豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名であり、天下人です。織田信長、徳川家康とともに「戦国の三英傑」の一人に数えられています。出身については、多少諸説ありですが、貧しい最下層の出身であることは間違いなく、日本の歴史上における史上最大・最強の成り上がりものと言えるでしょう。まさに下剋上の申し子です。織田信長にその才能を見出され、とんとん拍子に出世を重ね、名前を木下藤吉郎→木下秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉と変えていきました。本能寺の変で信長が横死すると、当時中国地方で毛利氏と対峙していた秀吉は、早々に和睦を締結して畿内にとってかえし、見事山崎の戦いで、明智光秀を討ち果たします。その結果、織田家における発言権が大きくなり、1583年の賤ヶ岳の戦いで、織田家宿老の柴田勝家を倒して織田家の実権を手中におさめ、さらに織田家を超えて朝廷から関白に任命されました。秀吉の異名である「太閤(たいこう)」とは、「元関白」という普通名詞で、秀吉以外にも太閤はいっぱいいるのですが、太閤といったら秀吉というほどに、絶対的権力者として君臨しました。最終的に1590年に小田原攻めにて、全国統一を果たしました。その後、国内統一した余勢を駆って、唐入りを目指して朝鮮出兵をしますが、ここで挫折。最終的に豊臣家の力を弱める形となってしまいました。秀吉は子宝に恵まれず、ようやく豊臣秀頼を得ましたが、1598年に秀頼がまだ6歳のときにその行く末を案じながら秀吉は死去しました。その辞世の句は、「露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことは 夢のまた夢」でした。
織田信長の部下だったころは明るくひょうきんなエピソードが多く残っていますが、絶対権力者になったあとは、甥の秀次とその家族を自害・斬殺するなど、暴君としての姿が見え隠れするようになり、前半生の印象と後半生の印象が大きく違います。やはり、権力というのは人間を大きく変えてしまうものなのでしょうか。