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江戸幕府の成立︰徳川家康による秩序と統治体制

豊臣秀吉の死後、政権を握ったのは徳川家康でした。関ケ原の戦いで勝利した家康は、その後豊臣家を滅ぼし、約260年も続く江戸幕府の礎を築いたのでした。

本記事では、徳川家康が江戸幕府を成立させるまでの流れと、江戸幕府がいかにして安定的な統治の基盤を構築したのかを解説します。

  • 江戸幕府が成立するまでの流れ
  • 江戸幕府の統治体制
  • 江戸幕府の外交政策
  • 鎖国に至るまでの背景

歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。

目次

江戸幕府の成立。約260年も続いた理由

江戸幕府は成立してから約260年間と非常に長期間に亘って続き、「パックストクガワーナ(徳川による平和)」とも呼ばれる世界史的にみても比較的、平和な時代でした。

徳川家康はどのように江戸幕府を成立させ、安定した統治を実現したのでしょうか。

関ヶ原の戦い、大坂の役、そして徳川の世へ

織田信長豊臣秀吉の後で政権を握ったのは、徳川家康でした。もともと三河の小大名であった徳川氏(当時は松平氏)は東海地方の雄であった今川氏の傘下にありました。家康も今川義元の一族の娘と結婚し、傘下の武将として成長します。しかし、今川義元が1560年の桶狭間の戦いにて織田信長に討ち取られると家康は自立の道を歩みます。織田信長・豊臣秀吉と協力をしながら、勢力を拡大。1590年に秀吉が小田原の北条氏を倒して天下を統一すると、家康は、関東に移り江戸を基盤とすることになったのでした。

豊臣秀吉が死ぬと、幼かった豊臣秀頼に代わって家康が実権を握りますが、秀吉の恩を受けていた石田三成が家康を退けようと画策。その結果起こったのが、関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の死後、五大老五奉行が政治を担っていましたが、実際には五大老の筆頭で、最大勢力だった徳川家康が実権を握りました。そのため、家康と五奉行の一人だった石田三成の対立が深まり、ついに全国の大名を巻き込んだ関ヶ原の戦いが勃発したのです。

1600年に徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍が美濃(現:岐阜県南部)の関ヶ原で激突。関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属していた小早川秀秋が戦場で東軍に寝返ったことによって形勢が傾き、東軍の圧勝に終わりました。

関ケ原の戦いで勝利した家康は、戦後処理で西軍に与した大名たちも従えることに成功して、全国の実質的な支配者となり、1603年には征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。

大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)

関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍となった家康ですが、豊臣家は大坂城に拠って存在し続けており、多くの大名たちが江戸の徳川家だけでなく、大坂の豊臣家にも敬意を示していたのです。

多くの大名がまだ豊臣家の恩を忘れていない中、家康は豊臣家打倒の機会を探ります。1614年に起きた「方広寺鐘銘事件」がきっかけとなって、家康は遂に豊臣家との戦いを引き起こしました。

1614年に始まった大坂冬の陣では、家康は他大名たちを引き連れて大坂城を包囲。豊臣恩顧の大名たちですら家康側についてしまいます。劣勢の豊臣家には名のある浪人たちが集結し、奮戦の末に何とか和議を成立させます。

しかし、翌1615年に和議が破綻。大坂夏の陣が勃発し、激しい戦闘の末、真田幸村の奮闘も空しく豊臣家は敗北しました。大坂城は炎上し、秀頼と淀殿(秀頼の生母)は自害しました。これにより、豊臣家は完全に滅亡し、徳川家による完全な天下の掌握(元和偃武(げんなえんぶ)が達成されました。

幕藩体制:権力を独占させない仕組み

徳川家の繁栄を支えたのは、戦国時代までと異なる、徹底的な管理体制です。大名、天皇・皇族・公家、寺社など、さまざまな身分に対して管理を行うことで、統治体制を整えました。

幕藩体制

江戸幕府が、長期政権を維持する基盤となったのが中央と地方を分けて統治する「幕藩体制」にあると考えられます。

幕藩体制では、将軍(幕府)に大名(藩)が臣従することによって戦乱を防ぎ、将軍と大名がそれぞれ支配する土地に対して強力な領主権を持ちます。結果、日本全国が将軍による直接統治か大名を介した間接統治によって、土地と人々が支配される体制になりました。

