第60代天皇。在位897‐930年。現在に至るまで臣籍の身分として生まれた唯一の天皇の事例となります。というのも、第56代清和天皇のあとを、その息子である第57代陽成天皇が引き継いだのですが、素行不良により天皇を退位させられることとなりました(いちおう自発的な退位ではありますが)。その際に白羽の矢が立ったのが、清和天皇の叔父さん(清和天皇パパの異母弟)にあたる第58代光孝天皇だったのです。光孝天皇は天皇位を継ぎますが、この段階ではまだ清和天皇の息子が陽成天皇以外にもいたため、中継ぎ的な意味合いもあり得ました。光孝天皇は子だくさんだったので、自分の子どもたち26人を臣籍降下させたのですが、その一人に醍醐天皇のパパである宇多天皇がいたのでした。宇多天皇、本名「定省(さだみ)」は、源姓を与えられて、「源定省」となっている間に誕生したのが、醍醐天皇だったのです。
しかし、結局色々と皇位継承をめぐる思惑が錯綜として、最終的に「源定省」は皇族に復帰して皇太子となり、第59代宇多天皇となり、その第一皇子だった醍醐天皇も皇族に復帰して、パパから譲位を受けて第60代天皇となったのでした。
宇多天皇は生まれたときは皇族⇒臣籍降下⇒皇族復帰⇒即位
醍醐天皇は生まれたときは臣籍⇒皇族復帰⇒即位
ということで、この二人の天皇は、現代の旧皇族復帰問題の際に先例として検討されたり、名前が上がったりします。
醍醐天皇の時代は、摂政関白がおらず、菅原道真の起用・左遷、藤原北家の嫡男の早死などの背景もあって、天皇が親政(君主みずから政治にあたること)していた時代として、「延喜の治」として天皇親政の理想的な時代と謳われるようになりました。