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藤原道長・頼通による摂関政治の発展と終焉

10世紀末ごろ、藤原道長が権勢を握った時代には、摂関政治が最盛期を迎え、息子の頼通の代にも摂関政治の最盛期は続いていきます。しかし、頼通の娘から皇子が生まれなかったことで摂関政治の最盛期は終焉を迎えます。

また、この時代には、漢字から派生した仮名が広く受け入れられ、仏教も一般の人々へと深く浸透する中で、日本独自の文化は大きな飛躍を遂げ、やがて優雅かつ洗練された「国風文化」へと発展していきました。

  • 藤原道長による摂関政治最盛期
  • 藤原頼通による摂関政治の発展とその最盛期の終焉
  • 日本的感性が花開く国風文化

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

藤原氏の栄華と摂関政治の黄金期

969年、藤原実頼(道長の大伯父)の時代に、藤原氏による他氏排斥事件である安和の変が起きたことで、藤原氏の勢力がより高まります。

その後、藤原道長の時代に摂関政治が全盛期を迎えます。

藤原道長:この世をば、わが世とぞ思ふ…栄華を誇った絶対権力者

藤原道長は966年、摂政・関白を務める藤原兼家の五男として生まれました。父・兼家の死後、長兄の道隆が関白に就任し、その娘・定子(ていし)が一条天皇に嫁ぎました。しかし、道隆が急死し、続いて次兄の道兼も亡くなったことで、道長と藤原道隆の嫡男である藤原伊周(これちか)との間で激しい権力争いが繰り広げられました。

伊周は父・道隆の後を追って、道長を凌ぐ勢いで出世していました。しかし、996年(長徳2年)、伊周が花山法皇に矢を射かける事件(長徳の変)を起こし、左遷されます。これにより、道長は名実ともに朝廷の最高権力者となりました。

藤原道長は権力を握ると4人の娘を次々と天皇に嫁がせました。長女・彰子(しょうし)は一条天皇(第66代天皇)の中宮となって、後一条天皇(第68代天皇)と後朱雀天皇(第69代天皇)を産み、次女・妍子(けんし)は三条天皇(第67代天皇)の中宮に、三女・威子(いし)は後一条天皇の中宮として道長の外祖父としての地位をさらに強固なものにしました。さらに四女・嬉子(きし)はのちに後朱雀天皇となる敦良親王の妃となり、道長の権勢は揺るぎないものとなりました。

1018年(寛仁2年)、三女・威子が後一条天皇の中宮となった際、道長はある和歌を詠みました。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」

この歌は、自身の権力が満月のように満ち足りていることを表現していると受け止められ、道長の絶頂期の心情を伝えています。

藤原道長は「摂関政治」の絶頂を築いた政治家であると同時に、当時の貴族文化の中心的存在でもありました。朝廷行事や自邸での盛大な宴、寺社の建立や修造など、多彩な文化的イベントを主催しました。道長は積極的に費用を投じ、雅やかな宴や法会を開いています。これによって多くの貴族や僧侶と結びつきを強めるとともに、宮廷文化を華やかに彩る存在としても注目されました。

また、長女・彰子のもとには、部など才能あふれる女房たちが集まりました。紫式部は『源氏物語』を著した人物として知られていますが、『紫式部日記』にも、道長主催の行事や中宮彰子の華やかな生活が描かれています。道長は自らが直接「文芸を指導した」というわけではないものの、中宮や后妃のサロン(女房集団)を支えることで、結果的に宮廷文学を支援し、発展させる土壌を作りました。

藤原頼通:父の跡を継ぎ、天皇三代の摂政・関白を務めた後継者

藤原頼通は藤原道長の長男として生まれ、1017年には26歳という若さで史上最年少の摂政となり、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三代にわたり摂政・関白を務め、実に52年間もの長きにわたって権力を握り続け、摂関政治をさらに維持・発展させました。

しかし、藤原頼通は一人娘の藤原寛子を後冷泉天皇に嫁がせましたが期待していた男子が生まれませんでした。藤原氏を外祖父とする男子が生まれなかったことで、藤原氏が天皇の外戚として政治的権力を掌握する基盤が崩れ、摂関政治の最盛期は終焉を迎えていきます。

地方の反乱や紛争が相次ぎ、1028年には上総国(現在の千葉県)の国司である平忠常が反乱を起こします。東北地方の豪族安倍氏が朝廷に反抗した、前九年の役も起こりました。地方で起きた平忠常の乱と前九年の役は鎮圧されましたが、武士が台頭する契機となっていきます。

1052年、藤原頼通は父である藤原道長の別荘を改修して平等院鳳凰堂を建立しました。平等院鳳凰堂は極楽浄土の姿を地上に表現するもので、仏教思想の影響を色濃く反映しており、現在ユネスコ世界遺産にも登録されています。

1068年に藤原氏を外祖父としない後三条天皇が即位しました。後三条天皇は荘園整理令の発布など、財政改革を推し進め、藤原氏の権力は徐々に衰退していきます。

日本的感性が花開く、国風文化

9世紀末以降に遣唐使が中止となったことで、10世紀以降は、かな文字や和歌など、日本国内で独自文化である「国風文化」の発展が進みます。

かな文学:かな文字の発達、国文学の大きな発展へとつながる文字革命

日本の国文学における大きな転換点は、「かな文字」の発達です。それまで日本人は漢字を用いて記録を残していましたが、日本語の音や文法を漢字だけで表すのが不便だったため、漢字の一部や読み方を借用して音を示す万葉仮名が生まれ、「ひらがな」「カタカナ」が確立されました。

