ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

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  • 日本の夜明け
  • 大和王権と古墳文化
  • 古代国家の成立
  • 権力闘争と貴族の時代
  • 武士階級の台頭
  • 武家社会の動揺
  • 動乱の戦国時代
  • 幕藩体制の始まり
  • 発展する経済・文化
  • 揺らぎ始める幕藩体制
  • 明治維新と近代国家の形成
  • 脱亜入欧、日清・日露戦争
  • 第一次世界大戦
  • 第二次世界大戦
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織田信長

織田信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名で、豊臣秀吉徳川家康とともに「戦国の三英傑」と称される人物です。尾張(愛知県西部)を根拠としていた父・織田信秀が死去すると、うつけものと思われていた信長の家督相続に反対するものたちがいましたが、その卓越した手腕によって国内の反対勢力を一掃します。東から、東海地方の雄であり、父・信秀の代から宿敵であった今川義元が襲い掛かってくると、これを寡兵をもって、1560年桶狭間の戦いで討ち取りました。その後、今川義元なき今川家への侵攻は、同名を結んだ徳川家康にまかせ、信長はもっぱら美濃(岐阜県南部)の攻略をすすめます。美濃を奪取すると、この地を「岐阜」と改名しました。足利将軍家の足利義昭を庇護下において、上洛を果たして義昭を将軍の地位につけると、信長の威勢はますます活発になりましたが、やがて義昭と対立することになり、反信長の大名たちによる信長包囲網を形成されるなど苦難が襲いますが、これを克服し1573年に義昭を京都から追放して事実上室町幕府を終焉させ、1575年には強敵武田家を長篠合戦にて屠り、勢いますます盛んとなります。戦国大名であっても家臣団は地元出身者が優遇されるなか、信長は他国出身者であっても登用し、その能力本位の抜擢は、多くの優秀な人材が集まる原動力となりました。しかし、天下統一を目前に控えた1582年に有力家臣の一人で、自身が抜擢した明智光秀による本能寺の変で自害することになってしまいました。明智光秀の謀反の原因は諸説ありますが、信長との関係に悩んだ末の行動というのは少なからずあったようです。

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