天智天皇の死後、その後継者を巡り、壬申の乱が起こります。壬申の乱に勝利した天武天皇と持統天皇によって、大宝律令による律令国家体制が整っていきました。
- 律令国家設立に向けた天皇たちの改革
- 大宝律令の制定とその統治体制
- 税金の仕組みと、厳しい税金に苦しむ農民
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
学び直しノート#06
天智天皇の死後、その後継者を巡り、壬申の乱が起こります。壬申の乱に勝利した天武天皇と持統天皇によって、大宝律令による律令国家体制が整っていきました。
歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
目次
天智天皇の死後、皇位継承をめぐる争いが起き、大海人皇子が天智天皇に反発する豪族を率いて、大友皇子と争うこととなります。
壬申の乱(672年)は、天智天皇の死後に勃発した皇位継承をめぐる、大友皇子と大海人皇子による日本の古代史上最大の内乱です。
天智天皇は当初、弟である大海人皇子を後継者として意識していたと言われます。しかし、白村江の戦いの敗北以後、大海人皇子と天智天皇の関係は悪化します。
その後、天智天皇は自分の息子である大友皇子を後継者とする方針を明確化しましたが、大友皇子の母の出自が低かったこともあり、皇位継承を主張するには権力基盤や後ろ盾となる勢力が心許ない状況でした。中大兄皇子(天智天皇)は大化の改新以後、急激な改革を進めましたが、その独裁的手法は豪族や人民の不満を募らせていました。
特に飛鳥から近江・大津宮への遷都や全国的な戸籍制度(庚午年籍)の導入、大規模な国防整備(城の建設や防人の配置)は、国全体に大きな負担をもたらしました。
大海人皇子は、反朝廷派の豪族と内通し、戦の準備を進めていました。一方で、大友皇子が豪族に協力を呼びかけたものの、反応は芳しくありません。
そのことが、戦況にも重大な影響を及ぼすことになり、最終的に大友皇子は自害しました。これにより、大海人皇子が勝利を収め、翌年に飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。
天武天皇(在位:673年〜686年)は、壬申の乱に勝利して即位した後、飛鳥浄御原宮を拠点に天皇の権威を強化する方向で政治を進めました。
天武天皇は即位後、近江大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都しました。飛鳥は古くから日本の政治と文化の中心地であり、再び政権の舞台となることで、天武天皇の新体制の象徴となりました。
天武天皇は、それまでの「大王(おおきみ)」に代わり、「天皇」という呼称を採用し、天皇を中国の皇帝に匹敵する存在と位置付けるとともに、神格を強調しました(※)。
(※)天皇という呼称が使用を開始した人物や時期については、まだ議論が残っています。
天武天皇は、684年、天武天皇は豪族の序列を再編成するために「八色の姓(やくさのかばね)」を制定しました。
従来の「臣」や「連」などの姓を見直し、新たに「真人」「朝臣」などを与えることで、豪族を皇室との関係性に応じて再配置し、天皇を頂点とする序列を確立しました。
681年、天武天皇は律令制度の原型となる「飛鳥浄御原令」の制定を命じました。天智天皇の「近江令」と異なり、施行に至った点が画期的です。
この令に基づき、豪族の部民を廃止し、公地公民制を徹底させることで、中央集権体制の基盤を固めました。
天皇の系譜や歴史的な出来事を記録する書物編纂を開始します。天武天皇の死後に完成した『日本書紀』と『古事記』は、天皇の神聖性と権威を歴史的に裏付けるものとなりました。
天武天皇は日本初の貨幣とされる「富本銭」を製造しました。
この貨幣は実際には流通せず、儀式や占いに使用されたと考えられていますが、貨幣鋳造技術の導入は日本経済の近代化への布石となりました。
天武天皇の急逝により、改革は道半ばで終わりましたが、後の改革は天武天皇の皇后であった持統天皇が引き継ぐことになります。
持統天皇は飛鳥浄御原令を施行し、藤原京の造営を進めることで、天武天皇の目指した律令国家の建設を完成させました。
この時代の頃から、「倭」から「日本」という国号をつかうようになったと考えられています。
持統天皇は、689年に「飛鳥浄御原令」を施行しました。飛鳥浄御原令は、土地や人民を天皇の管理下に置くことを明確にし、中央集権体制の基盤を固めました。
日本最初の律令制に基づく戸籍「庚寅年籍」が作成されたことも、飛鳥浄御原令に基づいたものです。
徴税や徴兵制度の基礎を築くとともに、公地公民制の実現に向けた一歩となりました。
694年、持統天皇は日本初の本格的な計画都市である藤原京へ遷都しました。
藤原京は、唐の長安をモデルとした都城制に基づき建設され、宮殿と民間区域を明確に分けることで統治の効率化を図っていることが特徴です。
持統天皇は存命中に譲位し、孫の軽皇子を天皇(文武天皇)に即位させます。そして、自らは太上天皇(上皇)となり、文武天皇とともに引き続き政務を執り行いました。
文武天皇の時代には、天武天皇の子である刑部親王 (おさかべしんのう)と中臣鎌足の子である藤原不比等 (ふじわらのふひと)らが中心となって、中国の制度を真似て、日本にも律令制度が取り入れられます。
そうして701年に制定されたのが、大宝律令です。
律令とは、「律」と「令」という2つの要素から構成されている古代日本における基本法です。「律」は刑罰に関する規定、「令」は行政や国家運営に関する規定を意味します。