ひらがなは、漢字を草書体に崩して簡略化したもので、特に女性を中心に私的なやり取りや文学作品に多用されました。一方、カタカナは、僧侶たちが仏典を読み解く際に、漢字の一部を抽出して作成した文字で、公的な場面や注釈に用いられました。

かな文字は、貴族社会の中で特に発展し、日本人の繊細な感情を自由に表現する基盤を築きました。かな文化が確立されたことで、当時の日本語や感情を繊細に表現できるようになり、『古今和歌集』の和歌や『土佐日記』における旅の心情が深みを増しました。また、『竹取物語』などの説話が発展した物語や、『源氏物語』・『枕草子』のような宮廷文化を映す散文が次々と生まれ、口伝だけでは伝えきれなかった微細な情感や雅やかな世界が文章として定着していきます。『鳥獣人物戯画』のような絵巻物にも、かなを用いた注釈や書き込みが施されることで視覚と言葉の融合が進み、多様な表現が開花しました。こうした作品群をとおして、平安時代の貴族文化は日本独自の文学的豊かさを獲得していったのです。

貴族の生活:優雅に彩る衣装や建物

平安時代の貴族の生活は、華やかさや洗練された衣装や建物が特徴的です。

寝殿造

寝殿造は家の主が生活する「寝殿」を中心にし、周囲には「対屋」と呼ばれる家族用の建物が設けられ、これらは「渡殿」と呼ばれる廊下で繋がれていました。

建物は開放的で、壁がほとんどなく、御簾(みす)や蔀(しとみ)などで外界と仕切られるのが特徴です。寝殿の南側には「南庭」が広がり、池や橋も造られていました。この庭は自然を取り込んだ美しい空間であり、歌会や宴会などの場としても使用されました。外周は築地塀(ついじべい)と門で囲まれ、門の種類は屋敷の式を象徴しました。京都御所の紫宸殿(ししんでん)は、寝殿造の典型的な例として知られています。南庭に桜や橘が植えられ、天皇の即位儀式などが行われる格式高い空間でした。また、藤原道長が居住した東三条殿も寝殿造でした。

十二単

十二単十二単は平安時代の貴族女性が公式な場で着用した正装であり、複数の衣を重ねた装束です。「小袖」の上に「唐衣(からぎぬ)」と「裳(も)」を着用し、その下にいくつもの衣を重ねました。それぞれの衣の色や模様、配色は季節や儀式の内容に応じて選ばれていました。

浄土信仰:末法の世に現れた新たな救いの思想

貴族たちは華やかな宮廷文化を花開かせる一方で、疫病の蔓延や地震などの天災が頻発し、人々の間には不安と絶望が広がっていました。このような混迷する社会状況の中で、末法思想に基づく新たな仏教の形態である浄土信仰が誕生し、広がりを見せました。

末法思想とは仏教の歴史観に基づく考え方で、釈迦の入滅から1000年後または2000年後には現世で救われることがなくなるというものです。日本では、1052年が釈迦入滅から約2000年後にあたる末法の始まりとされ、多くの人々が「仏法が衰退する時代」に突入するという思想に強い影響を受けました。疫病や地震、飢饉などの度重なる天災が、人々の不安を一層煽り、この世の無常を思う中で、現世ではなく来世に救いを求める「浄土教」の思想が広まりました。

浄土信仰の中心には、極楽浄土で衆生を救うとされる「阿弥陀如来」が位置しており、信者は阿弥陀如来の名を唱える「念仏」によって往生を願いました。天台宗の僧・源信極楽往生への方法を説いたことにより、貴族だけでなく多くの庶民にもこの教えが浸透していきます。

藤原頼通によって1053年に完成した「平等院鳳凰堂」は、本尊として安置された阿弥陀如来像(仏師・定朝作)は寄木造で制作され、堂内には極楽浄土の情景を描いた壁画や彫刻が施されました。こうして末法思想のもと、阿弥陀如来を中心とする浄土への憧れが人々の心を捉え、宮廷社会から庶民層にいたるまで大きな影響を与えたのです。

まとめ

藤原道長の時代は、摂関政治の全盛期を迎え、その栄華は藤原頼通の時代にも続きました。しかし、藤原頼通の時代には娘を天皇家に嫁がせたものの、男子が生まれなかったことで、天皇家の外戚という関係性が維持できなくなり、摂関政治の最盛期は終焉を迎えます。

また、遣唐使を停止したことで、この時代には大陸からの影響が減り、日本独自の文化が大きく発展した時代でもありました。文化的な優雅さが花開く一方で、地震や疫病などの災害が頻発して人々の不安が増大し、やがて末法思想が広まります。こうした時代背景のもと、阿弥陀如来にすがる浄土信仰が貴族から庶民まで急速に浸透し、寺院の建立や念仏の唱和などによって「来世に救いを求める」という新たな宗教観が生まれました。