秀頼は、豊臣秀頼(とよとみひでより)のことですね。秀吉と淀殿の間に生まれた第二子です。二人の間には、秀頼も前に鶴松という子がいたのですが、夭折してしまいました。鶴松を失った秀頼は、もう子宝に恵まれることはないだろうとあきらめ、関白の地位などを甥の豊臣秀次に譲りました。しかし、その後1593年に秀頼が誕生してしまったのです。結果、1595年に秀次とその家族たちは、秀吉の命により自害・殺害されてしまいました。秀頼は、1597年に早々と元服しましたが、秀吉が1598年に死去すると、まだ幼少ということもあり、政治の実権は徳川家康が握ります。関ケ原の戦いで、徳川家康が自分と敵対する勢力を排除し、1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、豊臣家の地位は徐々に下がっていきましたが、秀吉生前からの約束事に従って、家康の孫である千姫が秀頼に嫁ぐなど、徳川家と豊臣家は共存に向けた模索を続けました。しかし、1614年・1615年に大坂の陣が勃発。秀頼は、母淀殿とともに、大坂城にてその短い生涯を終えました。しかし、秀頼たちの絶命する瞬間やその遺体が見つからなかったことから生き延びたとする生存説も残っています。ただ、どれも伝説的な逸話の部類でしょう。
ざっくり用語解説
豊臣秀頼
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