平安時代の貴族、学者、政治家です。宇多天皇に重用され、宇多天皇が醍醐天皇に譲位すると、醍醐天皇の下で、藤原基経の嫡男・時平の左大臣に次ぐ、右大臣の地位に昇ります。藤原氏でもなければ皇族から臣籍降下した一族でもない、学者家系の出身者としては、当時かなり異例の大出世でした。さらに宇多天皇の息子に自分の三女を嫁がせるなど、大きな影響を持つ人物となっていました。しかし、901年の昌泰の変によって左遷。大宰府へと流されることになりました。その時に読んだ歌が、
「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
です。春になったら京都の自邸の梅の花が咲いて、東風に乗って大宰府まで匂いを届けてくれよなというこの歌は、胸に響きますね。
道真は903年に大宰府で失意のうちに死去します。
道真死後、平安京では次々と怪異現象が発生。あるいは自分の政敵であった藤原時平が若干39歳で病死するなど、道真の怨霊によるものだとされました。さらに930年には清涼殿(宮中の中でも天皇の御殿)に落雷が落ちて、大納言などの朝廷要人に多数の死傷者が出ました。これを目撃した醍醐天皇も体調を崩して3か月後に死去。これらも道真の怨霊によるものとされ、947年に北野天満宮において道真は神として祀られるようになりました。993年6月には贈正一位左大臣、同年閏10月には太政大臣が贈られました。
現代においても道真は学問の神様として受験シーズンをはじめとして多くの崇拝を集めています。
生前に道真がやったことで有名なことが、あと二つありまして、
1つが「阿衡事件」で基経をたしなめたこと。これで「おっ、こやつは只者ではないな」と思われるようになりました。
あともう一つが894年に遣唐大使に任命されましたが、唐が混乱していることを理由に再検討すべきといい、結果として派遣されないことになりました。このことを以て、遣唐使の終わりとされます。