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蘇我氏の勢力拡大と聖徳太子の政治改革

6世紀以降は仏教布教を推進する蘇我氏が勢力を拡大し、推古天皇を擁立して飛鳥時代が始まりました。

推古天皇の摂政として聖徳太子がつき、冠位十二階や十七条憲法を通して、能力ある人材を登用する体制を整えようとしました。

  • 蘇我氏の勢力拡大
  • 聖徳太子の政治改革
  • 冠位十二階や十七条憲法の内容とその影響

歴史年表だけでは語り尽くせない激動の時代に起きた陰謀・野望・戦略。そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

蘇我氏の台頭。渡来人の知識と技術で勢力を拡大

6世紀頃、大和朝廷内で勢力を拡大したのが蘇我氏です。

大和国高市郡曽我を拠点としていた豪族の蘇我氏は飛鳥に進出し、支配下においた渡来人たちの知識・技術を駆使して財政・生産を支えつつ、仏教の普及を推進しています。また、朝廷の屯倉を次々と設けることで、勢力を確立して政界を率いる存在となっていました。

蘇我稲目:天皇の外戚の地位を確立

蘇我稲目の代の頃に、蘇我氏は物部氏とならぶ二大勢力になりました。稲目の二人の娘は、欽明天皇の妃となり、誕生した皇子・皇女が後に天皇に即位していき、これにより蘇我氏は外戚の地位を獲得・確立していきます。

また、稲目は仏教の受容を支持し、百済からもたらされた仏教を推進しました。

欽明天皇が仏教の導入を検討した際、蘇我稲目は仏教の普及を推進しようとする一方で、物部氏は日本固有の神道を守るべきだと主張、そのことで両者の対立が激化しました。

稲目は仏教寺院を建立しましたが、疫病の流行した際に物部尾輿(当時の物部氏の当主)は仏教が災いを招いたと非難し、寺院の破壊を天皇に許可されました。

しかし、寺院が破壊された後も疫病が続いたことから、仏教が災いをもたらしたわけではないとされ再び仏教の布教が認められました。その後、仏教をめぐる争いは稲目の後継者、蘇我馬子の代まで続くことになりました。

蘇我馬子:物部守屋・崇峻天皇との争い

蘇我稲目と物部尾輿による仏教の受け入れに関する問題は、次代の蘇我馬子と物部守屋に受け継がれ、激しい政争へと発展します。守屋は用明天皇の後継者候補として穴穂部皇子を擁立しますが、馬子によって皇子は暗殺されてしまいました。さらに馬子はこの勢いのまま、政敵である守屋をも討ち滅ぼしてしまいます。(丁未の乱)

馬子の勝利によって蘇我氏は勢力を一挙に拡大。仏教受容が進み、馬子が用明天皇の後継ぎとして立てた泊瀬部皇子が、崇峻天皇として即位しました。

しかし、崇峻天皇と蘇我馬子との関係は徐々に悪化します。崇峻天皇が仏教政策にさほど積極的でなかったこと、地方支配の強化策を進めたことのほか、大伴氏の娘との間に蜂子皇子をもうけたことで、蘇我氏が外戚としての地位を失う事態を招いたことなど、様々な出来事の積み重ねが関係悪化の原因です。

592年、崇峻天皇は馬子の陰謀により暗殺されてしまいます。なお、天皇が明確に家臣の手によって暗殺されたと記録されているのは、この事例のみです。馬子は次の天皇として推古天皇を即位させ、再び蘇我氏が政治の主導権を握ることになりました。

推古天皇:日本初の女帝。飛鳥時代の幕開け

崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された後、推古天皇が日本初の女性天皇として592年に即位しました。

推古天皇は欽明天皇の皇女で、母は蘇我稲目の娘であることから、蘇我氏と深い結びつきを持っていた天皇です。推古天皇は、蘇我氏の基盤である飛鳥に宮を構えたことから、飛鳥時代とよばれる時代が始まります。

推古天皇は、甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政に任命し、蘇我馬子とともに政治を担わせました。

聖徳太子の政治改革。和の精神とルール作りで基盤を構築

聖徳太子が手がけた政治改革として代表的なものが、冠位十二階と十七憲法の制定です。また、との対等な関係での外交を求めました。

冠位十二階:冠の色で示す人材登用制度

603年、聖徳太子によって導入された冠位十二階は、日本初の個人の功労に応じた人材登用制度です。

位階は上から「徳・仁・礼・信・義・智」とされ、それぞれが大と小に分かれ、合計12の階級が設けられています。

冠の色は紫・青・赤・黄・白・黒と定められ、一目でその人の朝廷内における序列がわかるようにされていました。

従来の複雑な氏姓制とは異なり、この制度では個人の能力と功績に基づいて冠位が授けられ、豪族だけでなく幅広い層が政治に参加できる道を開きました。

十七条憲法:政治への心構えを説いた法

604年、聖徳太子によって制定された「十七条憲法」は、日本最古の成文法で君・臣・民の関係を明確にし、官吏としての臣の政治に対する心構えを説いたものです。

最も有名な第一条「和を以て貴しと為す」は、和と協調の重要性を強調した一文として知られています。続く第二条では仏教の三宝を敬うこと、第三条には「詔を承りては必ず謹め」と、天皇の言葉に従う姿勢が示されています。

