ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

日本史の学び直し.com

  • 日本の夜明け
  • 大和王権と古墳文化
  • 古代国家の成立
  • 権力闘争と貴族の時代
  • 武士階級の台頭
  • 武家社会の動揺
  • 動乱の戦国時代
  • 幕藩体制の始まり
  • 発展する経済・文化
  • 揺らぎ始める幕藩体制
  • 明治維新と近代国家の形成
  • 脱亜入欧、日清・日露戦争
  • 第一次世界大戦
  • 第二次世界大戦
  • 戦後、そして現代の日本
ラジレキ

大化の改新|荒れる海外情勢によって進む中央集権化

聖徳太子亡き後、影響力を拡大し続けていた蘇我氏は中大兄皇子と中臣鎌足によって滅ぼされ、大化の改新と呼ばれる一連の改革が行われることになります。

一方で、隋の滅亡や唐の朝鮮半島侵攻など大陸情勢は不安定な状況が続き、百済と関係の深かった日本も巻き込まれていきました。

  • 蘇我氏の終焉
  • 大化の改新が目指した中央集権国家
  • 揺れ動く海外情勢と日本への影響

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

緊張高まる国内外の情勢。蘇我氏の栄華の終焉

中国大陸ではの滅亡を受けてが成立し、朝鮮半島では百済・高句麗・新羅の争いが激化している情勢にありました。

一方、日本国内でも、政治権力を独占しようとする蘇我氏と、蘇我氏に反発する人々の間で、緊張感が高まっていました。

国外情勢:唐のおこり・不安定な朝鮮半島

618年に隋が滅び、唐が成立します。唐は制度による中央集権体制を整え、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三国も唐の冊封(傘下に入ること)を受け入れたことで、東アジアにおける秩序が再構築されました。日本も630年に遣唐使を派遣しつつ、冊封関係は結ばない状態で交流を続けていました。

しかし、この平和は長く続かず、642年には百済が新羅に侵攻を開始しました。百済が旧伽耶地域(朝鮮半島南部)の領土を奪回したことで、朝鮮半島内での領土争奪が激化することになります。

また、644年になると、唐が高句麗への遠征を再開し、645年以降も遠征を繰り返しましたが、高句麗の制圧には至りませんでした。この唐の動きに対して、百済も警戒を強め、新羅への圧力を強めました。

このような情勢下、新羅は百済や百済と親交がある日本に対抗するため、唐との同盟関係の確立を模索していきます。

唐による度重なる高句麗への遠征は、朝鮮半島全体に緊張をもたらしました。

国内情勢:政権の独占をはかる蘇我氏

622年、推古天皇の時代に聖徳太子(厩戸皇子)が薨去(死去)すると、蘇我氏に意見する人間がいなくなったことで、蘇我氏が朝廷内でさらに強力な権力を握るようになります。

蘇我馬子が626年に亡くなると、その子である蘇我蝦夷が大臣職を引き継ぎました。蘇我蝦夷は628年に推古天皇が崩御した際、聖徳太子の子である山背大兄王が皇位につくことを恐れて、対立候補であった田村皇子(後の舒明天皇)を即位させました。

その後舒明天皇も次の天皇を指名せずに亡くなったため、舒明天皇の皇后を皇極天皇として即位させ、自らの地位を固めました。

その後、政治権力を移譲されたのが、蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿です。蘇我入鹿は、皇極天皇の後の天皇として、舒明天皇の第1皇子である古人大兄皇子を擁立しようと画策しました。

しかし、反蘇我勢力は聖徳太子の子である山背大兄王を支持し、対立することになります。蘇我入鹿は645年、斑鳩宮で山背大兄王を襲撃し、聖徳太子の一族である上宮王家を滅ぼす強行策に出ました。

こうして蘇我蝦夷・入鹿親子は政権の独占を図りましたが、他の豪族や皇族の強い反発を招き、やがて大化の改新に繋がる政変の要因ともなりました。

乙巳の変:中大兄皇子・中臣鎌足 VS 蘇我蝦夷・入鹿親子

蘇我氏の勢力が拡大していた頃、日本には隋・唐に派遣されていた留学生たちが次々と帰国しました。

中臣鎌足は中級の豪族でしたが、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに、留学生の一人である南淵請安から大陸の最新知識を熱心に学び、律令制度に基づく中央集権的な国家の樹立を目指すようになります。