そして、中央政府である江戸幕府は、将軍直属の家臣団を多く抱え、諸大名を圧倒する軍事力と経済力を誇りました。全国各地の領地や重要都市、鉱山を直轄(これらのことを「天領」と呼びます)し、さらに貨幣鋳造権も握っていたのです。

大名の統制体制

江戸幕府は、大名を統制するための仕組みとして、親藩譜代大名・外様大名に大名を分類し、幕府からの信頼度に応じて、土地やポストを配分しました。

親藩は徳川家の親族であり、譜代大名は関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた大名です。

親藩と譜代大名の大名は信頼がおける大名として扱われ、重要都市の近郊や交通の要所、江戸に近い土地が与えられました。また、幕府は、彼らを重要なポストに配置し、幕府の支配力を強化しました。

一方、外様大名は関ヶ原の戦い以降に徳川家に従った大名です。

かつては徳川家と同格であったり、西軍に属した敵であったりしたわけですから、幕府からの信頼が親藩・譜代大名と比べると低かったです。しかし、彼らを従わせるために巨大な領土を与える必要があったため、江戸幕府は外様大名には遠隔地の土地を与えることにしました。江戸時代を通じて最大の大名は、「加賀百万石」の前田家で、前田家は外様大名です。さらに外様大名は、譜代大名とは違って、江戸幕府の役職に就くことが認められませんでした。外様大名には経済力を渡しはするけれど、政治的な影響力は与えなかったのです。これにより、外様大名が反乱を起こすリスクを低減させたのでした

武家諸法度

武家諸法度は、大名が守るべき法律のことです。新しい城の建設や大規模な船の建造を禁止し、さらに大名間の婚姻には幕府の許可が必要と定めました。これは、たとえば外様大名同士が結婚を重ねることによって巨大化することを防ぐ意図がありました。

武家諸法度に違反した場合、改易(領地没収)や減封(領地削減)・転封(国替)など、厳罰が課せられます。

大名の軍事力増大や政治的結びつきを制限し、幕府の統制力を強化しました。

さらに3代将軍家光の頃には、武家諸法度に「参勤交代制」が加えられます。参勤交代制とは、大名に1年おきに江戸に参上し、妻子を江戸に住まわせることを義務付けた制度です。大名は移動のための財政的負担を強いられ、妻子は人質として江戸に置かれることで、さらに反乱を起こしにくくなりました。

幕府の職制:かつてない徹底的な管理体制

江戸幕府は多岐にわたる職制を設けて全国に強力な支配体制を敷き、権力の集中や反乱を防ぐための監視システムを構築しました。

大老と老中

幕府は譜代大名の名門から選抜される複数人の「老中」という役職によって運営がされました。複数人というのがポイントで、一人が強大な権力を行使して独裁者となるのを防ぐための仕組みです。しかし、場面によっては権限を集中させる事態も生じうるとし、そういった場合には「臨時職」として「大老」を設置して対応することにしました。政治のトップにも臨機応変な人事ができる工夫を施していたのです。

大目付と目付

大目付は大名を監視する役職であり、目付は将軍直属の家臣団(直参)を監視する役職です。大名の動向を監視し、権力の不正行使や反乱を防ぐために設置され、幕府の安定に重要な役割を果たしています。

