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承和の変

842年に起きた皇位継承を巡る政変です。

桓武天皇の死後、皇位継承を巡っては兄弟間でのたすき掛け人事のように天皇位と皇太子が定められていきました。

(括弧内に特に断りがない場合は、前者との関係、すなわち「平城(長男)」は「平城(桓武の長男)」という意)

桓武⇒平城(長男)⇒嵯峨(弟)⇒高岳親王(甥)×⇒淳和(異母弟)⇒仁明(甥)⇒恒貞親王(父は淳和、母は嵯峨の娘、仁明の同母妹)という流れがありました。

天皇位は次々と継承されていきましたが、この頃の天皇家で最大の権威・権力を握っていたのは薬子の変に勝利した嵯峨上皇で、彼の意向というものが何者にも勝っており、皇位継承について彼の意向を無視できる人はいませんでした。

淳和上皇は、自身の政治的基盤が弱いことを理解しており、自分の息子ではなく甥、すなわち嵯峨上皇の息子に皇位を譲って、皇統を嵯峨系統に戻したいと思っていました。実際に833年に仁明天皇(嵯峨の息子)が即位すると、今度は、嵯峨上皇の意向で、その皇太子には淳和上皇の息子を指名したのです。また淳和系統に戻ることになってしまいました。ただ、実はこの恒貞親王という人物は、母が嵯峨上皇の娘であるため、嵯峨からみても自分の孫にあたったのです。嵯峨上皇としては、この皇太子人事は父系では淳和系統、母系では嵯峨系統を継承していくことになるので、満点人事だと思ったのでしょう。

しかし、即位した仁明天皇には、政界の実力者である藤原冬嗣の娘との間に生まれた道康親王がいたのです。藤原冬嗣の息子であり、道康親王の伯父にあたる藤原良房は、道康親王の皇位継承を強く望むのでした。淳和上皇・恒貞親王としては、しばしば皇太子辞退を願い出るのですが、嵯峨上皇は頷きません。そうこうしているうちに840年に淳和上皇が、842年には嵯峨上皇が相次いで亡くなります。

嵯峨上皇が存命の間は、薬子の変以降約40年間にわたって、平穏な時代だったのですが、大権力者がなくなり、時代がまさに変わったその瞬間に新たな政変が勃発しました。

嵯峨上皇の死後直後の842年に「承和の変」が勃発。当時皇太子だった恒貞親王に仕えていた伴健岑橘逸勢が謀反を企んだとして捕縛、皇太子もこれに連座して廃されました。新しい皇太子には、仁明天皇の息子である道康親王(のちの文徳天皇、母は藤原冬嗣の娘)が立てられました。

承和の変を主導したのは、藤原良房(藤原冬嗣の息子)だったとみられ、変後に大納言に昇進しています。

この変によって、古来からの名族である伴氏(大伴氏)、橘諸兄以来の橘氏が排斥されると同時に、藤原氏でも良房のライバルたちも追い落とされることになり、藤原北家の威勢が高まるきっかけとなりました。

長くなりました、承和の変を纏めると以下のとおりです。

・桓武天皇以降の皇位継承のたすき掛け人事の解消(嵯峨天皇系統への一本化)

・藤原氏による他氏排斥事件の最初(藤原良房が出世!)

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