徳川家康(とくがわ いえやす)は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期の戦国大名、江戸幕府の初代征夷大将軍です。織田信長、豊臣秀吉と並んで「戦国の三英傑」と呼ばれています。「織田がつき、羽柴がこねし、天下餅、座りしままに、食うは徳川」と歌われた、最終的に天下人となって、江戸幕府を開府しました。しかし、この歌にうたわれるような、ただ待っていただけの人物ではなく、苦労人として知られています。幼少期は人質として過ごします。ただ、この人質というのは当時はわりと当たり前で、自分の主君のお膝元に若君をさしだすことはよくあることで、むしろ人質として長く過ごした今川義元のところには、京都から多くの文化人が疎開・避難してきていました。そのため、家康は若いころから勉強家・読書家でした。幼名竹千代は、今川義元のもとで元服し、松平元信と名乗ります。その後わりとすぐに祖父・清康にあやかって「松平元康」となり、1560年の桶狭間の戦いに参戦します。ここで今川義元が織田信長に討ち取られると、松平元康は独立を決めて、織田信長と同盟を結びました。今川家からの独立を機に名前を「松平家康」とかえ、その後「徳川家康」となりました。天下統一に邁進する織田信長とともに活躍し、1582年の本能寺の変のタイミングでは、駿河・遠江・三河の三か国という旧主である今川義元の版図と同等となっていました。本能寺の変勃発時には、堺に滞在していましたが、そこから伊賀越えをして三河へと戻り、信長死後の混乱の中で、旧武田家の領土である甲斐(山梨県)と信濃(長野県)も手中に収めることに成功しました。信長死後の中央の実権を握った秀吉とは、1584年に小牧・長久手の戦いで引き分けに持ち込むなど、合戦上手として名前を馳せます。その上で、秀吉に頭を下げて傘下入りし、1590年の小田原攻め後には、関東8か国に移封されました。豊臣政権下における最大の大名として五大老の一人に数えられ、秀吉死後に政治を差配します。反・家康の大名たちを関ケ原の戦いで蹴散らすと、1603年に征夷大将軍に就任して、江戸幕府を開きました。こんにちの東京が開発されたのは、徳川家康のおかげというわけです。その後、1605年に息子の秀忠に征夷大将軍の地位を譲ると、「大御所(元将軍)」として政治の実権を握り、最晩年となる1614・1615年の大坂冬の陣・夏の陣で、豊臣家を滅亡させて徳川家による天下を盤石のものとし、武家諸法度・禁中並公家諸法度・寺院諸法度などの法令を展開して、幕府による支配体制を固めたのを見届けて、1616年に当時としては長寿にあたる75歳で生涯を終えました。死後は、日光に東照大権現として祀られ、江戸時代を通じて「神君」とあがめられ、現代においても日光東照宮は世界遺産となり、日本そして海外から多くの参拝者を集めています。
ざっくり用語解説
徳川家康
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