三奉行

幕府には寺社奉行勘定奉行町奉行の三奉行があり、これを総称して「三奉行」と呼びます。三奉行の中で最も格が高いのは寺社奉行で、寺社や宗教関係の管理を行いました。

勘定奉行と郡代と代官

勘定奉行は、幕府の財政と徴税を司る役職です。

勘定奉行の下には、郡代と代官が配置されました。郡代は10万石以上、代官は10万石以下の天領(幕府直轄地)で徴税を担当しました。

町奉行と遠国奉行

江戸を始め、大坂、京都、駿府などの主要都市には町奉行が配置されました。町奉行は、行政・司法を担当し、都市の秩序を維持しました。

これらの町奉行や地方の奉行、城代を総称して遠国奉行と呼び、江戸町奉行は、江戸の行政と治安を守る要職でした。

月番制と権力の分散

幕府は特定の組織が個人が権力を持つのを防ぐため、三奉行をはじめとして、多くの役職で月番制を採用しました。

月番制は、役職を1カ月交代する制度です。定期的に役職者が変わるため、権力が集中しにくくなり、腐敗や汚職のリスクを低減することが月番制の目的でした。

朝廷・寺社との関係

「将軍は天皇から任命されるもの」という形式は表面上維持していたものの、実質的には朝廷も幕府の統制下におかれていました。朝廷の活動は京都所司代によって厳しく監視され、また1615年には天皇・皇族・公家が厳守すべき規定を定めた「禁中並公家諸法度」が制定されました。

また、幕府は寺社の統制も徹底して行い、「寺院法度」を定めて寺院の運営方針なども幕府が管理できるようにしていきます。また、キリスト教の禁止を推し進める一環として「寺請制度」を設け、全ての人々がどこかの寺院の檀家となることを定めました。

このように、朝廷や宗教団体までも、江戸幕府によって徹底的に管理されたのです。

江戸時代の身分・階層

江戸時代の日本社会には武士、農民、工人、商人の4つの主要な身分・階層がありました。(かつては身分の序列を表した言葉として「士農工商」があったと理解されていましたが、近年では誤りであると考えられているため、注意が必要です)

それぞれの身分・階層にはそれぞれの役割と義務が割り当てられ、幕府の安定と社会秩序の維持を目指しました。

武士:社会階層の頂点

武士は社会階層の頂点に位置し、統治と治安の維持を担いました。

武士は幕府や藩の行政職に就き、領地の管理や軍事的な役割を果たしました。武士には苗字帯刀の特権が与えられ、農民や町人に対して切捨御免が認められることもありました。

農民:生産の基盤

農民は食糧生産を担い、幕府や藩の統治体制に対して重要な役割を担う重要なポジションでした。そのため、特に厳しい統制体制を敷かれていたのも農民です。

農民に課せられた税である年貢は収穫物の40%や50%に達することが多く、「四公六民」「五公五民」と呼ばれる重税が課せられていました。

重税から逃げようとする農民が出ることを防ぐために作られたのが、五人組という制度と、「本百姓」と「名主・組頭・百姓代」に分ける身分制度です。

五人組は5戸から6戸の農家で構成され、組内の一人が年貢を納めない場合や、犯罪を犯した場合に他の組員も連帯して責任を負わせる制度です。五人組により、農民同士が互いに監視し合う仕組みが作られました。

百姓の中で自分の土地を持つ農民は本百姓、通常の農民より地位が高いのが名主・組頭・百姓代と呼ばれる村方三役です。身分制度を整えることで、徳川幕府が支配しやすい体制を作り上げることが目的でした。

村方三役になるためには、年貢をしっかり納めることや、罪を犯さないことが条件となっており、統治体制に貢献しました。

工人:手工業と技術の担い手

手工業を担い、社会に必要な道具や衣服、建物などを生産する役割を担うのが工人(職人)です。彼らは都市部に多く住み、特定の技術や技能を持つことで生計を立てていました。

工人は職人同士で組合を作り、技術の継承や品質の維持に努めました。

商人:経済の中枢

物資の流通と金融を担い、江戸時代の経済活動の中枢を担っていたのが各地の商人です。

商人は問屋や仲買人として活動し、全国各地の商品を取り扱い、両替商として金融業務を行い、経済の円滑な運営に寄与しました。

幕府は商業活動を統制するため、許認可制を導入し、特定の商人に独占的な取引権を与え、商業活動を監視し、価格の安定を図りました。

商人の多くは都市部に住み、町人文化の発展にも大きく貢献しました。浮世絵や歌舞伎などの文化が栄え、経済的にも文化的にも都市の発展を支えました。

賤民階層

江戸時代の身分・階層として思い浮かぶ「士農工商」の他にも、「かわた」や「ひにん」などと呼ばれる賤民身分の人々が存在しました。彼らは皮革製造や雑業、乞食、刑場の雑役などに従事し、厳しい制約と差別を受けながら生活していました。

