徳川吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第8代将軍(在職:1716年-1745年)。江戸幕府の中興の祖とも呼ばれています。暴れん坊将軍のモデルにもなっていますね。徳が将軍家ではなく、徳川御三家の一つ、和歌山藩の出身で、初代将軍・家康の曾孫にあたり、4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこ(家康からみたら同世代)にあたります。徳川御三家の出身ではあるんですが、母の身分も低く、末っ子の四男であったため、当初は松平頼久と名乗ります。徳川姓を許されなかったんですね。しかし、父の死後、和歌山藩を継承した兄たちが男子を残さずに相次いで亡くなってしまったため、思いがけずに和歌山藩主となり、さらに徳川将軍家も7代・家継が幼年で死去すると、徳川宗家を継承し、8代将軍となりました。
将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人・間部詮房や新井白石を罷免し、老中などから疎まれていた側用人という役職を廃止しましたが、新たに「御側御用取次」という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続しました。なので、老中に言いなりではなく、吉宗は自分のやりたい政治をドンドン進めていきます。江戸時代の三大改革として数えられている享保の改革ですね。
その中では、
幕府の収入安定のため、「新田開発」を推進し、「上米の制」「定免法」を採用しました。
優秀な人材登用のために「足高の制」を採用し、
訴訟の迅速化のために「公事方御定書」の制定
庶民の意見を聞くために「目安箱」の設置
などを実施しました。
このあたりの用語については、第10章の用語解説の中で触れます。
なんとか、幕府財政を黒字化に持っていくことには成功しましたが、増税政策によって百姓一揆の頻発が起きるなど、悪い面もありました。
1745年に将軍職を長男・家重に譲り、以降は大御所として実権を握り続けました。