末期養子(まつごようし)とは、江戸時代に武家の当主で嗣子のいない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のこと。ちなみに、今の説明はタテマエで(笑)。「末期(まだ死んでいない)」といいつつ、当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合がほとんどです。実態としては、「死後養子指定」といえます。
もともと、徳川家綱の代になる前の江戸時代において、この末期養子は禁止されていて、武家の当主が養子をとるには、きちんとした「事前申請」が必要でした。末期養子では「事後申請」になってしまいます。事後申請がOKなら、その当主の家臣団が当主を暗殺して、自分たちの都合の良い当主にすげかえることも可能になっちゃいますからね。まあ、それ以上に大名をできるだけ取り潰したいという江戸幕府の考えもありました。
特に、幕府の成立から3代将軍・家光の時代にかけて、嗣子がいないために取り潰される大名家が61もありました。大名を潰せばその分江戸幕府の支配力は高まりますが、その反面、潰れた大名家に仕えていた武士たちは浪人となってしまい、社会不安も増すことになったのです。大名が運営する藩は、現代においては大企業だと思ってもらえればよいかと。大企業が潰れるとその取引先含めて多くの失業者が発生して、社会不安がおきますよね?リーマン・ショックをある意味バシバシ江戸幕府は起こしていたわけですわ。
こんな風にして浪人(失業武士)が増えていった慶安4年(1651年)に起きたのが由井正雪の乱(慶安の変)だったわけです。また、由井正雪の乱の前の寛永14年(1637年)から翌年にかけて起こった島原の乱でも、多くの浪人が一揆に加わっていましたので、「ちょっと浪人増えすぎるのもヤバイな」ということで、江戸幕府の政治姿勢は、武断政治(強権的、大名抑圧的政治)から文治政治(穏健的、融和的政治)への転換を促したというわけです。