織田信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名で、豊臣秀吉・徳川家康とともに「戦国の三英傑」と称される人物です。尾張(愛知県西部)を根拠としていた父・織田信秀が死去すると、うつけものと思われていた信長の家督相続に反対するものたちがいましたが、その卓越した手腕によって国内の反対勢力を一掃します。東から、東海地方の雄であり、父・信秀の代から宿敵であった今川義元が襲い掛かってくると、これを寡兵をもって、1560年桶狭間の戦いで討ち取りました。その後、今川義元なき今川家への侵攻は、同名を結んだ徳川家康にまかせ、信長はもっぱら美濃(岐阜県南部)の攻略をすすめます。美濃を奪取すると、この地を「岐阜」と改名しました。足利将軍家の足利義昭を庇護下において、上洛を果たして義昭を将軍の地位につけると、信長の威勢はますます活発になりましたが、やがて義昭と対立することになり、反信長の大名たちによる信長包囲網を形成されるなど苦難が襲いますが、これを克服し1573年に義昭を京都から追放して事実上室町幕府を終焉させ、1575年には強敵武田家を長篠合戦にて屠り、勢いますます盛んとなります。戦国大名であっても家臣団は地元出身者が優遇されるなか、信長は他国出身者であっても登用し、その能力本位の抜擢は、多くの優秀な人材が集まる原動力となりました。しかし、天下統一を目前に控えた1582年に有力家臣の一人で、自身が抜擢した明智光秀による本能寺の変で自害することになってしまいました。明智光秀の謀反の原因は諸説ありますが、信長との関係に悩んだ末の行動というのは少なからずあったようです。
ざっくり用語解説
織田信長
関連する学び直しノート
織豊政権:天下統一への道と近世の幕開け
応仁の乱以降、下剋上のムードが広がり、未曽有の混沌とした時代に突入した日本。数々の戦国大名たちが相争う中、頭角を現したのは尾張の織田信長でした。 織田信長が始め、豊臣秀吉によって完成された、全国統一。 本記事では、近世の幕開けへと続く道のりを詳しく掘り下げています。 織田信長がいかに権力を拡大したか 経済政策「楽市・楽座」とは 天下統一達成までの道 太閤検地と刀狩の狙い 秀吉が海外進出を試みた理由 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
08.幕藩体制の始まり #20
江戸幕府の成立︰徳川家康による秩序と統治体制
豊臣秀吉の死後、政権を握ったのは徳川家康でした。関ケ原の戦いで勝利した家康は、その後豊臣家を滅ぼし、約260年も続く江戸幕府の礎を築いたのでした。 本記事では、徳川家康が江戸幕府を成立させるまでの流れと、江戸幕府がいかにして安定的な統治の基盤を構築したのかを解説します。 江戸幕府が成立するまでの流れ 江戸幕府の統治体制 江戸幕府の外交政策 鎖国に至るまでの背景 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
08.幕藩体制の始まり #21