賤民は居住地や服装などにも厳しい制限があり、社会の最下層に位置付けられていました。

長子相続:後継者争いを防ぐルール

江戸時代の繁栄が長く続いた理由の1つが長子相続です。長子相続によって、ルールが厳格に定められ、トラブルを予防することにつながりました。「長子相続」とは家督(家の財産と地位)を長男が継ぐことを定めた制度です。

江戸時代以前の時代は、家督を誰が継ぐかは明確なルールが定められていなかったため、家督相続による争いによって社会秩序が乱れる、分割相続によって財産が分散するなどの問題がありました。

武家社会における長子相続

武士階級では、武士は領地や役職を持ち、家督継承が家の存続に直結していました。

家督は原則として長男が継ぐことで家名を存続させました。他の兄弟は分家するか、別の家に養子に出されました。これにより、領地の分割による経済的弱体化を防ぎました。

武家諸法度には、武士の相続に関する規定も含まれており、長子相続を基本とすることで、後継者争いによる混乱を防ぎました。これにより、室町時代の応仁の乱のような事態が発生しなくなったのです。

また、養子縁組も頻繁に行われ、家の存続が確実に行われるように制度が整備されていました。養子は家の存続に重要な役割を果たし、必要に応じて親族や他家から適任者が迎えられました。

農民と長子相続

農民・百姓にも、長子相続は適用されています。農民の家族は、自らの土地を持つ本百姓と、他人の土地を耕す水呑み百姓に分かれていました。

本百姓の家では、土地と家屋を長男が継承し、家の存続を図り、他の兄弟は新たに分家するか、他の家に奉公することで独立しました。武士と一緒ですね。

江戸時代の農業は土地の集約が重要で、細分化された農地では生産効率が低下する可能性があります。そのため、長男が一括して相続することで農地の保全が図られました。

また、幕府は田畑永代売買の禁令や分地制限を出し、小規模な農民が増えることを防ぎました。

商人と工人の相続

商人や工人の家でも、長子相続が基本とされ、長男が家業を引き継ぐことで、商売の安定と発展が図られました。次男以下の兄弟は、分家するか、他の家に奉公することで、家業の分裂を防ぎました。

家業のノウハウや顧客との関係を維持するためには、一貫した経営が求められます。そのため、長子相続により、家業の継続性が確保されることで、経済的な安定が図られました。

長子相続の社会的影響

長子相続は、徳川家の長期政権を支えるとともに、江戸時代の社会秩序の維持にも大きく寄与しました。身分ごとに家督相続における明確なルールが定められたことで、後継者争いが減少し、社会的な混乱が防がれました。

また、長子相続制度は、家族の中での役割分担を明確にし、家長の権限を強化する役割も果たしています。

家長である長男が家を守る責任を負い、家族全体の安定が図られる一方で、次男以下の兄弟や女性は家の存続を支えるために協力し、家族の結束が強まったともいえます。

江戸幕府の外交政策と「鎖国」の始まり

江戸幕府の外交政策は、当初、貿易を拡大しようとしていました。しかし、キリスト教の禁教政策を強めていく中で、ついに「鎖国」が始まります。

平和外交:アジア・ヨーロッパとの貿易

オランダとイギリスとの貿易

1600年、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着すると、家康はオランダ人ヤン・ヨーステンとイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)を江戸に招き、外交・貿易の顧問としました。これにより、オランダとイギリスとの貿易が開始され、平戸には商館が開設されました。

オランダやイギリスとの貿易は活発に行われ、「紅毛人」と呼ばれた彼らは日本国内で商業活動を展開しました。その後、オランダやイギリスとの貿易が平戸を拠点に展開されました。

スペインとポルトガルとの関係

また、家康はスペインとの貿易振興を図り、京都の商人田中勝介をメキシコ(ノビスパン、当時スペインの植民地)に派遣し通商を求めました。仙台藩主・伊達政宗も独自に家臣の支倉常長をメキシコ経由でスペインに派遣する動きもありました。

スペインやポルトガルの商人は「南蛮人」と呼ばれ、ポルトガル商人は中国のマカオを拠点に長崎に生糸をもたらし、大きな利益を得ていました。幕府は1604年に糸割符制度を導入し、生糸の輸入を統制しました。

