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明治維新|中央集権化と近代化を進め、富国強兵を目指した明治新政府

大政奉還により、江戸幕府が終わり、長きにわたった武家政治体制から日本の政治体制に変革が生じます。

  • 戊辰戦争:明治政府と旧幕府勢力の対立
  • 廃藩置県によって進められた中央集権化
  • 富国強兵を目指しての近代化推進

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

大政奉還により、江戸幕府が終わり、長きにわたった武家政治体制から日本の政治体制に変革が生じます。

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

新政府成立!国のカタチの大転換、明治維新の始まり

江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還をし、約260年間続いた江戸幕府は終焉を迎えました。しかし、名目上の政権返上をしましたが、実際に全国統治をしている政府機構は旧幕府に存在し、征夷大将軍の職を返上しても徳川家は、朝廷の官位と広大な領地を保有している実力第一位の地位に変わりはありませんでした。そのため、倒幕を目指していた薩摩藩・長州藩は、打倒する対象を徳川家・徳川慶喜へと照準を再設定します。そして、幕府体制がなくなったことを踏まえて、明治天皇のもと新政府を発足させ、徳川家の排除に動きます。

新政府による露骨な徳川家は以上の動きに不満を抱える旧幕府側の勢力との衝突が各地で勃発するようになりました。

明治新政府:戊辰戦争を越えて歩みだした近代国家への道

新政府発足直後、旧幕府側の勢力との衝突により戊辰(ぼしん)戦争が始まります。

戊辰戦争の勃発と戦局の推移

1868年、日本は薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津藩・桑名藩などを中心とする旧幕府軍による、戊辰戦争が勃発しました。

その発端となったのが、1868年1月に京都近郊で起こった「鳥羽・伏見の戦い」です。新政府軍は旧幕府軍に勝利し、徳川慶喜を「朝敵(ちょうてき、天皇・朝廷に敵対する悪者)」として追討する方針を明確にしました。

徳川慶喜は大坂城から江戸へと引き上げます。畿内から関東へと兵を進めた新政府軍との間での交渉がまとまり、江戸は無血開城、徳川慶喜は謹慎処分となりました。

徳川家・江戸は早々に新政府軍に恭順しましたが、奥羽地方では、会津藩を中心に「奥羽越列藩同盟」が結成され、新政府軍に対抗しました。天皇に対して敵対するというよりかは、薩摩藩・長州藩が主体となる政治体制に対する拒絶の意思表示でもありました。しかし、戦況は新政府側に有利に傾き、同年9月には会津藩が降伏します。

また、旧幕府軍の中にも無血開城・薩摩藩・長州藩を主体とする新政府側に降伏することを潔しとしない榎本武揚(えのもとたけあき)らは江戸から艦隊を率いて脱出。その後、各地を転戦しながら最終的には北海道・函館の五稜郭に立てこもりました。蝦夷共和国という形で独立を志向しますが、新政府軍による総攻撃を受けて降伏し、1869年(明治2年)に戊辰戦争と呼ばれる一連の戦いは終結します。

明治新政府の政治体制の構築

戊辰戦争の最中に新政府は新たな政治体制に向けての方針発表をしました。それが「五箇条の誓文」と「五榜(ごぼう)の掲示」の発布です。

1868年4月(慶応4年3月)に発布された「五箇条の誓文」は、天皇が神に誓う形式で示された新政府の基本方針で、公議世論の尊重や開国和親という新時代に向けて政治を一新する方針が掲げられました。神に誓う形式を取りつつ、諸外国向けへのアピールという側面もあったのです。一方、「五榜の掲示」では、庶民・大衆向けの方針提示という側面があり、こちらでは江戸時代と同様に徒党・強訴の禁止、五倫の道の遵守、そしてキリスト教の禁止が記されており、旧態依然とした内容となっていました。

