢の量を定める制度となっており、従来もちいられていた検見法では、毎年の生産量に対して査定を行って年貢が決められていました。定免法が採用されたことで、豊作・凶作に関わらず一定の年貢が納められるように定められました。

年貢の徴収をより効率的かつ安定的に行えるようになりましたが、不作時の年貢が引き上がったことにより、農民への負担は大きくなりました。

高まる農民の不満

一般的に庶民派のイメージを持たれやすい吉宗ですが、収入増においては負の側面がありました。

享保の改革の終盤期を支えた勘定奉行・神尾春央(かんおはるひで)は、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされるほど年貢の取り立てに厳しくあたり、農民の恨みを買いました。

享保の改革により幕府の財政は安定したものの、重い税負担に対する農民たちの不満が高まった結果、百姓一揆の増加を招くこととなりました。

足高の制︰支出を抑えつつ、能力に基づいた人材登用

徳川吉宗の治世下では、支出を抑えた人材登用制度として、1723年に「足高の制」が導入されました。

当時、石高は世襲のものであり、身分の根幹となっていました。また、一度石高を上げると、基本的に下げることはないのが通例となっていました。現代においても基本給のベースアップをすると、下げづらいというのと似た側面があります。そして、江戸時代では石高に応じて就任できる役職が定められていたため、能力があっても石高の低い(身分の低い)者は、上級の役職に登用しづらかったという側面がありました。

そこで導入された「足高の制」とは、その役職に就いている間だけ、石高の不足分を一時的に加増するという制度です。

例えば500石の収入しかない者が1000石相当の役職に就く場合、その在職期間中は500石が足されて1000石が支給されますが、退任後には元の500石に戻ります。

この制度を導入することで、能力に基づく人材登用を可能にしつつ、幕府の支出を抑制できるようになりました。

公事方御定書と相対済し令:法的処理の効率化と迅速化

徳川吉宗は、町奉行・大岡忠相(大岡越前守として知られる)を登用し、司法制度改革にも取り組みました。特に、「公事方御定書」と「相対済し令」は、法的処理の効率化と公正化を可能にしました。

公事方御定書の成立と内容

1742年に成立した「公事方御定書」は、罪と罰を具体的に定め、刑事裁判における基準を明確にしたものです。また刑罰の内容も罪の重さによって、減刑が加えられています。

これまでの裁判は、奉行(裁判官)の主観に依存し、裁判の時間も長くかかっていました。公事方御定書によって、法規が成文化されたことで、裁判の公平性確保と迅速化が可能になりました。

相対済し令の導入とその効果

1719年に施行された「相対済し令」は、金銭貸借関係の訴訟を原則として認めず、貸し手と借り手が直接話し合いによって解決を図るよう命じたものです。

当時は金銭貸借に関する訴訟が多く、奉行業務が圧迫されていました。相対済し令が導入されたことで、裁判所の業務負担が大幅に軽減されました。

目安箱の設置︰庶民の声を聞き入れた改革

徳川吉宗の治世で特徴的ともいえるのが、「目安箱」です。目安箱は1721年に設置され、身分の垣根を超えて一般市民であっても直接的に意見や提案を、記名の上で自由に投書できる仕組みです。

目安箱は厳重に封印されており、目安箱に投じられた投書は、将軍・徳川吉宗が直接閲覧します。ここから、いくつかの改革も実現されました。

小石川養生所の設立

目安箱の設置によって実現したものの一つが小石川養生所の設立です。漢方医の小川笙船からの投書をもとに1722年に設立され、貧困層や病人が無料で治療を受けられました。

町火消の整備

目安箱での投書をつうじて、町火消の整備も進みました。江戸は木造住宅が密集していることから、「火事と喧嘩は江戸の華」と称されるほど火事が多発していました。町火消が整備されていったことによって、消火活動がより効率的に行われるようになりました。

目安箱の目的と実際の運用

投書から実現されたものはごくわずかであり、目安箱の実際の目的は庶民のガス抜き的なところにあったと推察されています。

しかし、目安箱は鍵がかけられたまま届けられ、吉宗自らがまず目を通すという運用がなされており、「将軍への直訴」という体裁は守られていました。また目安箱以外にも、学者の青木昆陽からの上申をもとに飢饉対策として甘藷(サツマイモ)栽培を推し進めるなど、民の声も貴重な情報源として取り入れる姿勢があったと考えられています。

享保の改革に対する庶民の反応

享保の改革は徳川幕府の財政難に対して、一定の成果を上げました。

しかし、庶民に対しても倹約令を出し節約を求めたことで、市場経済の停滞につながり、元禄文化のような華やかな文化が衰退する要因にもなりました。

また、農民への年貢の負担は重く、その不満から農民一揆が増加する要因にもなりました。

まとめ

徳川幕府の治世は100年続き、体制は安定していましたが、財政は徐々に悪化し、武士や幕府は困窮していました。

御三家の紀州徳川家から初めて将軍に就任した8代将軍徳川吉宗は、享保の改革によって質素倹約な生活を要求しつつ、上米の制や新田開発を通じて増収を試みました。

また、公事方御定書や相対済し令など法制度を整備しつつ、目安箱を導入し、庶民からの意見を取り入れた政治を行いました。

これらの改革は財政面では一定の成果を上げることに成功しましたが、農民の不満を募らせる結果となり、後々の治世にも影響を及ぼしました。