朱印船貿易と東南アジア

徳川家康は東南アジアでの貿易を厳格に管理するため、朱印状という許可証を持つ船のみが貿易を許可される「朱印船貿易」を導入しました。

朱印状をもつ日本商人は海外で貿易活動を行い、東南アジアには多くの日本人移住者が誕生しました。特に山田長政はシャム(現在のタイ)のアユタヤ王朝に仕えたことで有名です。

朱印船貿易の結果、東南アジアの各地に「日本町」が形成されました。

朝鮮・琉球・蝦夷地との関係

朝鮮との関係も回復し、対馬藩の宗氏が仲介役として己酉条約を締結し、国交が再開されました。将軍の代替わりには朝鮮通信使が訪れ、両国の関係が安定しました。

琉球王国は1609年に薩摩藩の島津氏の支配下に置かれますが、名目上は琉球は引き続き、清(中国)の朝貢国として残ります。その結果、琉球を通じた中国との交易が行われました。

松前藩は蝦夷地(現在の北海道、松前藩は現在の函館周辺を拠点としていた)でアイヌとの交易を行いながら、支配領域を拡大しました。

禁教から「鎖国」へ:鎖国政策の実態

江戸幕府は、キリスト教に対する禁教政策をより強めました。1635年には日本人の海外渡航と国外にいる日本人の帰国が禁止になりました。

キリスト教の伝来と禁教政策の始まり

16世紀後半、日本にキリスト教が伝来し、ポルトガルやスペインの宣教師たちによって布教活動が行われました。豊臣秀吉の時代には南蛮貿易が盛んになり、多くの日本人がキリスト教に改宗しました。

しかし、キリスト教が急速に広がり、信者たちの結束力が高まることに対して警戒心を抱いた豊臣秀吉は、1587年にキリスト教の布教を禁止する禁教令を発布しました。

家康の禁教政策とその強化

徳川家康もキリスト教の布教活動に対して抑圧的でした。秀吉の禁教政策を引き継ぎ、オランダ人やイギリス人から、スペインやポルトガルの植民地政策の危険性を聞かされ、キリスト教の布教が日本の安全保障を脅かす可能性があると認識しました。

1613年、家康は全国にキリスト教禁止令を出し、多くのキリスト教徒を国外に追放しました。

島原・天草一揆と徹底した禁教

1637年、島原・天草地方でキリスト教徒による大規模な反乱「島原・天草一揆」が発生しました。天草四郎を総大将とする約3万人の信者たちが団結し、幕府軍と半年近く戦いました。

島原・天草一揆を契機に、幕府はキリスト教を徹底的に排除する方針を固め、1639年にはポルトガル船の来航を禁止しました。

絵踏と寺請制度

幕府はキリスト教信者を根絶するために厳しい政策を実施しました。絵踏はその一つで、イエスやマリアの像を踏ませることで信者かどうかを確認し、像を踏むことを拒否した者は信仰を放棄するまで厳しい詮議・拷問を受けます。場合によっては命を落とすこともありました。

また、寺請制度を設け、全ての日本人をいずれかの寺の檀家とし、その寺に宗門改めを行わせました。

鎖国政策の形成

キリスト教の排除とともに、幕府は外国との交流を厳しく制限する政策を進めました。1633年には、朱印状のほかに老中奉書という別の許可状を持つ奉書船のみが貿易を許可されるようになりました。

さらに、1635年には日本人の海外渡航と国外にいる日本人の帰国を全面的に禁止しました。

長崎での限定的な交流

鎖国体制が構築されることで、朝鮮・琉球以外で日本に来る外国船はオランダと清に限定されました。また、来航できる場所も長崎の出島に制限されています。

オランダ商館長が提出する「オランダ風説書」により、幕府は海外の情勢を把握しました。

まとめ

江戸時代は、江戸幕府による徹底的な統制によって長期的な安定を迎えました。特にキリスト教の影響が強く残る九州を中心に島原・天草の乱が起こったため、海外との交流が国内の安定に混乱をもたらすと判断した幕府は、いわゆる鎖国体制を敷いて、海外から受ける影響を排除していきます。この結果、1868年まで続く異例の長期政権の基盤が築かれたのでした。