その後、新政府は「政体書」を発布し、政治組織として律令制度を基礎とする「太政官制(だじょうかんせい)」を採用しました。9月には年号を「明治」と改元し、「一世一元の制」(天皇一代につき一つの年号)を導入しました。加えて、天皇の御所が京都から東京に移され、東京が日本の都となりました。

廃藩置県:「藩」から「県」へ、中央集権化に進む日本

明治新政府が目指した近代国家の建設において、地方統治の再編は大きな課題でした。江戸時代の幕藩体制では、将軍であっても大名が統治する各藩を直接支配しておらず、分権的な統治体制でした。そのため、日本という国を新しく近代化させていくためには効率が悪く、新政府は中央集権を進めていくことにします。

そこで政府は「版籍奉還」と「廃藩置県」の二段階の改革を実施し、封建制度の完全解体を図り、中央集権化を進めました。

版籍奉還:第一段階の改革

1869年、政府は全国の大名に対し、領地(版図)と領民(籍)を天皇に返上させる「版籍奉還」を命じました。これは、土地と人民は天皇のものであるとする理念に基づくもので、最初に薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が率先して願い出ました。

版籍奉還の結果、大名たちは「藩主」から「知藩事」となり、新政府から石高(こくだか)の1割を家禄として支給されました。しかし、実態としては旧藩主がそのまま藩の統治を続け、幕藩体制の名残が色濃く残ることとなりました。

そのため、中央集権化を進めるにはさらなる改革が必要でした。

廃藩置県の断行:決定的な中央集権化

版籍奉還の後も、旧藩主が実質的に藩を支配し続ける状況が続いたため、1871年、政府は「廃藩置県」を断行しました。廃藩置県により、すべての藩が廃止され、新政府によって中央性から直接任命された府知事・県令による地方統治が開始されました。

廃藩置県を実行するにあたり、知藩事たちの反発が懸念されます。そのため、新政府は薩摩・長州・土佐の3藩から約1万人の兵を集め、「御親兵」という中央政府直属の軍隊を編成し、武力による抑え込みの準備を整えました。しかし、戊辰戦争による財政難で疲弊していた諸藩は政府に対抗する力を失っており、大きな抵抗なく廃藩置県は成功しました。

府藩県三治制からの変革

廃藩置県以前、新政府は一時的に「府藩県三治制」を導入し、全国の重要な地域を府や県として直轄統治していました。しかし、依然として全国3,000万石のうち約2,200万石が藩の支配下にあり、中央集権の実現には不十分でした。

そこで政府は、廃藩置県によってすべての藩を廃止すると、全国を府と県の行政区画に再編成しました。知藩事に代わり、政府から派遣された府知事・県令が統治を担い、名実ともに中央集権体制が確立されました。

廃藩置県後の体制整備

地方統治のあり方を変える一方、新政府は中央政府の官制整備も進めました。1869年には太政官制を改編し、「二官六省制」とします。その後、廃藩置県が実施されると、政府機構を「正院・左院・右院」の三院制へと移行し、さらなる中央集権化を進めました。

しかし、この新政府の要職のほとんどは薩摩・長州・土佐・肥前出身者によって独占され、「藩閥政府」と呼ばれる体制が形成されました。この偏った人事が、後の士族反乱や政府への反発を引き起こす要因となりました。

国威発揚へ!富国強兵を目指す日本の近代化

明治新政府は、海外の国々に負けない国を作るため、近代国家の建築を目指しました。

四民平等:身分制度を打ち破る、平等社会への第一歩

江戸時代の日本社会は、封建的な身分制度によって厳しく区分されていました。武士が支配層として君臨し、農民、職人、商人はそれぞれ異なる階層に属し、社会的な移動の自由が制限されていました。さらに、「えた・ひにん」とされた被差別民も存在していたのです。

明治新政府は、この封建的な身分制度の改革にも着手し、1869年に、すべての人々を法的に平等とする「四民平等」の政策が打ち出されました。この改革により、すべての人々は「国民」として扱われることになり、身分による結婚の制限や職業の選択制限が法的には撤廃されました。

