徳川家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府の第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)です。初名は綱豊(つなとよ)。将軍になる前には甲府藩主だったことから、「甲府宰相綱豊」という名前でも有名です。彼のお父さんは、5代将軍・綱吉の兄貴にあたる・徳川綱重でした。綱重も綱吉もどちらも、3代将軍家光の息子で、4代将軍家綱の弟でした。
4代将軍家綱は世継ぎが生まれる前に亡くなってしまいますが、家綱が死去する前に家宣のパパ、綱重も既に死んでしまっていました。そのため、3代将軍・家光の息子である徳川綱吉が5代将軍に就任しましたが、もし綱重が生きていたら、5代将軍は徳川綱吉ではなく、綱重が継ぐことになったことでしょう。そうなっていれば、すんなりと家宣が将軍になる道筋が立ったでしょう。しかし、まさに歴史の皮肉というか、家宣のパパ綱重が4代将軍・家綱が死ぬよりも前に死んだことで歴史は変わってしまいました。
家宣と、叔父にあたる5代将軍・綱吉は静かな対立関係にありました。そりゃあ家宣からしたら「ホントは俺が将軍になれたの!」だし、綱吉からしたら「いやいや、もう俺が将軍だから、将軍の地位は俺の血筋に継承させたいもん」となります。
綱吉は結局、男子には恵まれませんでした。そうなれば、じゃあ綱吉の次は家宣にすんなりと決まりそうですが、綱吉には娘はいたんです。そして、その娘が紀州徳川家に嫁に行っているんですね。だから、綱吉は当初、なかなか家宣を後継者として認めず、紀州徳川家を後継者にしたいと思っていました。
しかし、最終的にその願いはかなわず、死期を悟った綱吉は、ついに家宣を将軍の世継ぎとしました。そして、死に当たって「生類憐みの令は大事な法だからくれぐれも廃止するなよ」と遺言し、家宣も「かしこまりました。ご安心ください」と伝えます。ところがどっこい、綱吉が死んだ直後に家宣は「はーい、生類憐みの令は廃止でーす。綱吉叔父の政策はひっくりかえしまーす」とします。たぶん、めちゃくちゃ綱吉のことが嫌いだったんでしょうね。ただ、家宣の感覚としては、「これでやっと正統な将軍家の血筋に戻った」という感じだったのでしょう。
長い雌伏の時を経て、将軍にようやく就任した家宣でしたが、わずか在職3年で死んでしまいました。後継者の家継はまだ幼少にあり、その行く末を危ぶんだ家宣は、家臣団に「尾張徳川家に後見してもらおうか?いやいっそ尾張徳川家に宗家を任せようか?」と諮問しました。その心は、「絶対に紀州徳川家になんかに将軍宗家を渡したくない!」という一念だったと私は思いますね。
恨みって怖いわ。