ペリー来航後、江戸幕府は欧米列強と不平等な条約を締結したことで、日本国内の政治や経済は混乱し、幕府の権威は衰退することになります。
一方、長州藩や薩摩藩は欧米列強との武力衝突を経験し、戦力の違いを目の当たりにしました。旧態依然としたままでは欧米列強の脅威を跳ね返すことは難しいと実感し、討幕を目指し始めます。
- 江戸幕府の衰退
- 尊王攘夷から尊王討幕への移り変わり
- 江戸幕府の終焉と戊辰戦争
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#29
ペリー来航後、江戸幕府は欧米列強と不平等な条約を締結したことで、日本国内の政治や経済は混乱し、幕府の権威は衰退することになります。
一方、長州藩や薩摩藩は欧米列強との武力衝突を経験し、戦力の違いを目の当たりにしました。旧態依然としたままでは欧米列強の脅威を跳ね返すことは難しいと実感し、討幕を目指し始めます。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
幕府の権威は開国への不満や、安政の大獄・桜田門外の変を始めとする政治的混乱によって、権威が衰えることになります。
一方で、長州藩や薩摩藩は、欧米諸国と武力衝突が生じ、彼我の軍事力の違いを目の当たりにしました。単純に、「外国よ出ていけ!」と刀を振るっても尊王攘夷は成し遂げられないと実感し、欧米列強と交流を深めながら軍備の拡張を進めていくこととなります。
ペリーの来航から、日米和親条約・日米修好通商条約の締結を経て「鎖国」体制は終わりを迎え、日本は開国することになります。
しかし、外国の圧力に屈する幕府の姿勢や、開国後に起きた国内経済のインフレへの不満もあって、攘夷論(外国排斥論)が高まっていました。
そのような中、1858年の日米修好通商条約の無勅許調印問題が発生します。
日米修好通商条約は、関税自主権なしの通商や、アメリカ人犯罪に対して、アメリカ領事が判決を下す領事裁判権の設定など、日本にとっては不平等な内容を含む条約です。
幕府は調印の勅許(天皇の許可)を得るため、老中・堀田正睦を朝廷に派遣しましたが、孝明天皇は攘夷論者であったことから拒否。結局、当時の幕府大老・井伊直弼は、勅許を得ることなく条約に調印してしまいます。
当然、朝廷と幕府の関係は悪化し、元々攘夷論を支持していた人々の間には尊王の気運が高まり、天皇・朝廷を軽視する幕府に対する反発が高まる結果となります。
幕府への反発が広がる中、政治的な混乱も起こります。
当時、13代将軍・徳川家定が病弱であったことから、次期将軍候補として2人の名前が挙がっていました。血統は近いもののまだ幼年の徳川慶福(後の家茂)と、血統は離れるものの優秀な青年であると評判の一橋慶喜(御三家水戸藩の出身で御三卿一橋家に入った)です。そして、徳川慶福を推す井伊直弼ら「南紀派」と、一橋慶喜を推す島津斉彬ら「一橋派」との間で対立が発生したのです。
井伊直弼は、日米修好通商条約の無勅許調印とともに、徳川慶福を14代将軍にすることも断行してしまいます。あまりにも強引な進め方に多くの反発の声があがりましたが、直弼は幕府の方針に反対した攘夷派や一橋派の大名・公家・志士を、次々と弾圧しました。この政治的弾圧が「安政の大獄」と呼ばれる事件です。100名以上が連座し、長州藩の吉田松陰や越前藩の橋本左内などが処刑されました。一橋慶喜の実父である水戸藩の徳川斉昭も永蟄居(終身謹慎・外出禁止)の処分がなされました。
しかし1860年、一連の強引なやり方に不満を持った水戸浪士らによって、井伊直弼は江戸城桜田門外にて暗殺されてしまいます。(桜田門外の変)
桜田門外の変によって、幕府はこれまでの独断・専制的な政治姿勢から、朝廷への関係を修復していく方向に進んでいくことになりました。
桜田門外の変以降、老中・安藤信正を中心に、幕府は朝廷との融和を図る公武合体政策を推進しました。朝廷との結びつきを強めることで、幕府の権威を回復させようとしたのです。
