第57代天皇。在位876年‐884年。清和天皇の息子で、生後3カ月足らずで皇太子となり、876年に9歳で父・清和天皇から譲位を受けて天皇となりました。母方の伯父である藤原基経が摂政となり、政治は父・清和上皇と摂政・基経が協力しておこなっていました。880年に清和上皇が死去すると、陽成天皇と基経の関係は悪化したようで、883年8月から基経は出仕(宮中に参内すること)を拒否するようになりました。基経が出仕拒否するようになってからしばらくした883年11月に大事件が起きます。陽成天皇の乳兄弟だった源益(みなもと の まさる)が殿上で陽成天皇に近侍していたところ、「何者」かによって殴殺されるという事件が起きたのでした。事件の経緯や犯人は何の記録も残されていませんが、故意か事故かは不明なものの、状況的に陽成天皇が事件に関与していたと考えられます。宮中での殺人事件という未曽有の異常事態に、基経から迫られて翌年2月に陽成天皇は退位しました。(公式には病気による自発的譲位。)
幼少の陽成天皇にはそれまでも奇矯な振る舞いが見られたとされますが、退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、殴殺事件については疑問点も多く、基経の策謀・陰謀があったのではないかという指摘もあります。真実は闇の中ですね。
退位後には幾度か歌合を催し、自身の歌としては『小倉百人一首』にも採録された下記一首のみが『後撰和歌集』に入撰されています。
「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人一首では「淵となりぬる」)
上皇としての実権はなかったものの、長命を保ち、上皇歴65年は歴代1位で、2位の後水尾上皇の50年を大きく引き離しています。宇多天皇の次代の醍醐天皇よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇・村上天皇と光孝天皇の系統による皇位継承を見届けた後、949年に81歳にて死去。