身分の再編成と戸籍制度の確立

四民平等の施策が出される一方で、旧藩主・公家は「華族」、旧武士は「士族」、農民や商人などの庶民は「平民」として再編成されました。

この改革によって呼び方が変わったものの、旧武士階級には依然として家禄(俸禄)が支給されており、完全な平等社会がすぐに実現したわけではありません。

1872年には、近代的な戸籍制度「壬申戸籍(じんしんこせき)」が導入されました。これは全国民を登録し、身分を明確にするための制度であり、明治政府の中央集権的な統治の一環として重要な役割を果たしました。

被差別民の法的解放と社会的課題

1871年には、「解放令」により「えた・ひにん」と呼ばれていた被差別民の身分が廃止され、すべての人々が平民とされました。しかし、法的には平等となったものの、実際には被差別部落の人々に対する差別は根強く残り、居住地の制限や職業差別、教育の機会の制限などの問題が長く続きました。

徴兵制の導入と士族の没落

四民平等の施策と並行して、明治政府は軍制改革にも着手しました。1873年、政府は「徴兵令」を発布し、満20歳以上の男子に3年間の兵役義務を課す国民皆兵の制度を導入したのです。徴兵令により、武士に代わって一般の国民が軍隊を支える体制が確立されました。

しかし、農民層の間では兵役義務に対する反発が強く、「血税(けつぜい)一揆」と呼ばれる反対運動が各地で発生しました。加えて、士族にとっては徴兵制によって武士による軍事的地位が失われ、支配層としての特権が奪われることへの反発もありました。

秩禄処分と士族の没落

政府は当初、士族や華族に対して「秩禄(ちつろく)」と呼ばれる俸禄を支給していました。しかし、この制度は国家財政を圧迫するものだったため、1873年に「秩禄奉還の法」が制定され、希望する者に一時金を支給することで秩禄を返還させる施策を開始しました。

さらに、1876年には「金禄公債(きんろくこうさい)」として秩禄を公債に換え、最終的に廃止する「秩禄処分」が断行されました。秩禄処分により、士族は経済的基盤を失い、多くが新たな職業を求めることを余儀なくされました。しかし、商業に不慣れな士族は、「士族の商法」と揶揄されるほどその多くが事業に失敗して没落していきました。旧武士・士族の経済的な困窮の深刻化はやがて士族の反乱という内乱へと繋がっていくことになります。

地租改正:国家財政を支えるあらたな要

明治新政府が近代化を推進するうえで重要視していたのが、財政の安定化です。

江戸時代の税制では、農民が米で年貢を納める形をとっていましたが、米は地域ごとに税率が異なり、さらに米価の変動によって政府の歳入も不安定でした。そのため、明治政府は土地制度と租税制度の改革に着手し、地価を基準とする安定した税制の確立を目指しました。

土地制度の改革と地券の発行

地租改正に先立ち、政府は土地制度の見直しを進めました。1871年には農民が自由に作物を作れる「田畑勝手作」を許可し、翌1872年には土地の売買を自由化する「田畑永代売買禁」を解禁しました。

政府は全国の土地を調査し、地価を定めたうえで「地券」を発行しました。1872年に発行された地券は「壬申地券」と呼ばれ、個人の土地所有権が認められ、土地を資産として扱う近代的な制度が確立されました。

地租改正の実施

1873年、政府は「地租改正条例」を公布し、土地所有者に対して地価の3%を現金で納めることを義務付けました。

これまでと大きく異なるのは以下の点です。

  • 課税基準の変更
  • 現金納付の義務化
  • 土地所有者への課税

これまでは、米の収穫高に対して課税していましたが、土地ごとの地価の3%を基準に課税されるようになりました。

また、米ではなく現金で納税する仕組みに変更し、自主や自作農など土地所有者への課税としたことも大きな特徴です。

地租改正への反発と税率引き下げ

地租改正は、豊作でも不作でも一定の税が課され、不作時には多くの農民が税金の支払いが困難になっていました。加えて、現金での納税が義務付けられたことで、農民は収穫した米を市場で売却する必要があり、米価の下落時には大きな負担を強いられていました。