公武合体政策の取り組みの一つとして、孝明天皇の異母妹である和宮を、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室として迎えること(降嫁)を実現させます。
しかし、この政策の推進は朝廷の権威を下げるものだという見方があり、尊王攘夷派の反発を招くことになりました。
その結果として、1862年に坂下門外の変が起きます。坂下門外の変とは、安藤信正が水戸浪士によって襲撃された事件で、安藤信正はこの事件で背中を負傷します。敵に背を見せたとして、安藤信正は失脚し、府の権威は坂下門外の変以降さらに失墜し、尊王攘夷派の動きが活発化することになりました。
一連の事件で幕府の権威がすっかり低迷した中、薩摩藩主の実父・島津久光が、幕政の改革に取り組み始めます。ただし、島津家は外様大名で、幕府内での役職もなかったため、朝廷の勅使として改革に関わりました。つまり、朝廷が幕府の改革に間接的に口出しするような構図となったのです。
島津久光は、まず人事制度を改革します。一橋慶喜を将軍後見職として家茂をサポートする役に任命し、政事総裁職には越前藩主の松平春嶽を就任させました。この人事により幕府内の政策決定構造に14代将軍の座を南紀派と争った一橋派の影響力が大きくなりました。
加えて、尊王攘夷派によって荒れている京都の治安維持を図るために京都守護職を設置し、会津藩主・松平容保を配置しました。
また、制度面での改革として、参勤交代の軽減、大名家族の帰国許可、西洋技術の導入拡大などが行われました。
文久の改革によって、財政負担が軽減され、国内の動揺を一時的に安定させることに成功します。また、朝廷の勅使が幕府の政治に介入する形であったことから、幕府専制体制は終焉を迎えたのでした。
攘夷の気運が高まり幕府の統率力が低下する中、尊王攘夷の姿勢を取る長州藩や薩摩藩は欧米列強と衝突します。
1862年、文久の改革を終えた薩摩藩主・島津久光は、江戸から薩摩への帰途につきました。久光一行が武蔵国(神奈川県)生麦村を通った際に、英国人チャールズ・リチャードソンを含む一行が、日本の慣習を無視して薩摩藩の行列に馬で割り込んでしまいます。これに激怒した薩摩藩士によって、リチャードソンが殺害されました。これが生麦事件です。英国は薩摩藩及び江戸幕府に対して厳重な抗議をし、謝罪と賠償を要求しましたが、薩摩藩は拒否します。
その結果、1863年にイギリス海軍は鹿児島湾に艦隊を派遣し、薩摩藩に対する報復攻撃を3日間にわたり行いました(薩英戦争)。イギリスの攻撃により、鹿児島の諸施設が甚大な損害を受けました。
戦闘後、薩摩藩とイギリスは交渉を行い、薩摩藩は25,000ポンドの賠償金支払いと、犯人捜索・処刑を条件に和解します。
薩英戦争により、薩摩藩は西洋の軍事技術の優位性を痛感し、攘夷よりも開国・近代化の必要性を強く認識しました。この事件を契機に薩摩藩はイギリスとの関係を強化します。これが、後の討幕において重要な礎となりました。
尊王攘夷を掲げる長州藩は、1863年・1864年にかけ、下関海峡を通過する外国船に対して無差別攻撃を実行しました(下関戦争)。幕府がなかなか攘夷を決行しないことから、長州藩の独断で武力攻撃に出たのです。しかし、長州藩の過激な行動は、幕府はもちろん、攘夷派である孝明天皇からも積極的な賛同は得られず、孤立を深めていくことになりました。
一方、薩英戦争で「攘夷より開国・公武合体による強い国づくりを」と考えるようになった薩摩藩は会津藩と手を組み、公武合体を推進する「薩会同盟」を結びます。そして、朝廷内の公武合体派を後ろ盾に、長州藩と尊王攘夷急進派の公家を締め出すクーデターを画策。1863年8月18日に、尊王攘夷派の公家・三条実美ら7人が京都から追放され、朝廷における攘夷派・長州藩の影響力は一時的に失われました。(八月十八日の政変)
長州藩は京都での影響力回復を目的に、薩摩藩や会津藩を排除すべく挙兵。1864年に禁門の変(蛤御門の変)を引き起こします。この事件をきっかけに、長州藩は「朝敵」と認定され、幕府は長州藩を討伐するために動き出しました(第一次長州征討)。
