ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

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藤原基経

藤原基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家の藤原冬嗣の長男藤原長良の三男で、摂政を務めていた叔父の藤原良房の養子となりました。良房の死後、清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇の四代にわたって朝廷の実権を握り、日本史上の初の関白となったとされる人物です。すなわたい、良房・基経の養父子によって、藤原摂関政治の基礎が固められたのでした。

陽成天皇を素行不良により廃立(天皇を退位)させ、仁明天皇(陽成天皇の曽祖父)の息子である光孝天皇を擁立しました。光孝天皇の時代に基経は事実上の関白となり、次代の宇多天皇のときに初めて「関白」という号が出てきました。この宇多天皇のときの関白就任では、基経を関白に任じる文書の中に「阿衡(あこう)」という文言があったことに基経は「阿衡とは、位は高いけど具体的な職掌のない名誉職のことだ!」と憤慨して、基経は政務放棄の挙に出ました。これは宇多天皇への基経による牽制だと思われますが、宇多天皇は困り果てて基経に真意を伝えて慰撫し、「阿衡」の文字を訂正することで悶着を収めました。この阿衡事件は888年のことでしたが、890年の冬に基経は病床について、891年死去しました。

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