その結果、各地で地租改正に反対する一揆が発生したことで、政府は1877年に地租率を3%から2.5%に引き下げることになりました。

地租改正を実施したことで、これにより、豊作・不作の影響を受けることなく、政府は一定額の税を徴収できるようになりました。

殖産興業:近代産業への経済政策

殖産興業は日本の近代産業を育成し、経済力の向上を目指す取り組みです。明治新政府が掲げた「富国強兵」の政策の一環として、政府は経済の発展を強く推進しました。

具体的には、官営工場の設立、西洋技術の導入、金融制度の改革、そして交通・通信インフラの整備を行いました。

官営工場の設立と西洋技術の導入

明治政府は、幕府や諸藩が運営していた工場や造船所を接収し、さらに新たに官営工場を設立した。代表的なものが1872年(明治5年)に群馬県に設立された富岡製糸場です。

富岡製糸場は、フランスの製糸技術を導入し、女性労働者を育成することを目的とし、日本の生糸生産の近代化を目指した工場です。富岡製糸場の技術が広まったことで、日本の生糸輸出は急速に増加し、経済発展に大きく寄与した。

金融制度の整備と国立銀行の設立

明治政府は財政基盤を安定させるため、貨幣制度の改革を進め、1871年には「新貨条例」を制定し、通貨単位を円・銭・厘に統一しました。

政府は金と貨幣を交換できる金本位制の導入を目指しましたが、幕末の金銀交換比率の違いによって金が国外流出していたことで、国内の金が不足している状態でした。そのため、金銀複本位制が採用されました。

また、政府は戊辰戦争の戦費調達のために発行した不換紙幣である太政官札の流通によるインフレを抑えるため、1872年に「国立銀行条例」を公布し、民間銀行による紙幣発行を認めました。

これにより、渋沢栄一を中心に第一国立銀行(現在のみずほ銀行)が設立された。1876年には国立銀行条例が改正され、兌換義務が廃止されたことで、全国に153の国立銀行が設立されたが、同時に貨幣価値の低下を引き起こしインフレを招く結果ともなりました。

交通・通信インフラの整備

経済発展には物流と情報伝達の整備が不可欠だったため、政府は鉄道・郵便・電信の整備を積極的に進めました。

鉄道の整備には、イギリスの技術を導入し、1872年には日本初の官営鉄道が新橋〜横浜間に開通しその後、大阪・神戸間、京都・大阪間にも鉄道が敷設されました。

1871年、前島密(まえじまひそか)の提案により、近代的な郵便制度が確立され、東京・京都・大阪間で郵便事業が開始され、翌年には全国に拡大されました。

また、1869年には東京・横浜間で電信が開通し、1880年代には全国的な電信網が完成した。これにより、国内外の情報伝達が飛躍的に向上し、経済活動の発展を後押ししました。

北方開拓と屯田兵制度

政府は北海道の開発を進めるため、1869年に蝦夷地を「北海道」と改称し、「開拓使」を設置し、アメリカ式の農業技術や畜産技術を導入しました。

さらに、1874年には屯田兵制度を導入し、職を失った士族を北海道に移住させました。農業開拓とロシアの脅威に対する防衛を目的として、植民政策を進めていきました。

文明開化:西洋文化が花開く、暮らしを変えた明治の新風

明治新政府は「富国強兵」と「殖産興業」を掲げ、政治・経済・軍事の近代化を進めるとともに、社会制度や文化にも欧米の影響を取り入れました。

欧米化の風潮は「文明開化(ぶんめいかいか)」と呼ばれ、政府高官や知識人の間では、欧米の政治制度や社会制度を導入することが国の発展に不可欠と考えられ、西洋風の生活様式が積極的に採用されたことで、都市部を中心に急速に広まりました。

