第50代天皇。諱は山部(やまべ)。奈良の平城京から長岡京および平安京への遷都を行ったことで特に有名。その他、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、蝦夷征討に注力させるなど、積極的な政治を行いました。
光仁天皇の長男でしたが、生母(高野新笠、百済王家の末裔)の出自が低かったため皇太子になるとは思われておらず、実際光仁天皇が即位すると、皇太子には異母弟である他戸親王(おさべしんのう)がなりました。彼の母である皇后の井上内親王(いのえないしんのう)は聖武天皇の娘であるため、他戸親王は天智系の父、天武系の母という最高の血筋だったのです。ところが、772年4月に井上内親王が、同年5月には他戸親王が相次いで突如廃されたために、773年1月に山部親王が皇太子となったのでした。
この背景には、藤原式家の藤原百川による擁立があったとされています。なお井上内親王と他戸親王は775年6月3日同日に同じ幽閉先でともに逝去したため、暗殺説が濃厚です。桓武天皇は、即位の前から陰謀がうごめいていました。
781年に桓武天皇が即位すると、それまでの都である奈良の平城京からの遷都を計画します。これは諸説ありますが、一つに奈良の仏教勢力が強大化しているところから逃れたいことと同時に、平城京は天武系によってつくられた都であるため、天智系の桓武天皇としては新しい都を欲したという側面もありそうです。
まず、784年に長岡京の造営を始めます。藤原式家出身の藤原種継が責任者として進みますが、785年にこの藤原種継が暗殺される事件が発生。その黒幕として、桓武天皇の同母弟である早良親王の名が挙がります。早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを実行しますが、流罪となり、絶食を続けたため配流途中にて絶命します。
その後、桓武天皇の皇太子には桓武天皇の息子がなりますが、長岡京の造営は遅々として進まず、近親者の不幸も続いたことから早良親王のタタリを恐れるようになりました。
和気清麻呂らの進言により、長岡京の造営をあきらめ、新しく794年に平安京へと遷都します。また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、蝦夷征討を敢行、征夷大将軍に坂上田村麻呂を抜擢しました。
しかし、積極的な政治にはお金がかかります。平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長男)の建言を容れて、いずれも中断(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政相論)。
そのほか、地方行政を監査する勘解由使の設置、健児の制を導入して百姓らの兵役の負担の解消を目指しました。ただし、健児の制は間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になっていきました。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされています。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしました。
歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政(天皇みずから政治をすること)を実施しましたが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われます。
806年、70歳にて死去。