しかし、そのためには、蘇我氏のような強力な豪族が権力を握る状況を改める必要があると考えました。

645年、中臣鎌足と中大兄皇子は宮中の大極殿において蘇我入鹿を暗殺します。政変に気付いた父・蘇我蝦夷は家を焼き、自害しました。(乙巳の変

これにより、蘇我氏による朝廷支配は終焉を迎えることとなります。

大化の改新。天皇を中心とした中央集権国家へ

乙巳の変によって政権の主導権を握った中大兄皇子と鎌足は、天皇を中心とした国家体制の確立を目指して、孝徳天皇を擁立しました。

中大兄皇子を皇太子、中臣鎌足を内臣に任命し、唐から帰国した高向玄理や僧・旻を「国博士」という政策立案のための顧問に据えました。

「大化」という年号を初めて使用し、不安定な海外情勢に対応すべく、天皇を中心に据えた「大化の改新」と呼ばれる一連の改革が始まることになります。

改新の詔:4ヵ条からなる新しい政治の基本方針

646年、中大兄皇子や中臣鎌足によって、4カ条からなる「改新の詔」が発布されました。

豪族が私的に支配していた土地・人民を国家に帰属させる公地公民制、中央・地方の行政区画整備、税制改革などが掲げられました。これらの政策により、日本は次第に天皇を中心とする中央集権国家への道を歩み始めたのです。

1. 公地公民

公地公民とは、「全ての土地と民は天皇のもの」とする制度です。

豪族の私有地や私有民(田荘・部曲)はもちろん、天皇や皇族の私有地や私有民(屯倉・名代子代)も廃止され、土地と人々はすべて天皇の統治下にあるものとされました。

2. 行政区画の設定

第二条は、行政区画の設定です。

京師(首都)を定め、その他の地域を畿内(中央)と国・郡(地方)という2つの概念に分けることで、管理が体系化されました。国や郡には、それぞれを統治する官吏として国司や郡司を任命すること、各境界には関塞(関所)を設けることが定められています。

また、安全保障強化のために斥候(偵察兵)や防人(さきもり。国境の守備兵)を設置すること、行政の円滑な運営のため、駅馬・伝馬と呼ばれる馬を利用した交通網を構築することも挙げられています。

3. 班田収授法

改新の詔では、戸籍・計帳・班田収授を行うことが定められています。

戸籍は住民の基本情報を記録するものであり、計帳は納税者としての情報を管理する台帳です。

班田収授法とは、土地の公平な分配と国家による管理を目的とした法律です。班田収授法では一定の年齢に達した男女に対して、一定の面積の田地を班田として割り当てました。

班田は個人の所有ではなく、国家から貸与される形式となっており、土地は定期的に再分配されると定められています。班田収授法によって、国家は土地の利用状況を把握し、豪族による土地の独占を防げるようになりました。

4. 新たな税制

これまでの税制や労役制度は廃止され、後の「租庸調」の基礎となるような、田んぼの面積に応じて税金が課せられる税制度を整備することが定められました。

これらの内容は法律としてすぐに施行された訳ではなく、実際に整備・運用されるまでには、いずれも数十年の月日がかかりました。しかし、この先の国家運営の方針を定める上で、改新の詔は大きな意義があったと言えるでしょう。

朝廷の不和:孝徳天皇と中大兄皇子の対立、斉明天皇の即位

大化の改新によって新たな体制構築に向けて歩み始めた日本ですが、朝廷内は不和が続いていました。孝徳天皇は646年に難波宮(現在の大阪市)に遷都し、律令制度の基盤を築くための改革を進めようとしましたが、この決定に中大兄皇子は反対します。

中大兄皇子は倭京(飛鳥)への遷都を望みましたが、孝徳天皇がそれを拒否したため、皇子は自ら倭京へ戻り、皇族や多くの群臣、さらには孝徳天皇の皇后・間人皇女も中大兄に従い倭京に移りました。孤立した孝徳天皇は654年に難波宮で崩御しました。

孝徳天皇の崩御後は、天皇位を退いていた皇極上皇(孝徳天皇の姉にあたります)が、655年に「斉明天皇」として重祚(ちょうそ:元天皇が再び皇位につくこと)し、再び朝廷のトップに立ちます。