しかし時を同じくして、先般長州藩が行った無差別攻撃に対する報復として、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を攻撃しました。欧米の最新鋭の軍艦と兵器の前に、長州藩は完敗。壊滅的な打撃を受けた長州藩は幕府にも降伏し、第一次長州征討は大規模な戦闘に至ることなく終わりました。
この敗北を機に、長州藩内では、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)ら下級藩士が中心となり、攘夷よりも欧米列強と協力をしながら討幕を進めようとする改革派が実権を握ることになります。表面上は幕府へ恭順の姿勢を示しながらも、水面下では西洋式の軍制や戦術を導入し、密かに討幕に向けた準備を進めていったのでした。
朝廷などを中心に攘夷論が高まる中で、薩摩・長州は実際に欧米列強と軍事衝突の経験を経て、その実力差を実感します。現実的には攘夷は不可能であり、むしろ欧米との関係を深めて国力を高めるべきと考えを改めていきました。そこで薩摩・長州はイギリスとの関係を深めて軍備を増強し、やがて討幕・新体制の樹立へと進んでいくことになるのです。
国内経済・政治の混乱によって、幕府の求心力が弱まっていました。
その一方で、薩摩藩や長州藩は、欧米諸国と協力して、軍事力の強化を進めていました。いよいよこれらの勢力が動き出すことになります。
高杉晋作を中心とする改革派が長州藩の実権を握ったことを知った幕府は、長州藩主父子に江戸に出頭するよう命令を下すも、長州藩はこれに従わず、時間を稼ぎつつ藩の軍備を強化していました。幕府に反抗し、討幕を目指す勢力として明確な立場を取ったことから、幕府は再度、武力でこれを抑え込もうとしました。これが、1866年(慶応2年)に勃発した第二次長州征討です。
幕府は、第二次長州征討のため、薩摩に出兵命令を出しました。しかし、薩摩藩は、1866年に土佐藩の坂本竜馬や中岡慎太郎らの仲介によって薩長同盟を結んでおり、幕府からの出兵要請に応じない姿勢を示します。
第二次長州征討が激化する中、大坂城に出陣していた14代将軍・徳川家茂が病死します。この出来事は幕府軍に大きな動揺をもたらし、長州討伐の勢いは急速に衰えました。
幕府軍は戦闘の継続が困難になり、休戦を余儀なくされました。表向きは休戦とされたものの、事実上の幕府の敗北であり、国内における幕府の求心力は大きく低下することになります。
加えて、第二次長州征討は、国内の経済や社会にも深刻な影響を及ぼしました。戦争による物資の不足や物流の混乱により、物価が急騰し、庶民の生活はますます困窮し、社会不安が広がりました。
その結果、各地で「世直し一揆」と呼ばれる騒動や打ちこわしが増加し、幕府に対する不満が一層高まりました。
1866年、徳川家茂の死去に伴い、一橋慶喜が徳川宗家を継承し、徳川慶喜として15代将軍に就任しました。しかし、これまでの一連の混乱により、もはや幕府の力は衰退していました。
土佐藩の坂本竜馬や後藤象二郎らは、天皇を中心に幕府も含めた諸大名や藩士が協力して国を運営する体制「公議政体論」の必要性を土佐藩主・山内容堂に提案します。
山内容堂は家老・後藤象二郎の提案を受けて、幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還の建白書を提出しました。徳川慶喜はこの提案を受け入れ、慶応3年10月14日(1867年11月9日、朝廷へ政権を返上する「大政奉還」を申し出、翌日朝廷もこれを受け入れました。
慶喜の狙いは、一旦は政権返上をすることで討幕派の武力行使を封じ込めるところにありました。政権を返上したところで朝廷には政務を行う実務機構が無いため、結局は幕府・慶喜が引き続き実権を握ることになるだろうという思惑があったのです。
徳川慶喜が政権を朝廷に返上した「大政奉還」は、幕府の権威を手放したかのように見せ、日本国内最大大名である徳川家の力をもって実権を得ようとしていました。