日本の律令制度は、中国の制度を参考にして構築されていました。
律は罪を犯してはならない行為や、それに対する刑罰を明確に定めた規範です。罪の中でも特に重いものは「八逆(はちぎゃく)」とされ、国家や皇室に対する重大犯罪が含まれていました。
また、刑罰の内容は「五刑(ごけい)」で定められ、罪の重さに応じて鞭打ちから死罪まで定められています。
律令制度のもとで、中央(都)の統治は「二官八省一台五衛府」と呼ばれる組織によって行われていました。
政治、祭祀、防衛、監察など多岐にわたる役割を担い、日本の古代国家運営を支える基盤となりました。
二官とは神祇官(じんぎかん)と太政官(だじょうかん)で構成されており、統治の要といえる存在です。
神祇官は祭祀や儀式を司る機関で、国家の安寧を祈る重要な役割を担いました。神事を通じて天皇の権威を支える存在として、律令体制の精神的基盤を提供しました。
太政官は政治を司る中枢機関で、行政や政策の決定を行いました。トップには太政大臣が置かれ、以下に左大臣、右大臣、大納言が続きました。ただし、太政大臣は臨時の役職であり、通常は左大臣が最高位でした。
太政官の下には、行政を分担する八つの省が配置されました。
弾正台(だんじょうだい)は役人の不正を監視する機関で、五衛府は、都の防衛都の警備や防衛を担当する部門です。
これらの組織は、中国の律令制度を参考に構築され、日本の国情に合わせて運営されました。
律令制度のもとで、地方は「国」「郡」「里」「戸」という単位に分け、それぞれに役職が置かれて統治が行われました。
単位の解説 | 役職の解説 | |
---|---|---|
国(こく) | 地方の最大単位で、現在の都道府県に相当する。 | 「国司」という長官が中央(都)から派遣され、役所である国衙(こくが)にて業務を行った |
郡(ぐん) | 国の下位に位置する単位で、現在の市や郡に相当する。 | 「郡司」が任命されたが、国司とは異なり、地元の有力者から選ばれるのが特徴 |
里(り) | 郡の下位にあたり、里は、戸(こ)と呼ばれる20~30人ほどの集団を50戸ほど集めて構成されていた。 | 「里長」が管理 |
戸(こ) | 家族単位を基準とした最小単位の集団。地方行政の最も基礎的な部分を担う。 | 「戸主」が管理 |
一部の地域では、通常の国司・郡司による統治に加えて、京職(きょうし)・大宰府(だざいふ)・摂津職(せっつしき) と呼ばれる特別な役職が設置されました。
この時代、班田収授法に基づき、人々には耕作する土地が分け与えられました。最低限の生活を農民に対して保証しているものの、厳しい税制によって、その暮らしぶりは困窮している様子が伺えます。
山上憶良の「貧窮問答歌」では、衣食住にも不自由し、厳しい税金に苦しむ様子が歌われていました。
律令制度のもと、農民は国家に「租」「庸」「調」「雑徭」「兵士役」の義務を負わされました。
租(そ)
租は口分田(律令制下で農民に与えられた土地)に課された税で、収穫量の3%にあたる稲を納める義務がありました。これらは地方の倉庫に保管され、地域の行政運営や中央への納税に利用されました。
庸(よう)
庸は中央での労役である「歳役」の代わりに納める布や米などの物品のことです。農民は調と一緒に庸を中央政府の倉庫に運びました。
調(ちょう)
調は地方特産品を納める税で、絹や布など、各地の産物が中心でした。
雑徭(ぞうよう)
雑徭は、国司が農民に課した地方での労働義務のことです。公共事業や灌漑工事など、地方の行政や経済に必要な労働を担いました。
兵士役
兵士役は徴兵された農民が軍団で勤務する義務を指します。徴兵された者は九州の防備や都の警備(衛士)に従事し、時には遠征にも参加しました。
班田収授法は、大化の改新で導入された「公地公民」の理念を基盤としており、国のものである田んぼを6歳以上の男女にに配り、死後は国に返すことを規定している法律です。
土地の配分は性別や身分でも変わり、 男子(良民)は2反(約2,400㎡)女子(良民)は男子の3分の2(約1,600㎡)、賎民は良民の3分の1と定められていました。土地配分と税負担を正確に行うために、6年ごとに「戸籍」と「計帳」が作成され、人民の氏名、性別、年齢や税負担の有無や詳細が管理されました。
班田収授法は、人民に最低限の生活基盤を保障する一方で、国家に安定した税収をもたらしました。土地分配と税負担を明確にすることで、中央集権体制の確立に寄与しました。
律令制度のもと、古代日本の社会は「良民」と「賤民」という二つの身分に大きく分けられていました。賤民は「五色の賎」で5つに分けられています。
良民はいわゆる「平民」に相当する身分で、一般的な農民や労働者が含まれます。律令制度下では、良民が国家の基盤を支える重要な存在として位置づけられており、租庸調や雑徭などの税や労役の義務を負いました。
賤民は、良民よりも低い身分に位置づけられた人々で、社会的に制限された生活を強いられていました。賤民には「五色の賎(ごしきのせん)」と呼ばれる5つの種類があり、権利と義務にも違いがありました。
天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子の後継者争いである壬申の乱が起こりました。
壬申の乱で勝利した大海人皇子が天武天皇として即位し、天武天皇と持統天皇の時代にかけては、律令国家の確立が進められていくこととなります。
701年に大宝律令が制定され、刑罰や統治体制が整備されました。この統治体制の裏で、農民たちは厳しい税金に苦しめられることになります。