故孝徳天皇の子・有間皇子は斉明天皇に対して反乱を企てますが、計画が密告によって露見し、処刑されました。

揺れ動く大陸情勢と日本への影響

斉明天皇の時代になっても、大陸の情勢は荒れた状況が続いていました。百済と関係が深かった日本も、大陸の情勢に巻き込まれることになります。

白村江の戦い:新羅・唐 VS 百済・日本

660年、唐・新羅連合軍の侵攻によって、百済は滅亡してしまいました。百済は復興を目指し、友好国であった日本へ救援を求めます。

百済を救援することで、唐と新羅を敵に回すリスクがありましたが、百済復興に成功すれば、日本は朝鮮半島での強力な拠点を再び得られる可能性がありました。

日本は、百済の救援を決断。中大兄皇子の支援のもと、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間で起こったのが、白村江の戦いです。日本は三軍に分かれて朝鮮半島の白村江へ上陸しますが、唐の水軍は火矢を用いた組織的な攻撃を展開し、対抗手段を持たない日本軍はなすすべがなく、大敗を喫してしまいました。

白村江の戦いに敗北したことで、百済再興の目処は絶たれ、日本は朝鮮半島における影響力を失いました。このことが、外交や軍事方針にも重大な影響を与えることになります。

天智天皇(中大兄皇子):敗北を受け、内政の安定化へ

白村江の戦いでの敗北を受け、日本は唐からの侵略に備えるため、国防の強化や国内情勢の安定化に急いで取り組む必要性に迫られました。

天智天皇(中大兄皇子)は、国内の整備に次々と着手していくことになります。

国防の強化

まず唐や新羅からの侵攻に備え、大宰府周辺の博多湾沿岸に「水城」(みずき)と呼ばれる防御施設を築き、大宰府を守るため「大野城」(おおのじょう)を山城として築城しました。

さらに、九州北部の対馬や筑紫に、24時間体制での監視と警備をする防人を配置します。

これにより、九州から中央への情報伝達も迅速化され、中央政府が即応できる体制が整えられました。

天智天皇即位・近江大津宮への遷都

斉明天皇の崩御後、中大兄皇子は、667年に都を飛鳥から近江大津宮へ移すことを決断します。

近江大津宮への遷都の大きな目的は、国防と交通面での利便性でした。大津宮は琵琶湖と山々に囲まれた天然の要塞ともいえる立地にありました。加えて、琵琶湖を利用した水上交通が発達しており、物資の運搬にも適した環境が整っていました。

長らく皇太子の地位のまま政務を続けていた中大兄皇子ですが、翌668年には天皇(天智天皇)に即位しました。また、天智天皇は日本初の「令」である「近江令」を制定します。

天智天皇は、即位後も自らの右腕であった中臣鎌足と共に国家運営を進めてきましたが、鎌足が亡くなる直前の669年、天智天皇は彼に「藤原」の姓を与えました。これが後の藤原氏の発祥となります。

庚午年籍の作成

670年には、日本初の全国規模の戸籍である「庚午年籍」を作成します。庚午年籍は全国にわたる戸籍として日本で初めて整備されたものであり、人民の情報を正確に把握できるもので、徴税や徴兵といった国家の基本政策が効率的に実施できるようになりました。

白村江の戦いでの敗北は、日本の国内改革を一気に加速させる契機であったといえます。防衛の強化にともなう政策が次々と実現し、これまで進まなかった中央集権化が、庚午年籍の作成によって形を帯び始めました。

まとめ

国内外の情勢が緊張する中、政権を独占しようとする蘇我氏に反発した中大兄皇子・中臣鎌足が、乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿親子をほろぼしました。

中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を中心とした中央集権的な国家運営を目指し、大化の改新を進めていきます。

一方、朝鮮半島では、百済が唐・新羅によって滅亡します。日本は百済に協力しますが、唐・新羅連合軍に敗北します。唐の侵略に備えるため、国内情勢の安定化が急務となり、中大兄皇子は天智天皇に即位し、急速に改革を推し進めていきました。

奇しくも、白村江の戦いでの大敗によって、国内の改革はスピーディに進むことになったのです。