薩摩藩と長州藩を中心とした討幕派は、大政奉還の前日と当日に朝廷から「討幕の密勅(命令書)」を得ていましたが、大政奉還によって大義名分がなくなり延期となります。しかし、大政奉還後も武力による徳川家排除の動きは密かに続くことになります。
討幕派の中心にいた岩倉具視は、慶喜の大政奉還に対抗する形でクーデターを計画。慶応3年12月8日(1868年1月2日)、岩倉の私邸に薩摩藩、土佐藩、広島藩、尾張藩、越前藩の5藩が集まり、政権奪取の決意を新たにしました。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、彼らは京都御所を封鎖し、明治天皇から「王政復古の大号令」を発布させるにいたります。王政復古の大号令では、幕府の廃止にとどまらず摂政・関白も廃止し、新たに総裁・議定・参与の三職を置いて天皇を中心とした新体制樹立をうたうものでした。
王政復古の大号令が発令されたその夜、総裁・議定・参与によって「小御所会議」が開かれ、徳川慶喜の辞官納地(官位の辞退と領地の返納)が決定。討幕派の狙いどおり、徳川家の権威と実力を徹底的に削ぎ落とす方針が決まったのです。
王政復古の大号令の発出と慶喜の辞官納地が決定されたものの、慶喜はこれを拒否します。慶喜を中心とした旧幕府側は大坂城に拠点を移し、外交権を保持したまま、イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、イタリアなどの公使との会合を続けました。
新政府側の薩摩藩は、武力で挑発行動を繰り返し、挑発に乗った旧幕府軍は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都郊外で新政府軍と衝突します。この鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、新政府と旧幕府間での戊辰戦争が始まります。
旧幕府軍は数的には優位でしたが、新政府軍が朝廷軍のシンボルである「錦の御旗」を掲げたことで戦意を喪失し、江戸まで後退しました。
慶喜は、後の対応を陸軍総裁であった勝海舟に任せ、寛永寺にて謹慎しました。新政府軍による江戸城総攻撃が予定されていた日の前日に、勝海舟は新政府軍参謀の西郷隆盛と交渉。なるべく戦いは避けたいとの考えが一致したことから、江戸城を明け渡す代わりに総攻撃はしないという決着を迎えることとなりました。
江戸城無血開城の後も、旧幕府軍の抵抗は続き、会津藩や東北地方の藩が中心となり、新政府軍との戦いを続けます。
特に会津若松城を中心に展開された会津戦争は戊辰戦争内でも最大規模の激戦となり、多くの犠牲者を出しましたが、明治元年9月(1868年11月)には会津藩も降伏しました。
最後の戦場となったのは、北海道の箱館です。旧幕府海軍を率いた榎本武揚は、箱館の五稜郭に立てこもり「蝦夷共和国」を樹立。イギリスやフランスにも「事実上の政権(De Facto)」として、承認されました。
しかし、新政府軍の進撃により榎本は降伏し、箱館戦争は終結。明治2年5月(1869年6月)、旧幕府軍の敗北をもって戊辰戦争は幕を閉じました。
幕府の求心力が低下する中、欧米列強の力を目の当たりにした薩摩・長州両藩は、攘夷よりも開国の必要性を実感し、その後、討幕へと突き進むようになりました。討幕派が力をつけた結果、約260年続いた江戸幕府は遂に終焉を迎えました。
幕府側の15代将軍・徳川慶喜は、大政奉還によって朝廷に政権を返しながらも、自身が新政府の実権を握ろうと画策しますが、王政復古の大号令によって阻止されてしまいます。
王政復古の大号令に不満を持った旧幕府軍は、新政府軍との間で戊辰戦争と呼ばれる戦争を起こしますが、最終的に鎮圧され、徳川慶喜は新政府の政権を実権を握ることなく、名実ともに徳川家による時代は終わりを迎えました。
江戸幕府から、明治政府に実権が移り、日本は近代化への道を歩み始めることになるのです。