「君を天とし、臣を地とす」「国に二君非ず、民に両主無し」など、天皇を中心とした中央集権体制を意図した条文が見られることが大きな特徴です。

遣隋使:対等な立場の外交を求めた日本

聖徳太子の中国の隋に対しての姿勢として、対等な関係を求めたことが大きな特徴です。

小野妹子の派遣(607年)

607年、聖徳太子の命により、第2回目となる遣隋使が派遣されました。(なお、初めての遣隋使は600年に派遣されましたが、この時は相手にされず終わってしまいました。)

第2回目の遣隋使は、大和朝廷の役人である小野妹子が代表に任命されて派遣されました。

この遣隋使が持参した手紙のフレーズとして有名なものが、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」というメッセージです。

「天子」という言葉は皇帝だけが使うことを許された称号であり、他の地域の首長が「天子」を名乗るなど、隋の側からは考えられないことでした。

これまでの外交では、周辺国が皇帝に貢物を捧げる「朝貢外交」を行っていましたが、日本はこれを拒否し、中国と日本が対等な関係であるという姿勢を暗に示したのです。です。

隋の皇帝「煬帝」(ようだい)は激怒しましたが、当時の隋は高句麗との戦いで余裕がなかったため、日本との対立を避けるべく、とりあえずは返礼の使者を日本に送ることを決断しました。

その後の交流

翌年である608年、小野妹子は隋の返書を持ち帰り、隋の使者裴世清を伴って帰国しました。

裴世清が隋に帰国する際は、高向玄理(たかむこのくろまろ)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・僧旻など、多くの日本人留学生が同行し、隋で最新の知識と文化を学ぶために海を渡りました。

なお、隋が618年に滅びたのちは、遣使となって日本から中国への派遣事業は続くことになります。、

640年に帰国した高向玄理たちは、隋と唐の二つの王朝から得た学問や技術を日本に持ち帰りました。

遣隋使のねらい

遣隋使の派遣の目的は、朝鮮半島の百済を経由せず、東アジアの先進国である隋から文化や制度を直接輸入することでした。

また、日本は冊封を受けない外交方針をとることで、朝鮮半島における新羅や他の国々に対して優位に立つねらいもあったと考えられています。。

「冊封」とは、中国が周辺国との間で形式上の君臣関係を結ぶ体制を指し、中国が上位にたち、周辺諸国を臣下とするような関係です。

日本はこの冊封体制を拒否し、独立した対等な立場を維持し、中国の臣下として扱われることを避けました。

隋は日本の姿勢に対して強い怒りを示したものの、高句麗との緊張関係を抱えており、日本との関係を軽視できない状況にありました。このため、隋は日本に対して明確な拒絶はおこなわず、使者を日本に送るなど曖昧な態度に終始したのです。

日本は対等な立場を強調しつつ、隋との関係を通じて文化と制度を国内に取り入れることに成功し、この外交方針は、後に遣唐使にも引き継がれました。

<コラム>聖徳太子が成し遂げられなかったこと

様々な改革を通じて、天皇を中心とした秩序ある政治体制を実現しようとした聖徳太子。しかし、その枠組みの中に、皇族や蘇我氏を組み込むことは結局できませんでした。

本来であれば、能力に応じた階級が与えられるはずの冠位十二階ですが、蘇我氏は冠位十二階の例外として扱われていたのです。

その結果、蘇我氏はますます権力を手にし、対立する者を滅ぼして政権の独占が進んでいくことになりました。

そして、聖徳太子の改革後にも残った蘇我氏の影響力を排除するため、中大兄皇子中臣鎌足による大化の改新へとつながっていくのです。

まとめ

政敵である物部氏をほろぼした蘇我氏が権力を握り、、初の女性天皇である推古天皇を擁立したころから、飛鳥時代が始まります。

推古天皇の治世は、聖徳太子と蘇我馬子によって行われ、冠位十二階や十七条憲法などを通して、天皇を中心とした統治体制の基礎が築かれました。

しかし、蘇我氏を統治体制の枠組みに含められなかったことにより、蘇我氏の勢力はその後も拡大してしまいます。このことが、その後の大化の改新につながることになります。