また、自由主義や人権思想といった新たな価値観が広まり、従来の儒教的価値観との軋轢を生みながらも、日本社会の近代化を後押ししていきます。

学制の公布と近代教育の整備

1872年、政府は「学制」を公布し、全国に小学校を設置する政策を打ち出しました。これにより、すべての子どもが義務教育を受けることが制度化され、西洋の学問や知識が普及する契機となりました。

新しい教育制度では、従来の寺子屋を中心とした従来の儒教的価値観の教育との軋轢を生みましたが、欧米の学校制度を参考にした体系的な教育が導入され、算術や地理、科学といった近代的な学問が重視されたことで、国民の識字率向上にも寄与した。

しかし、農村部では学費負担や労働力の問題から反発もあり、「学制反対一揆」が発生することもありました。それでも、教育の近代化は着実に進み、後の日本の発展の基盤を築くこととなったといえます。

生活様式の変化

文明開化の影響は、生活様式にも大きな変革をもたらし、衣食住の面では、欧米風の習慣が広まり、人々の暮らしが大きく変化しました。

「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という言葉が流行し、ちょんまげを切り落とし、短髪にするなど、これまでの風習を改め欧米の生活様式を積極的に取り入れることが肯定的に受け入れられました。

また、肉食が普及し、特に「牛鍋」(現在のすき焼き)は人気があり、新聞記者の仮名垣魯文(かながき ろぶん)には「牛肉食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と記すほどでした。

都市部では、西洋建築を取り入れた煉瓦造りの建物が登場し、ガス灯が設置されるなど街並みが大きく変化し、人力車や馬車が行き交う風景は、西洋化の象徴となりました。

時間・暦の変更

政府は社会の欧米化を推進する一環として、明治5年(1872年)11月に太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(西暦・グレゴリオ暦)へ移行する方針を発表した。そして、そこから一月も立たない明治5年12月2日(西暦1872年12月31日)の翌日にあたる西暦1873年1月1日より太陽暦であるグレゴリオ暦を導入し、この日を明治6年1月1日としました。

これにより、日本の暦は欧米と統一され、国際的な商取引や外交がスムーズに行われるようになった。しかし、農村部では旧暦に基づいた年中行事が根強く残り、新しい暦の定着には時間がかかった。

自由主義と人権思想の普及

文明開化とともに、欧米の自由主義や人権思想も日本に導入された。福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)などの知識人が『学問のすゝめ』を著し、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と説き、封建的な身分制度にとらわれず、西洋に目を向け、勉強によって教養を深めることが文明を支えるという思想が広がりました。

しかし、これまでの儒教的価値観や封建的な社会構造と衝突し、思想的な軋轢を生むこともありました。反発はありつつも、自由民権運動の発展などを通じて、徐々に社会の変革が進んでいきました。

文明開化の影響と限界

文明開化の流れは都市部を中心に急速に広まりましたが、地方では依然として旧来の生活様式が残り、西洋化の進展には地域差があったのが現実です。

また、日本独自の文化や伝統が軽視される傾向もあり、日本の伝統的な文化財が破壊されるなどの事件もありました。例えば、明治政府は神仏分離令を発して、神道を保護しようとした結果、仏教寺院や仏像・仏具を破壊する廃仏毀釈運動が起きていました。

まとめ

徳川慶喜による大政奉還から、江戸時代が終わりを迎えると、武士を中心とする政治から中央集権的な近代国家として日本は歩みを進めることになります。

旧体制と新体制に分かれて争うケースや、新しい税制に対する農民からの反発などもありつつ、明治新政府は四民平等、地租改正、殖産興業、文明開化などの改革を進めていき、近代国家としての体制を徐々に整えていきました。